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第三章 常州騒乱
凱旋(5)
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よりにもよって、大広間の席で丹波がその話を持ち出したのは、年内最後の御前会議であった。例年であれば年末の挨拶だけで終わり、後は軽い宴席となるはずが、丹波は渋面のまま「今一度、藤田八郎兵衛家の処遇について確認したいことがある」と、宣言したのである。
「何事でございますか」
驚いたように、江口三郎右衛門が丹波に顔を向けた。藤田八郎兵衛家の処分については、芳之助の脱藩の折に、「知行取り上げ」ということで決着が付いていたはずだった。
が、丹波は口元を歪めた。
「二年前、脱藩した藤田芳之助が棚倉領内において、罪人として斬られたという報告が、棚倉藩より参っておる。それ故、今一度処分を見直す必要が生じ申した」
(やはり……)
丹波の宣言に、鳴海は苦々しい思いで耳を傾けた。あの芳之助との対峙の折、芳之助が懸念した通りである。が、他の面々は肩を竦めているだけだった。今更八郎兵衛家への処分を見直すなど、面倒事でしかないのだろう。
「恐れながら、申し上げます」
隣に座っていた志摩が、丹波の方へ体を向けた。この日、志摩の口から「父の与兵衛は不快の為、登城を見合わせたい」との申出が、丹波へ上奏されていた。どうやら今頃になって、常州遠征の疲れが出たのか、体調を崩しているらしい。志摩によれば風邪をこじらせただけだそうだが、「それならば、そなたが与兵衛殿の名代を務めよ」と丹波に命じられ、鳴海の隣に座っているのだった。
「藤田芳之助は、既に黄泉路へ下っております。嫡子もおらず、その妻が僅かな施しを受けている程度でございましょう。今更二年前の処分を見直す必要が、ございましょうか」
丹波に異議を唱えるなど、志摩にしては思い切ったものだ。鳴海は、ちらりと視線を志摩に向けてやる。が、丹波はフンと鼻を鳴らしただけだった。
「藤田芳之助は悪名高き天狗党の一味として、棚倉藩の方に処罰された。妻がおるなら、八郎兵衛家の系譜の者として、芳之助の所業についての責任を負わせるべきであろう」
志摩が、顔を曇らせた。どよめきが漣の如く、波紋を広げていく。どうやらこの話は、初めて皆に知らされたらしかった。鳴海は、口元を引き結んだ。ちらりと上席の方を見ると、源太左衛門と視線が合った。源太左衛門が、小さく肯く。
「拙者からも、その件に付きまして申し上げたき儀がございます」
鳴海の言葉に、皆がこちらに視線を向けた。緊張を押し殺しながらも、鳴海は考え抜いた言葉を告げた。
「藤田芳之助は、かつて我が藩に籍を置いていたこともございました。ですが、公儀に対しては『旧水戸藩士の者である』と説明していたという話を、さる御方から我等は伺っております。よってこの話に従い、かの者は水戸藩士と見做すが妥当かと存じまする」
一息に言い終わると、鳴海は深々と息を吐き出した。丹波が、こちらを睨みつけているのをひしひしと感じる。
「――儂は聞いておらぬぞ」
矜持の高い丹波のことである。鳴海が知っていて丹波が知らないというのは、我慢がならないに違いなかった。
「左様でございますか。では今、ご了見なさいませ」
鳴海の居丈高な物言いに、丹波の首筋が染め上げられた。鳴海が公然と丹波に異を唱えたのが、気に食わないのだ。
「そなたは、いつから執政になったのだ。そなたが申したことは、番頭の職分を超えておろう」
丹波の皮肉にも、鳴海が動揺を見せることはなかった。眉を上げて見せただけである。
「鳴海殿……」
やや青ざめた志摩が、鳴海の脇腹をつつく。だが、それも無視した。郡代らの席からは、和左衛門がじっと事の成り行きを見守っているのを、感じる。
「――常州遠征の折に、我々はその御方から主命として『芳之助を始末せよ』と、命じられました。その始末がついた以上、芳之助の妻女にまで累を及ぼす必要はございませぬ」
鳴海の凛とした声が、広間に響いた。源太左衛門が目を閉じて、いつもの如く、顔に扇子を当てている。あの主命を知っているのは、この席では源太左衛門だけだった。丹波が、隣の上座に顔を向けた。そこには、長国公の困惑した顔がある。公の御様子を確認した丹波は、再び鳴海を睨みつけた。
「殿からの命……というわけではないようであるな」
丹波の口調が、鋭くなった。鳴海が主命を騙ったとなれば、それはそれで重罪である。丹波の口元が、歪められる。
「日野殿。どなたからの主命か、ご存知であるか?」
今度は、左隣にいる源太左衛門の方に丹波の視線が向けられた。どうせ鳴海の作り話だろうと、高を括っているようでもある。
「……存じておる。が、その方の御名を申すわけには参らぬ。我等が騒げば、他藩に迷惑を掛けかねぬ故な」
源太左衛門は、淡々と述べた。その言葉に、丹波がひどく傷つけられたような顔をした。まさか、源太左衛門が鳴海を庇うと思わなかったのだろう。
「この件につきましては、我等がその御方より始末を一任されておりまする。よって、どうか御口を挟まれませぬよう、謹んで御願い奉る所存でございます」
言い方は丁寧だが、丹波に無用の口を挟ませないという、鳴海の強靭な意思を感じ取ったのだろう。丹波はさらに表情を歪め、上座から下りてきて鳴海の前にどっかりと座り、改めて真正面から鳴海を睨みつけた。広間に緊張が走るが、誰もが固唾を飲み、事の成り行きを無言で見守っている。
「何事でございますか」
驚いたように、江口三郎右衛門が丹波に顔を向けた。藤田八郎兵衛家の処分については、芳之助の脱藩の折に、「知行取り上げ」ということで決着が付いていたはずだった。
が、丹波は口元を歪めた。
「二年前、脱藩した藤田芳之助が棚倉領内において、罪人として斬られたという報告が、棚倉藩より参っておる。それ故、今一度処分を見直す必要が生じ申した」
(やはり……)
丹波の宣言に、鳴海は苦々しい思いで耳を傾けた。あの芳之助との対峙の折、芳之助が懸念した通りである。が、他の面々は肩を竦めているだけだった。今更八郎兵衛家への処分を見直すなど、面倒事でしかないのだろう。
「恐れながら、申し上げます」
隣に座っていた志摩が、丹波の方へ体を向けた。この日、志摩の口から「父の与兵衛は不快の為、登城を見合わせたい」との申出が、丹波へ上奏されていた。どうやら今頃になって、常州遠征の疲れが出たのか、体調を崩しているらしい。志摩によれば風邪をこじらせただけだそうだが、「それならば、そなたが与兵衛殿の名代を務めよ」と丹波に命じられ、鳴海の隣に座っているのだった。
「藤田芳之助は、既に黄泉路へ下っております。嫡子もおらず、その妻が僅かな施しを受けている程度でございましょう。今更二年前の処分を見直す必要が、ございましょうか」
丹波に異議を唱えるなど、志摩にしては思い切ったものだ。鳴海は、ちらりと視線を志摩に向けてやる。が、丹波はフンと鼻を鳴らしただけだった。
「藤田芳之助は悪名高き天狗党の一味として、棚倉藩の方に処罰された。妻がおるなら、八郎兵衛家の系譜の者として、芳之助の所業についての責任を負わせるべきであろう」
志摩が、顔を曇らせた。どよめきが漣の如く、波紋を広げていく。どうやらこの話は、初めて皆に知らされたらしかった。鳴海は、口元を引き結んだ。ちらりと上席の方を見ると、源太左衛門と視線が合った。源太左衛門が、小さく肯く。
「拙者からも、その件に付きまして申し上げたき儀がございます」
鳴海の言葉に、皆がこちらに視線を向けた。緊張を押し殺しながらも、鳴海は考え抜いた言葉を告げた。
「藤田芳之助は、かつて我が藩に籍を置いていたこともございました。ですが、公儀に対しては『旧水戸藩士の者である』と説明していたという話を、さる御方から我等は伺っております。よってこの話に従い、かの者は水戸藩士と見做すが妥当かと存じまする」
一息に言い終わると、鳴海は深々と息を吐き出した。丹波が、こちらを睨みつけているのをひしひしと感じる。
「――儂は聞いておらぬぞ」
矜持の高い丹波のことである。鳴海が知っていて丹波が知らないというのは、我慢がならないに違いなかった。
「左様でございますか。では今、ご了見なさいませ」
鳴海の居丈高な物言いに、丹波の首筋が染め上げられた。鳴海が公然と丹波に異を唱えたのが、気に食わないのだ。
「そなたは、いつから執政になったのだ。そなたが申したことは、番頭の職分を超えておろう」
丹波の皮肉にも、鳴海が動揺を見せることはなかった。眉を上げて見せただけである。
「鳴海殿……」
やや青ざめた志摩が、鳴海の脇腹をつつく。だが、それも無視した。郡代らの席からは、和左衛門がじっと事の成り行きを見守っているのを、感じる。
「――常州遠征の折に、我々はその御方から主命として『芳之助を始末せよ』と、命じられました。その始末がついた以上、芳之助の妻女にまで累を及ぼす必要はございませぬ」
鳴海の凛とした声が、広間に響いた。源太左衛門が目を閉じて、いつもの如く、顔に扇子を当てている。あの主命を知っているのは、この席では源太左衛門だけだった。丹波が、隣の上座に顔を向けた。そこには、長国公の困惑した顔がある。公の御様子を確認した丹波は、再び鳴海を睨みつけた。
「殿からの命……というわけではないようであるな」
丹波の口調が、鋭くなった。鳴海が主命を騙ったとなれば、それはそれで重罪である。丹波の口元が、歪められる。
「日野殿。どなたからの主命か、ご存知であるか?」
今度は、左隣にいる源太左衛門の方に丹波の視線が向けられた。どうせ鳴海の作り話だろうと、高を括っているようでもある。
「……存じておる。が、その方の御名を申すわけには参らぬ。我等が騒げば、他藩に迷惑を掛けかねぬ故な」
源太左衛門は、淡々と述べた。その言葉に、丹波がひどく傷つけられたような顔をした。まさか、源太左衛門が鳴海を庇うと思わなかったのだろう。
「この件につきましては、我等がその御方より始末を一任されておりまする。よって、どうか御口を挟まれませぬよう、謹んで御願い奉る所存でございます」
言い方は丁寧だが、丹波に無用の口を挟ませないという、鳴海の強靭な意思を感じ取ったのだろう。丹波はさらに表情を歪め、上座から下りてきて鳴海の前にどっかりと座り、改めて真正面から鳴海を睨みつけた。広間に緊張が走るが、誰もが固唾を飲み、事の成り行きを無言で見守っている。
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