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第三章 常州騒乱
凱旋(7)
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長国公と源太左衛門に付き従って城の裏口から外へ出ると、眼の前には大池が広がっている。冬の今は水面がすっかり凍りつき、その上にはらはらと牡丹雪が降り積もっていた。公は草履取りに草履を出させ、次いで鳴海らも、小者が差し出した雪沓を履いた。降り積もった雪は掃き清められているものの、凍りついている踏み石で転ばぬよう注意を払いながら、公の後についていく。公が二人を誘ったのは、本町谷にある洗心亭だった。代々の藩公に受け継がれてきた茶室である。
「遠慮なく、入るがよい」
公が、ちらりとこちらを振り返って肯いた。鳴海と源太左衛門は、「失礼致しまする」と雪沓を脱ぎ、茶室へ上がり込んだ。鳴海が洗心亭に入るのは、初めてである。茶室の中ではこぽこぽと湯が沸く音がしており、暖かかった。
「茶室では、亭主と客に過ぎぬからな。そなたらと語り合うには丁度良い」
そう述べると、公は微かに笑った。そして恐れ多いことに、手ずから茶を点て始めた。まずは源太左衛門の前に茶碗を置き、続けて鳴海の為の茶を淹れる。
「遠慮は無用ぞ、鳴海。先程の件で、喉も乾いたろう」
若干のからかいを含んだ公の声に励まされ、鳴海は頭を下げた。
「では、頂戴致します」
茶碗に唇をつけ、一息に飲み干す。僅かな時間で冷えた体に、熱い茶が染みた。公の仰るように、先程の丹波との対峙で、思いの外緊張していたらしい。
その鳴海の様子を見守っていた源太左衛門が、まずは鳴海を、続けて公に視線を送った。
「まことに、結構な御点前でございました。我々には勿体のうございます」
源太左衛門の口上に、公が口元を緩めた。
「――して、お話と申しますのは?」
鳴海は逸る気を抑えて、公に尋ねた。茶室が暖められているということは、元々御前会議の後で、二人を招く心積もりだったに違いない。
「大したことではない。たまには、そなたらと茶を楽しみたいと思うてな。本来であれば、与兵衛も呼ぶつもりだったのだが……。風邪で臥せっているのでは、致し方あるまい」
公が、空席の円座の方にちらりと視線を向けた。鳴海は公の言葉に、どっと脱力した。
「――全く、皆の気を揉ませてくれる」
源太左衛門が、ようやく鳴海に穏やかな顔を向けた。その口端には、僅かな苦笑が浮かんでいる。
「先程は皆様をお騒がせ致し、誠に申し訳ございませんでした」
改めて、鳴海は二人に深々と頭を下げた。今思い返しても、ぞっとする。公の面前で丹波と口論し、あまつさえ抜刀しかけたとなれば、その場で手討ちにされても文句は言えない。それこそ、今回ばかりは「御家取り潰し」になっても仕方がないと、腹を括った。
が、案に相違して、公は肩を竦めただけだった。
「私とて、彦十郎家が潰されるのは本位ではない。丹波には後でよくよく言い聞かせておく故、気にするな」
公の心遣いに感激した鳴海は、目端が潤むのを感じた。その様子を見ていた源太左衛門が、ふっと息を吐いた。
「丹波殿も、そなたが真っ向から異議を申し立てたのが、余程の衝撃だったのだろう。ちと双方とも、己を見失っていたな」
続けて、彦十郎家が取り潰されることはまずあるまい、と告げた。何と言っても藩内きっての大身であり、代々の重臣である。しかも、鳴海は常州で武功を挙げ、華々しく帰還した。その鳴海に害を及ぼせば、丹波から皆の心が離れていくのは必定である。
「……丹波殿の御振舞いも、藩の行く末を思えばこそのこと。それはお主も承知しておろう」
「承知致しておりまする」
鳴海も、決して丹波の方針の全てを否定するつもりはない。ただ、あまりにも直情的過ぎる性格に、危うさも感じるのだ。
「妻と子を盾にされては、お主が我を失うのも無理からぬ話であるがな」
源太左衛門の言葉に、公が苦笑を浮かべた。鳴海も、照れ隠しに微笑を返す。不意に妻子のことを持ち出され、自分があれほど感情的になるとは思わなかった。
「いつ生まれる?」
「来年の夏の初めかと存じまする」
「もうじき生まれる私の子と、近いな。我が子の遊び仲間の候補に、そなたの子の名も挙げておくか」
先日、元の奥仕えに戻った杉内萬左衛門から聞いたところによると、公の奥方である久子様は、既に臨月に入っているらしかった。二年前に嫡子を立て続けに失っていた公だが、久子様との仲は睦まじく、再び御二方は子を授かっていたのだった。
「――妻や我が子の身を案じるのは、皆同じであるのだな」
小声で呟かれた公の言葉に、鳴海ははっとした。やはり、芳之助のことについて問い糺すために、この席に呼ばれたのか。
しばし、茶釜の湯の湧く音だけが、流れ続けた。
「遠慮なく、入るがよい」
公が、ちらりとこちらを振り返って肯いた。鳴海と源太左衛門は、「失礼致しまする」と雪沓を脱ぎ、茶室へ上がり込んだ。鳴海が洗心亭に入るのは、初めてである。茶室の中ではこぽこぽと湯が沸く音がしており、暖かかった。
「茶室では、亭主と客に過ぎぬからな。そなたらと語り合うには丁度良い」
そう述べると、公は微かに笑った。そして恐れ多いことに、手ずから茶を点て始めた。まずは源太左衛門の前に茶碗を置き、続けて鳴海の為の茶を淹れる。
「遠慮は無用ぞ、鳴海。先程の件で、喉も乾いたろう」
若干のからかいを含んだ公の声に励まされ、鳴海は頭を下げた。
「では、頂戴致します」
茶碗に唇をつけ、一息に飲み干す。僅かな時間で冷えた体に、熱い茶が染みた。公の仰るように、先程の丹波との対峙で、思いの外緊張していたらしい。
その鳴海の様子を見守っていた源太左衛門が、まずは鳴海を、続けて公に視線を送った。
「まことに、結構な御点前でございました。我々には勿体のうございます」
源太左衛門の口上に、公が口元を緩めた。
「――して、お話と申しますのは?」
鳴海は逸る気を抑えて、公に尋ねた。茶室が暖められているということは、元々御前会議の後で、二人を招く心積もりだったに違いない。
「大したことではない。たまには、そなたらと茶を楽しみたいと思うてな。本来であれば、与兵衛も呼ぶつもりだったのだが……。風邪で臥せっているのでは、致し方あるまい」
公が、空席の円座の方にちらりと視線を向けた。鳴海は公の言葉に、どっと脱力した。
「――全く、皆の気を揉ませてくれる」
源太左衛門が、ようやく鳴海に穏やかな顔を向けた。その口端には、僅かな苦笑が浮かんでいる。
「先程は皆様をお騒がせ致し、誠に申し訳ございませんでした」
改めて、鳴海は二人に深々と頭を下げた。今思い返しても、ぞっとする。公の面前で丹波と口論し、あまつさえ抜刀しかけたとなれば、その場で手討ちにされても文句は言えない。それこそ、今回ばかりは「御家取り潰し」になっても仕方がないと、腹を括った。
が、案に相違して、公は肩を竦めただけだった。
「私とて、彦十郎家が潰されるのは本位ではない。丹波には後でよくよく言い聞かせておく故、気にするな」
公の心遣いに感激した鳴海は、目端が潤むのを感じた。その様子を見ていた源太左衛門が、ふっと息を吐いた。
「丹波殿も、そなたが真っ向から異議を申し立てたのが、余程の衝撃だったのだろう。ちと双方とも、己を見失っていたな」
続けて、彦十郎家が取り潰されることはまずあるまい、と告げた。何と言っても藩内きっての大身であり、代々の重臣である。しかも、鳴海は常州で武功を挙げ、華々しく帰還した。その鳴海に害を及ぼせば、丹波から皆の心が離れていくのは必定である。
「……丹波殿の御振舞いも、藩の行く末を思えばこそのこと。それはお主も承知しておろう」
「承知致しておりまする」
鳴海も、決して丹波の方針の全てを否定するつもりはない。ただ、あまりにも直情的過ぎる性格に、危うさも感じるのだ。
「妻と子を盾にされては、お主が我を失うのも無理からぬ話であるがな」
源太左衛門の言葉に、公が苦笑を浮かべた。鳴海も、照れ隠しに微笑を返す。不意に妻子のことを持ち出され、自分があれほど感情的になるとは思わなかった。
「いつ生まれる?」
「来年の夏の初めかと存じまする」
「もうじき生まれる私の子と、近いな。我が子の遊び仲間の候補に、そなたの子の名も挙げておくか」
先日、元の奥仕えに戻った杉内萬左衛門から聞いたところによると、公の奥方である久子様は、既に臨月に入っているらしかった。二年前に嫡子を立て続けに失っていた公だが、久子様との仲は睦まじく、再び御二方は子を授かっていたのだった。
「――妻や我が子の身を案じるのは、皆同じであるのだな」
小声で呟かれた公の言葉に、鳴海ははっとした。やはり、芳之助のことについて問い糺すために、この席に呼ばれたのか。
しばし、茶釜の湯の湧く音だけが、流れ続けた。
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