直違の紋に誓って

篠川翠

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第一章 二本松の種子

風雲急を告ぐ

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 新十郎らが会津を救わんと鳩首凝議していた間に、十九日には旧幕府軍が守る宇都宮城が陥落した。
 
 四月二十六日。仙米両藩から総督府に対し、仙台藩主伊達慶邦名義で、一通の届出が出された。

 會津容保謝罪嘆願の爲め家来共別紙名面書立之通罷越候由米沢より申入候に付陣門へ相通し承申候先以て此段御届申上候 以上
 四月二十六日 
            仙台中将内 但木土佐
            米沢中将内 竹俣美作

 会津容保使者
 梶原平馬、伊東左太夫、河原善右衛門、土屋宗太郎、山田貞助  

 会津が謝罪嘆願のために家来を派遣してきているので、その旨を届け出る、という内容である。
 仙台藩及び米沢藩は、先の会津での会談後も、引き続き会津藩の説得に当たっていた。
 総督府への届出通り、二十九日には仙台と米沢の国境である関宿に会津藩の使者が訪れた。この地が選ばれたのは、当時総督府の本営が置かれていた岩沼から遠いという事情もある。
 仙台藩の坂英力、但木土佐、真田喜平太らと会津藩の使者五名による激しい応酬が交わされたが、仙台藩使者の意見を聴いた梶原平馬は、一応肥後守に稟議を申し上げた上で、謀主の首級を出して悔悟の実を表し嘆願書を持参すると応じて、この会談は終わった。

 会談結果は、直ちに二本松にも知らされた。藩公の密命を帯びた一学、新十郎、飯田唱は、閏四月三日に二本松を出立し、翌日白石の米沢藩宿所と訪ねたところ、改めて関宿で会合を開く。二本松にも出席してほしいとの内示があった。
「――そのようなわけで、長国公にもご出席頂けぬか」
 米沢の木滑は、二本松藩公にも同行してもらいたいというのである。だが、長国公は生来病弱であり、とてもそのような会談に耐えられない。一学らは、木滑らに頭を下げて了承してもらい、仙台の宿所でも長国公の欠席について了承してもらった。
「だが、会津の嘆願が受け入れられなかった場合は、どうなりましょう」
 一学や新十郎よりもやや年若の飯田唱は、不安そうだ。
「その場合は、東北諸藩が兵を出すことになるかもしれぬ」
 一学は、厳しい顔をしていた。新十郎も、同じ見立てである。
「現に下参謀の世良らは、まだ我が領内におって、あれこれと指図しておる。あの世良殿のことだ。会津の言い分を聞き入れるとは、到底思えぬ」
 一学や新十郎が周旋に東奔西走している一方で、先の土湯つちゆ口に続き、中山口、御霊櫃ごれいびつ口などでも小競り合いが続いていた。また、そのために会津兵が中山村、只野村などにおいてしばしば放火や掠奪を繰り返している。二本松からは今後のことを考え、特に会津に抗議する真似は控えていたが、念のため、成田助九郎や内藤隼人はやとに命じて、この方面を取り締まらせていた。
 その翌日、「会津降伏謝罪の嘆願があり、これについて評議する。ついては、重臣を派遣してほしい」という、列藩会議の招請状が奥羽諸藩に出された。差出人は、仙台藩但木土佐、坂英力、米沢藩竹股美作、千坂太郎左衛門である。
 この矛盾した状況において、どのような判断をすべきか。一学は、公を初めとする首脳部へ報告し、今後の方針を確認するために、一旦飯田を二本松へ向かわせた。
 その間も、仙米両藩と會津の交渉は続き、会津側の降伏条件は、

 • 容保公の城外謹慎
 • 削封
 • 謀主の首級差出し

 で、ほぼまとまりつつあった。
 同月十一日には米沢藩主上杉斉憲が白石に到着。十四藩の重臣が集い、会議が開かれた。通称、「白石会議」である。二本松藩からは、一学がと新十郎が出席した。
 この席では、仙台の但木土佐から嘆願書周旋についての大略や趣旨が説明された後、仙米両藩が作成した嘆願書が披見された。

 まず、会津から提出されたのは、次のような文面である。
 
 弊藩の義は山谷の間に僻居罷在風気風陋劣人心頑愚にして古習に泥み世変に暗く制駁難渋の土俗に御座候処老寡君京都守護職被申付候以来乍不及天朝尊崇奉安宸襟度一途の存意より他事無之粉骨砕身罷在万端不行届の義に候へども御垂憐を蒙り多年間何とか奉職罷在臣子の冥加無此上難有奉存鴻恩万分の一も奉報度閉国奮励罷在奉対朝廷御後暗き体の心事神人に誓ひ毛頭無御座伏見一挙の義は事卒然に発ち不得止次第柄にて是亦異心等有之義には毛頭無之候へ共一旦奉驚天朝候段奉恐入候次第に付帰邑の上退隠恭順罷在候今度鎮撫使御東下尊藩へ征討の命相下候由に承知愕然の至斯迄奉悩宸襟候義何共可申上様無御座此上城中に安居候ては奉恐入候に付城外屏居罷在奉待御沙汰候間一視同仁の御宥恕を以て寛大の御沙汰被成下度家臣挙て奉嘆願候右の段々幾重にも厚く御汲量被下宜しく御執成の程奉懇願候 以上

 松平若狭家来
                            西郷頼母
                            梶原平馬
                           一ノ瀬要人
 
「私共の藩は山谷の間にあり、気候が厳しく、そこに住む人々も頑固で古い慣習に囚われ、世変に暗く制するのが難しい土地柄である。
 主が京都守護職を申し付けられて以来、及ばずながら天朝を尊び、お上の御心が安らかであらせらるように、粉骨砕身の努力をしてきた。
 万事不行き届きではあったが、帝の憐憫の情を以て多年、何とか奉職することができた。
 君子の冥加はこの上なくありがたく、鴻恩に対して万分の一も報いたい、と全藩上げて奮励してきた。
 朝廷に対し後ろ暗いところは神に誓って毛頭なく、伏見の一件は、突発的に発生した止むを得ない事柄であり、異心は毛頭ない。
 しかし、天朝を驚かせたことに恐れ入って、藩主容保は帰国の上、引退恭順した。
 この度鎮撫使が東下し、我々会津藩への征討の命を下したことを知り、愕然としている。
 宸襟を悩まし奉ったことについては、申し上げる言葉もなく、この上城中に安居していては恐れ入るので、城外に移り、御沙汰を待つことにした。
 仁の宥恕を以て寛大な御沙汰が下されるよう、家臣を挙げて嘆願する。幾重にも厚くお汲み取り下され、御執成のほどをお願い申し上げる」

 会津の嘆願書は、各藩の老臣の手から手へ回された。それを確認した上で、仙台の坂や米沢の千坂が、一同に呼びかけた。
「この度、会津藩より嘆願書が提出された件について、会津の国情を探るに、謹慎恭順降伏の情状は疑われるものではない。よって、仙米両藩主は会津救解の書を添えて、総督府に提出しようとされている。ご一同、同意されるならば、奥羽列藩の嘆願書に署名して頂きたい」
 千坂の手から回ってきた嘆願書には、会津の言い分に加えて、奥羽列藩は仙台の手勢を始め、戦に駆り出されている。容保は已に城外で謹慎してひたすら恭順の意を示している。また、春夏の間は農事が急務であり、このままだと民の動揺を招きかねないこと、奥羽諸藩に対しても出兵の中止を求める旨が記されていた。
 仙米を始めとして、奥羽列藩嘆願書に署名した各藩の家老は十七名。後に、白石会議に遅れて駆け付けた家老の分も加えて総勢二十七名の家老の署名を以て、総督府に提出されることになった。二本松の丹羽一学も、もちろん迷わずに署名している。
 
 十二日、仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲が岩沼に到着して九条総督に謁見し、会津之嘆願書、奥羽越列嘆願書、仙米両藩主の添願書を提出した。
「容保は罪を介護して城外に屏居し、ひたすら朝命を待っております。特に寛大な処置として頂けたのならば、容保一人の幸いのみならず、奥州二州の幸いでありましょう。もし強いてこれを追討しようとするならば、二州の民は塗炭の苦しみを味わい、騒乱を招くことも予想されます」
 藩主らとしても、これ以上民の動揺を招くことは避けたかった。
 両藩の藩主に謁見した九条総督は、温和な態度で臨んだ。
「皇國の頽勢を挽回するには、人心を一つにする他ない。卿らはよくこれに努めよ」
 と述べ、奥羽諸藩の嘆願は受け入れられたかのように見えた。列藩はこれを聞き、皆大いに喜んだと言う。
 時に世良参謀は白河に滞陣していたため、九条総督は三通の嘆願書を白河に転送し、参謀の意見を問うた。だが、世良は「できるわけがない」とにべもない返答を寄越した。それだけでなく、「容保の罪は天地に容れられるものではなく、速やかに誅伐を加えるべきだ」という付箋までつけて返答している。
 この世良の返答は、十五日、仙米二藩への命令という形で伝えられた。
 
   仙台中将
   米沢中将

 今般会津謝罪降伏嘆願書並奥羽各藩嘆願書差出熟覚之処、朝敵不可容天地之罪人に付難被及御沙汰、早々討入可奏成功者也
(このたび会津の謝罪降伏嘆願書並びに奥羽各藩の嘆願書を差し出されたが、朝敵は転移に容れざるべからず罪人である。早々に討入を成功させるべきものなり)
 
   鎮撫総督

 
 信念を曲げて恭順の姿勢を見せた会津藩は勿論のこと、その会津の説得に骨を折った仙台藩や米沢藩、及び東北諸藩の面目は丸潰れである
 この総督府の返答を聞いて、白石に集っていた各藩の重臣は大いに憤慨した。
「薩長が朝命を矯めたが故に、ここに至ったのだ。彼等は王師を自称しているが、昨今の事はもとより、朝旨から出たものではない。王政復古の実効を挙げるには、まずこれらの偽官軍を掃討し、東方諸侯の力によって勤王の大義を全うするべきである」
 そのような意見が、大勢を占めた。
 一方、あくまでも「会津討伐」の姿勢を崩さない世良は、単身で白河を出発し、岩沼の総督府に赴くために、十九日、福島に到着した。ここには、仙台藩の姉歯式之進、田辺覧吉、赤坂幸太夫、松川豊之進、末永すえなが縫殿之允ぬいのじょう大槻定之進が滞在していた。一部の仙台藩士は世良を襲撃しようと目論んでおり、その機会を窺っていたのである。世良は世良で、総督府の形勢が日々険悪になっていくのを察し、京師に戻って大軍を率いて再び東下しようと考え、これを総督に陳情するつもりだった。
 福島に到着した世良は、定宿にしていた金沢屋に宿泊。そこで羽州にいた、もう一人の下参謀である大山格之助宛の密書を認め、福島藩士の鈴木六太郎に託した。
 これを不審に思った六太郎は、長楽寺に置かれていた仙台軍事局に出頭し、瀬上主膳に書状を手渡した。
 主膳は世良の書状を読んで、憤慨した。その文中には、「奥州皆敵と見て」「仙米賊朝廷を軽ずるの心底」「弱国二藩は不足恐候得共」といった文言が並んでいるではないか。
 仙台藩士の間でも積り重なっていた鬱憤は、一気に吹き出した。 
 仙台藩からは姉歯武之進、田辺賢吉、赤坂幸太夫、松川豊之進、末永縫之允、大槻定之進、福島藩からは遠藤条之助、杉沢覚右衛門、鈴木六太郎らが金沢屋に向い、二十日午前二時頃、金沢屋を襲撃した。修蔵は短銃を発射して応戦しようとしたが、どうしたわけか不発であったという。世良は従者の勝見善太郎と共に捕縛された。
 姉歯らが世良を糾問したところ、「密書が露見した以上、是非に及ばず」と述べたきり、後は呻くばかりである。
「儂の不心得の段は、深く陳謝する。どうか、広大な慈悲を以てこの命を救ってはくれぬか」
 姉歯らは、鼻白んだ。何を今さら、と思うばかりである。
「お主、それでも武士か」
 武士として、命乞いをするなどあまりにも見苦しい。
 遂に世良は阿武隈川のほとりに連行され、そこには会津藩士中根監物や辰野勇の姿もあった。会津の者たちは、「彼一人の為に奥羽は被害を受けることが長く、今や幸い貴藩の力によってこの元凶を倒すことができた」と喜び極まって泣いた。
 そこで世良は首を斬られ、その首は直ちに白石へ送られた。
 主膳が世良の所持品を改めたところ、数通の書簡が見つかった。その書簡が公表されると、薩長が多年禍心を蓄積していたことがますます明らかとなった。
 この世良暗殺により、東北諸藩の間には、一気に戦雲が広がったと言える。
 同日、会津藩は白河城を奪い取った。ここには対会津戦に備えて西軍が先に入城していたのである。このとき、留守部隊として一部の二本松兵や仙台兵が駐留していた。が、中にいたそれらの部隊と会津藩は示し合わせていたため、午後一時頃、会津藩は比較的スムーズに入城を果たしている。
 二本松藩もまた、二十日に討会の解兵届けを総督府に提出していた。

 今般会津容保降伏謝罪之儀家来共嘆願申出候に付御寛典之御沙汰被成下候様奉懇願候処、朝敵不可容天地之罪人に付難被爲及御沙汰旨、御達之趣承知仕候、然る処猶又衆議相尽、太政官へ奉伺候外無御座候間、是迄出兵之分口々番兵差置解兵仕候旨、仙台米沢両侯より昨十九日御届申上候通同意に相談仕候間、各藩爲応援出兵之儀も右両藩同様解解兵仕候、此段御届申上候

(このたび会津容保の降伏謝罪の儀について、家来ともに嘆願を申出ております。この件について御寛典の御沙汰を賜りたく懇願して参りました。ですが朝敵は天地の容れざるべからず罪人であるから難しいとの御沙汰を受けたため、尚衆議相尽くし、太政官へ伺いを立てることになりました。これまで出兵させていた討会兵を解散させたい旨につき、仙台米沢両侯より昨日十九日に申出があったかと存じますが、各藩の応援出兵の件に就きましても、両藩同様に解兵させていただきたい。この段に付きまして、御届け申し上げます)

   丹羽左京大夫家来 丹羽一学
   阿部美作守家来 平田弾右衛門
   相馬因幡守家来 相馬靭負ゆきおい
   秋田万之助家来 大浦帯刀
   安藤理三郎家来 三田八弥
   本多能登守家来 石井武右衛門

「会津征伐の兵を解散させます」という、総督府に対する宣言である。
 総督は請願を受け取ったところ、即日岩沼を出発して仙台に赴き片倉小十郎の屋敷に入り、醍醐少将もまた、古内志摩の屋敷に入った。列藩の使臣は白石を去って仙台で会合を開いた。二本松からは丹羽一学を主任とし、丹羽新十郎、岡佐一右衛門、千賀孫右衛門、飯田唱、安部井清助(磐根)、岡新吾らが、この後も交互に出張した。
 総督等が岩沼を去って仙台に赴いたのは、表向きは再び総督府を仙台に移すと喧伝された。だが、実際には危機が己に迫っているのを知り、倉皇として仙台に逃れたからである。 
 奥羽列藩は討会兵を帰国させ、更に太政官の命令を待つと称したが、攻守同盟の協定は已に陰黙の内に決していた。

 こうして、二本松藩も実質的な薩長に対す宣戦布告を行い、俄かに戦雲が広がりつつあった――。


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