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第一章 二本松の種子
三春狐
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棚倉城が落ちたが、二本松はまだ白河を諦めてはいなかった。
七月一日、これより先大谷鳴海、青山伊右衛門の二個小隊が追原に宿陣していた。この日、仙台の三個小隊と、会津兵一個小隊と合流し、白河へ進撃しようとした。
青山隊がまず夜半密かに進軍して堀川に宿陣し、白河城下の水道を断った。一方、大谷隊は火を下新田に放って仙台兵に合流しようとしたが、途中で夜が明けてしまい、兵を中山に旋回して仙台兵と合流した。
戦いは、仙台・会津兵の発砲から始まった。それら両軍に続いて二本松隊も前進し、これに従う。
戦闘は数時間に及んだが、次第に仙台兵の弾薬が欠乏して退却し始めた。続けて、会津の隊長蜷川友次郎も負傷し、軍は壊滅した。残された大谷鳴海はすこぶる苦戦し、堀川にいた青山伊右衛門が救援にやってきて、やっと兵を引き上げることができた。
それだけではない。磐城方面では既に六月二十八日に泉、二十九日には湯長谷が西軍の手に落ちた。
「仙台はあまりにも情けない」
鳴海がぼやいた。
「全くですな」
青山も、激しくそれに同意する。二人が帰陣して後、会津侯から各々に刀一口が贈られて労を労われたが、それで二人の労が報われるものでもなかった。
「仙台など、敵の砲が聞こえた途端に蜘蛛の子を散らすように逃げていきよる」
鳴海の口調は苦々しげだった。
「まこと、仙台は当てになりませぬ。政宗公も、草場の影で苦虫を噛み潰しておろう」
仙台藩の祖は、かつての奥州の覇者、伊達政宗公である。その気概はどこへ行ったのかと、二人は情けなかった。
もっとも、仙台には仙台の事情もある。元々藩内では「薩長について家名を存続すべし」と考える討会派と、会津を助けるべしと考える親会派に分裂していた。仙台の総責任者である坂英力は親会派だったが、前線の指揮官である増田歴治は、討会派だった。仙台藩が奥羽列藩同盟の盟主となった以上、しぶしぶ前線に立ってはいるが、このような将の下にいる兵士の士気は、自ずと知れたものだった。
仙台でも自藩の兵らの余りの不甲斐なさに業を煮やしたのか、三日には仙台から、坂英力と真田喜平太が白河へ向かって急行した。「もし退く者あらば、これを斬ることを命じる」という、厳しい命令付きである。
また、会津藩も度重なる敗戦の責任を取らされて、西郷頼母が罷免されるなど動揺が走った。
一方、二本松藩では須賀川の兵力を補填するべく、須賀川口に一個小隊を出した。准銃士隊長大谷志摩、軍事方飯田唱、大砲隊木村貫治、井上権平がこれを率いており、遊撃隊と名付けられた。いわば、ゲリラ部隊である。
十二日には須賀川において、二本松からは丹羽丹波、仙台からは坂英力、会津からは田中源之進が出席して軍議が開かれた。二本松藩としては、白河攻防の可否が即刻藩の命運に結びつくだけに、重大な関心事だったのである。
夕刻まで開かれた軍議では、次の事柄が定められた。
• 七月十四日、子の刻(午後十二時)に夜襲すること。棚倉藩兵の者十名が農夫に扮装し、火薬を携えて白河城へ入り込み、砲声を合図に火を所々に放つこと。
• 棚倉口より仙台の細谷十太夫の隊が先手となって、次に小竹長兵衛の二小隊が単独で動き、敵陣中を駈け散らし、会津境へ駆け抜け同所の胸壁に着く。同時に会津兵を進撃せる。
(ただし棚倉からの敵の応援の押さえとして、水戸脱藩一個小隊、仙台藩三浦源太、大条権左衛門、山家豊三郎、但木養助各一個小隊ずつ率いて白河と棚倉との間に控えるべし)
• 白河の艮にある月山口より仙台の大松澤掃部之輔、大立目武蔵は各々手勢を率いて三組に分けて襲撃し、戦闘をあえてせず、単に関門を破り関外に駈け出で、速やかに根田の左右の胸壁に付く。もし味方が敗走し敵が尾撃すれば、これを食い止めるべし。
(ただし、月山より敵が討って出るのを阻止するため、真山仲太夫、根来平兵衛、太田某各一隊を率いて山上で待機)
• 本道白河関門口は、先鋒は猪苗代城代田中源之進が五小隊を率いて関門に迫り、細谷の合図で大松沢の関門を開くと同時に入れ替わり襲撃すべし。
(右応援として赤坂幸太夫の四小隊が控え、左右の胸壁には伊達安芸三小隊、古内右近之介二個小隊、片倉小十郎二個小隊が胸壁に備え、万が一猪苗代隊が破潰し敵が尾撃するときはこれを防御すること)
• 白河乾方面の山に添って中島兵衛之介の一大隊を以て、白河本道より会津境まで戦地綿々、細道があるので、要所々々に討ち入るかのような虚勢を張ること
仙台の面子を立てようとしていたのだろうか。それとも人員を出すだけの余裕がなかったのだろうか。この戦闘に、二本松藩は参加していない。
夕方から降り出した雨は豪雨となり、泥濘は脛を浸し、行動はすこぶる困難だった。十五日未明には白河に到達していなければならなかったが、本隊が白河に到着したのは、空が白み始める頃だった。参謀の真田は作戦の中止を決めたが、ぬかるむ道に足を取られて、その連絡もうまくいかない。そのうち、会津が発砲し、これを機に戦闘が始まった。こちらが砲陣を立てられないうちに、容赦なく西軍の銃弾が降り注ぐ。
加えて仙台の参謀である増田歴治が士卒に先立って退却を始めると、左右の諸隊がこれに倣って退く。棚倉及び月山口の諸隊は未だに到着していなかった。
会津の田中隊は敵に包囲されて多大な損害を被って退却。結局これが、白河最後の攻撃となった。
東軍は戦いを重ねるごとに不利になり、多くの犠牲を払ったが、ついに白河城を回復することはできなかった。
同じ日に、「磐城の平城落つ」との早馬も須賀川に到着したばかりだった。
西軍は、棚倉及び浜街道の兵を、蓬田・小野新町方面から進め三春を調略し、白河方面における東軍の後方を絶とうとした。陸からも、海からも確実に西軍の手が伸ばされようとしていた。
「では、白河を諦めると申されるのかっ!」
丹波は坂英力や真田に向かって口角泡を飛ばす勢いで、食って掛かった。
「仕方があるまい。南部が西軍へ内通しているという話も聞こえてきている。それに、平が堕ちた今、相馬もどう動くか分からぬ」
坂英力が苦っぽい顔で答えた。白河が奥州の要であるところは衆目一致するところであるが、最早、仙台藩の被害も甚大になりつつある。この上、自藩の戦力を割く余力があるかどうかは、仙台も自信がなかった。だが本当のところは、何よりも自藩の安全が大切であり、白河から仙台までは遥かに遠い。ぐずぐずして国元に帰れなくなっては、元も子もなかった。
丹波は、会津の田中と顔を見合わせた。白河の関はそのまま会津へも街道が走っている。会津としても、白河口を押さえておかなければ困るはずなのだが、何よりも危急の縁に立たされているのは、二本松だった。
「それよりも、二本松が負け続けているのは、どうされたことか」
皮肉めいた口調で、逆に真田が丹波に問うた。
「それは……」
先日の軍議における増田の当てこすりを思い出した。仙台は、二本松を疑っているのか。
確かに、二本松も西軍に勝てないでいた。だが、そもそもお主らの後始末で、多くの兵が失われたのではないか。そう怒鳴りつけたいのは山々だが、ここは公の議の場である。横を見ると、番頭の大谷鳴海や青山らが拳を震わせているのが、ちらりと見えた。
丹波が黙りこくったのを見届けると、真田ら仙台の一行は「御免」と言って、席を立った。
翌十六日には、東軍は矛先を変えて浅川を攻めた。白河奪還が無理であるのが明白である以上、周辺から巻き返して行くしかあるまい。誰からともなくそのような意見が出され、東軍はまずは棚倉奪還を目指すことにしたのである。会津、仙台、三春、二本松、棚倉の連合軍である。
浅川の渡しを挟んで、両軍は対峙した。西軍がまずは先頭の会津兵に銃撃を集中させ、会津が崩れたところで西軍は浅川の後方に出て、仙台・二本松の兵に激しく撃ちかけてくる。
ところがここで、驚くべき事態が起きた。
応援に駆けつけたはずの三春藩が仙台兵に向けて発砲したという。
「まさか」
「あいつら、敵と間違えているのではないか」
慌てて味方の旗を掲げたが、尚も三春は撃ってくる。
裏切られた。
この三春の裏切りもあり、東軍はまたしても敗北を喫した。東軍は須賀川と郡山に兵を退かせて、直ちに軍議が開かれた。
当然、軍議の席では三春藩に非難が集中する。
「まず、三春を討つべきである」
そう主張したのは、発砲された仙台藩である。
「三春は、前から背叛の噂がありもうしたな」
丹波も重々しく頷いた。二本松藩ではどうも三春がきな臭いと睨み、既に七日に樽井弥五右衛門隊・大谷与兵衛隊を、三春との国境に派遣していた。元々、三春藩は二本松などと比較しても勤王の士風が強い風潮があったため、二本松でも警戒していたのである。
「怪しいと言えば、守山もそうだ」
丹波らのいる陣にも、用人瀬尾右衛門兵衛から報告の使者が来ていた。十八日、二本松領である和田村において、守山藩の農民が紛れ込んでいた。守山藩は水戸藩の支藩であり、水戸宗家が恭順の意思を示している以上、これに倣うだろうというのが、二本松の見立てだった。
両藩を討つべし、との声が高まった。
「だが、疑いだけで討つのは早計であり、士道に背かぬか」
一旦探索を出して、それから申開きを聴こうではないか。
ひとまず、細谷十太郎率いる衝撃隊(別名烏組)から三春城下に探索を出した結果、やはり西軍の使者らしきものを見かけたという。
「やはり、裏切っておったか」
丹波は歯ぎしりをして悔しがった。
「いや、まだ決めつけられぬ」
慎重論を唱えたのは、仙台藩士、氏家兵庫である。
「仙台藩に向けて発砲したのは、紛れもない事実。だが、反盟の証拠もないのにこれを討てば、同盟各藩の人心は離れるであろう」
確かに、兵庫の言うことも一理あった。翌日、兵庫は三春に足を運んだ。
面談した藩の重役はひたすら低姿勢で、「一時の錯誤なるものであれば」と繰り返し謝罪した。戦闘の混乱の中で、誤って発砲してしまったという。
「裏切りではないと申されるのだな」
兵庫は強く念を押した。
「いかにも」
三春の者たちは、平身低頭を繰り返している。この様子であれば、まことに間違えたのだろう。兵庫は、三春家臣の言を信じて帰営した。
それだけではない。福島軍務局へ、「我が藩危急なり」と救援依頼の使者を遣わしている。あくまでも同盟を装うためだとすれば、実に巧妙な手口だった。
瀬尾は、「三春辺から二本松に到るまで、押さえの兵がいない。ご一考されたい」との救援要請を出していた。
***
銃太郎の元へも、父から手紙が届けられていた。文面は、次のようなものである。
(七月)五日、わが藩兵を須賀川口下宿村に出す。遊撃隊と称す。大砲隊は余と井上権平これを率ゆ。仙台藩軍事総裁坂英力一個大隊の兵を率い来り、須賀川に陣す。終日、大雨沛然、泥濘膝を没し、行動すこぶる困難にして、左右連絡不十分なり。弾薬尽く。利あらず。涙をのんで須賀川に退く。わが砲兵隊の戦死五名。
事実だけが淡々と記されているその手紙に、義母であるミテは、黙って涙を流していた。父も、この雨に難儀しているようである。そして、また新たに城下で葬式が営まれた。
七月一日、これより先大谷鳴海、青山伊右衛門の二個小隊が追原に宿陣していた。この日、仙台の三個小隊と、会津兵一個小隊と合流し、白河へ進撃しようとした。
青山隊がまず夜半密かに進軍して堀川に宿陣し、白河城下の水道を断った。一方、大谷隊は火を下新田に放って仙台兵に合流しようとしたが、途中で夜が明けてしまい、兵を中山に旋回して仙台兵と合流した。
戦いは、仙台・会津兵の発砲から始まった。それら両軍に続いて二本松隊も前進し、これに従う。
戦闘は数時間に及んだが、次第に仙台兵の弾薬が欠乏して退却し始めた。続けて、会津の隊長蜷川友次郎も負傷し、軍は壊滅した。残された大谷鳴海はすこぶる苦戦し、堀川にいた青山伊右衛門が救援にやってきて、やっと兵を引き上げることができた。
それだけではない。磐城方面では既に六月二十八日に泉、二十九日には湯長谷が西軍の手に落ちた。
「仙台はあまりにも情けない」
鳴海がぼやいた。
「全くですな」
青山も、激しくそれに同意する。二人が帰陣して後、会津侯から各々に刀一口が贈られて労を労われたが、それで二人の労が報われるものでもなかった。
「仙台など、敵の砲が聞こえた途端に蜘蛛の子を散らすように逃げていきよる」
鳴海の口調は苦々しげだった。
「まこと、仙台は当てになりませぬ。政宗公も、草場の影で苦虫を噛み潰しておろう」
仙台藩の祖は、かつての奥州の覇者、伊達政宗公である。その気概はどこへ行ったのかと、二人は情けなかった。
もっとも、仙台には仙台の事情もある。元々藩内では「薩長について家名を存続すべし」と考える討会派と、会津を助けるべしと考える親会派に分裂していた。仙台の総責任者である坂英力は親会派だったが、前線の指揮官である増田歴治は、討会派だった。仙台藩が奥羽列藩同盟の盟主となった以上、しぶしぶ前線に立ってはいるが、このような将の下にいる兵士の士気は、自ずと知れたものだった。
仙台でも自藩の兵らの余りの不甲斐なさに業を煮やしたのか、三日には仙台から、坂英力と真田喜平太が白河へ向かって急行した。「もし退く者あらば、これを斬ることを命じる」という、厳しい命令付きである。
また、会津藩も度重なる敗戦の責任を取らされて、西郷頼母が罷免されるなど動揺が走った。
一方、二本松藩では須賀川の兵力を補填するべく、須賀川口に一個小隊を出した。准銃士隊長大谷志摩、軍事方飯田唱、大砲隊木村貫治、井上権平がこれを率いており、遊撃隊と名付けられた。いわば、ゲリラ部隊である。
十二日には須賀川において、二本松からは丹羽丹波、仙台からは坂英力、会津からは田中源之進が出席して軍議が開かれた。二本松藩としては、白河攻防の可否が即刻藩の命運に結びつくだけに、重大な関心事だったのである。
夕刻まで開かれた軍議では、次の事柄が定められた。
• 七月十四日、子の刻(午後十二時)に夜襲すること。棚倉藩兵の者十名が農夫に扮装し、火薬を携えて白河城へ入り込み、砲声を合図に火を所々に放つこと。
• 棚倉口より仙台の細谷十太夫の隊が先手となって、次に小竹長兵衛の二小隊が単独で動き、敵陣中を駈け散らし、会津境へ駆け抜け同所の胸壁に着く。同時に会津兵を進撃せる。
(ただし棚倉からの敵の応援の押さえとして、水戸脱藩一個小隊、仙台藩三浦源太、大条権左衛門、山家豊三郎、但木養助各一個小隊ずつ率いて白河と棚倉との間に控えるべし)
• 白河の艮にある月山口より仙台の大松澤掃部之輔、大立目武蔵は各々手勢を率いて三組に分けて襲撃し、戦闘をあえてせず、単に関門を破り関外に駈け出で、速やかに根田の左右の胸壁に付く。もし味方が敗走し敵が尾撃すれば、これを食い止めるべし。
(ただし、月山より敵が討って出るのを阻止するため、真山仲太夫、根来平兵衛、太田某各一隊を率いて山上で待機)
• 本道白河関門口は、先鋒は猪苗代城代田中源之進が五小隊を率いて関門に迫り、細谷の合図で大松沢の関門を開くと同時に入れ替わり襲撃すべし。
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仙台の面子を立てようとしていたのだろうか。それとも人員を出すだけの余裕がなかったのだろうか。この戦闘に、二本松藩は参加していない。
夕方から降り出した雨は豪雨となり、泥濘は脛を浸し、行動はすこぶる困難だった。十五日未明には白河に到達していなければならなかったが、本隊が白河に到着したのは、空が白み始める頃だった。参謀の真田は作戦の中止を決めたが、ぬかるむ道に足を取られて、その連絡もうまくいかない。そのうち、会津が発砲し、これを機に戦闘が始まった。こちらが砲陣を立てられないうちに、容赦なく西軍の銃弾が降り注ぐ。
加えて仙台の参謀である増田歴治が士卒に先立って退却を始めると、左右の諸隊がこれに倣って退く。棚倉及び月山口の諸隊は未だに到着していなかった。
会津の田中隊は敵に包囲されて多大な損害を被って退却。結局これが、白河最後の攻撃となった。
東軍は戦いを重ねるごとに不利になり、多くの犠牲を払ったが、ついに白河城を回復することはできなかった。
同じ日に、「磐城の平城落つ」との早馬も須賀川に到着したばかりだった。
西軍は、棚倉及び浜街道の兵を、蓬田・小野新町方面から進め三春を調略し、白河方面における東軍の後方を絶とうとした。陸からも、海からも確実に西軍の手が伸ばされようとしていた。
「では、白河を諦めると申されるのかっ!」
丹波は坂英力や真田に向かって口角泡を飛ばす勢いで、食って掛かった。
「仕方があるまい。南部が西軍へ内通しているという話も聞こえてきている。それに、平が堕ちた今、相馬もどう動くか分からぬ」
坂英力が苦っぽい顔で答えた。白河が奥州の要であるところは衆目一致するところであるが、最早、仙台藩の被害も甚大になりつつある。この上、自藩の戦力を割く余力があるかどうかは、仙台も自信がなかった。だが本当のところは、何よりも自藩の安全が大切であり、白河から仙台までは遥かに遠い。ぐずぐずして国元に帰れなくなっては、元も子もなかった。
丹波は、会津の田中と顔を見合わせた。白河の関はそのまま会津へも街道が走っている。会津としても、白河口を押さえておかなければ困るはずなのだが、何よりも危急の縁に立たされているのは、二本松だった。
「それよりも、二本松が負け続けているのは、どうされたことか」
皮肉めいた口調で、逆に真田が丹波に問うた。
「それは……」
先日の軍議における増田の当てこすりを思い出した。仙台は、二本松を疑っているのか。
確かに、二本松も西軍に勝てないでいた。だが、そもそもお主らの後始末で、多くの兵が失われたのではないか。そう怒鳴りつけたいのは山々だが、ここは公の議の場である。横を見ると、番頭の大谷鳴海や青山らが拳を震わせているのが、ちらりと見えた。
丹波が黙りこくったのを見届けると、真田ら仙台の一行は「御免」と言って、席を立った。
翌十六日には、東軍は矛先を変えて浅川を攻めた。白河奪還が無理であるのが明白である以上、周辺から巻き返して行くしかあるまい。誰からともなくそのような意見が出され、東軍はまずは棚倉奪還を目指すことにしたのである。会津、仙台、三春、二本松、棚倉の連合軍である。
浅川の渡しを挟んで、両軍は対峙した。西軍がまずは先頭の会津兵に銃撃を集中させ、会津が崩れたところで西軍は浅川の後方に出て、仙台・二本松の兵に激しく撃ちかけてくる。
ところがここで、驚くべき事態が起きた。
応援に駆けつけたはずの三春藩が仙台兵に向けて発砲したという。
「まさか」
「あいつら、敵と間違えているのではないか」
慌てて味方の旗を掲げたが、尚も三春は撃ってくる。
裏切られた。
この三春の裏切りもあり、東軍はまたしても敗北を喫した。東軍は須賀川と郡山に兵を退かせて、直ちに軍議が開かれた。
当然、軍議の席では三春藩に非難が集中する。
「まず、三春を討つべきである」
そう主張したのは、発砲された仙台藩である。
「三春は、前から背叛の噂がありもうしたな」
丹波も重々しく頷いた。二本松藩ではどうも三春がきな臭いと睨み、既に七日に樽井弥五右衛門隊・大谷与兵衛隊を、三春との国境に派遣していた。元々、三春藩は二本松などと比較しても勤王の士風が強い風潮があったため、二本松でも警戒していたのである。
「怪しいと言えば、守山もそうだ」
丹波らのいる陣にも、用人瀬尾右衛門兵衛から報告の使者が来ていた。十八日、二本松領である和田村において、守山藩の農民が紛れ込んでいた。守山藩は水戸藩の支藩であり、水戸宗家が恭順の意思を示している以上、これに倣うだろうというのが、二本松の見立てだった。
両藩を討つべし、との声が高まった。
「だが、疑いだけで討つのは早計であり、士道に背かぬか」
一旦探索を出して、それから申開きを聴こうではないか。
ひとまず、細谷十太郎率いる衝撃隊(別名烏組)から三春城下に探索を出した結果、やはり西軍の使者らしきものを見かけたという。
「やはり、裏切っておったか」
丹波は歯ぎしりをして悔しがった。
「いや、まだ決めつけられぬ」
慎重論を唱えたのは、仙台藩士、氏家兵庫である。
「仙台藩に向けて発砲したのは、紛れもない事実。だが、反盟の証拠もないのにこれを討てば、同盟各藩の人心は離れるであろう」
確かに、兵庫の言うことも一理あった。翌日、兵庫は三春に足を運んだ。
面談した藩の重役はひたすら低姿勢で、「一時の錯誤なるものであれば」と繰り返し謝罪した。戦闘の混乱の中で、誤って発砲してしまったという。
「裏切りではないと申されるのだな」
兵庫は強く念を押した。
「いかにも」
三春の者たちは、平身低頭を繰り返している。この様子であれば、まことに間違えたのだろう。兵庫は、三春家臣の言を信じて帰営した。
それだけではない。福島軍務局へ、「我が藩危急なり」と救援依頼の使者を遣わしている。あくまでも同盟を装うためだとすれば、実に巧妙な手口だった。
瀬尾は、「三春辺から二本松に到るまで、押さえの兵がいない。ご一考されたい」との救援要請を出していた。
***
銃太郎の元へも、父から手紙が届けられていた。文面は、次のようなものである。
(七月)五日、わが藩兵を須賀川口下宿村に出す。遊撃隊と称す。大砲隊は余と井上権平これを率ゆ。仙台藩軍事総裁坂英力一個大隊の兵を率い来り、須賀川に陣す。終日、大雨沛然、泥濘膝を没し、行動すこぶる困難にして、左右連絡不十分なり。弾薬尽く。利あらず。涙をのんで須賀川に退く。わが砲兵隊の戦死五名。
事実だけが淡々と記されているその手紙に、義母であるミテは、黙って涙を流していた。父も、この雨に難儀しているようである。そして、また新たに城下で葬式が営まれた。
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