190 / 196
第三章 常州騒乱
凱旋(3)
しおりを挟む
――師走に入ってからも尚、天狗党の一行が西上して一橋慶喜を頼ろうとしているという噂は、二本松にも伝えられていた。あれから天狗党一行は上野の下仁田で高崎藩と戦い、信州の高島藩や松本藩とも戦闘を展開して、辛くも勝利を収めたらしい。だが、もうあの一味が世間から支持されることはないだろうと、鳴海は思った。多少の勝利を収めたところで、幕軍はいくらでも諸藩に「出兵」を命じられるだけの余裕がある。また、天狗党の一味が頼みとしている一橋慶喜も、はっきりと「追討」の姿勢を見せているとの風聞が、京の藩邸詰の者らから伝えられていた。もしその噂が本当ならば、一橋慶喜は幕閣らの強硬派との対立を避けるために、水戸藩の天狗党勢を見殺しにすることを決めたわけである。太田において、綺麗事だけで政や戦が片づけられればどれほど楽かと慨嘆していた、源太左衛門や水戸藩の内藤弥太夫の言い分が、近頃の鳴海には少し分かるような気がした。
だがその風聞を耳にしても、鳴海にとっては既に終わったことだった。国元に帰ってきた今は、心穏やかな日々が続いている。今月末には当月の城下警固の当番である樽井弥五左衛門から、従軍の農民らに対して恩賞を与えることになっていた。源太左衛門や与兵衛、鳴海ら主だった武将らについては、幕府から直接恩賞が出ることになっているが、あまり期待はしないようにと与兵衛は笑った。そのため、鳴海の懐具合は相変わらず苦しい。
その農兵らへの褒賞の処分が行われる前にと、鳴海は和左衛門と新十郎の姿を求めて、会所へ足を運んだ。
「これは、鳴海様。この度は常州からご無事にお戻りになられまして、まことにようございました」
会所の広間でにこやかに談笑していたのは、中島黄山と宗形善蔵である。鳴海も、二人に笑顔を向けた。
「久しぶりであるな。今日は追捕雉子でも納めに参られたのか」
「お陰様で、今年も無事に幕府に献上することが出来ました。もっとも今年は、針道からも猟師らが常州に連れられていったため、多少追捕の時期が遅れましたが」
善蔵は、相変わらずふくふくとした笑みを浮かべながら、応じた。
善蔵に追捕雉子の制度を教えてもらったのは、丁度去年の今頃だった。経済のあれこれについて、二人が鳴海に教示してくれなければ、横浜鎖港が二本松にもたらす意味について考えることもなく、鳴海は今でも、ただの武芸自慢の凡将で終わっていたに違いない。あれらの教えは、これから鳴海が執行部の一人として藩政に関わっていく上で、きっと役立つことだろう。
「それは済まなかった」
澄まして応じる鳴海に、今度は黄山が笑みを向けた。
「鳴海様もこの一年で、執政の方々と肩を並べるほどの御仁になられましたな。常州ではきっと、魑魅魍魎の類も御覧になられてきたことでしょう」
黄山の皮肉には、鳴海は黙って苦笑を向けただけだった。確かにその通りだが、もう、それらの面倒事から逃げようとは思わなかった。
「そういえば、先月は講の会月でございましたな」
しれしれと告げる善蔵に、黄山が呆れ顔を向ける。
「宗形殿……。我が藩の鬼神からも取り立てておられるのか」
「左様。それがしの戦は、まだ終わっておりませぬよ」
うっ、と鳴海もわざとおどけてみせた。言われてみればそうなのだが、もうこの手には乗るまいと、決意していた。しばし熟考し、口から出てきた言葉は――。
「御式台から褒賞が下賜されたら、まとめて針道に持参しよう」
「それは、いつでございますか」
もはや遠慮なく、善蔵は渋い顔を鳴海に向けた。さあ、と肩を竦めて見せる鳴海にも、黄山は呆れた素振りの視線を送って寄越した。昔から城下に住んでいる黄山は、幕府の褒賞がさほど当てにならないことを、よく知っているに違いなかった。
「ところで和左衛門殿と新十郎殿は、今日はこちらにおいでか?」
鳴海の問いに、茶を運んできた小者が肯いた。
「幕府への追捕雉子と蕨漬の目録を作るのでお忙しそうですが……。お呼び致しましょうか?」
「頼む」
鳴海の言葉に、眼の前の二人は顔を見合わせた。新十郎はともかく、和左衛門にも用事があるというのが、意外だったのだろう。だが、八槻宿で芳之助の最期について聞いたときから、和左衛門父子に協力を仰ぐというのは、考え抜いてきたことだった。
小者の伝言を受けた和左衛門父子が、姿を見せた。
「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ござらぬ」
鳴海が会釈するのに対して、和左衛門は曖昧な笑みを浮かべて、会釈を返した。その表情は、鳴海から呼び出されたことに戸惑っているようである。それも無理のないことで、鳴海の出征前は、和左衛門は鳴海に対しての敵愾心を隠そうともしていなかった。だが、この親子でなければ、出来ないことがある。
「ちと、お二方に御願いしたき儀がございましてな。お二方が下城された後で宜しゅうござる。御邸を訪うても構いませぬか?」
鳴海の願いに、父子は顔を見合わせた。
「……それは、何かご事情がおありということでございますな?」
新十郎が、口を開いた。さすが、察しの良い男である。阿吽の呼吸で会話出来るほど、新十郎とも縁が深くなったものだと、鳴海は感慨深かった。
「左様」
父子はしばし顔を見合わせていたが――。
「承知致した。今宵、我が家にお出でなされませ」
そう応じる和左衛門の顔からは、何の感情も読み取れなかった。
だがその風聞を耳にしても、鳴海にとっては既に終わったことだった。国元に帰ってきた今は、心穏やかな日々が続いている。今月末には当月の城下警固の当番である樽井弥五左衛門から、従軍の農民らに対して恩賞を与えることになっていた。源太左衛門や与兵衛、鳴海ら主だった武将らについては、幕府から直接恩賞が出ることになっているが、あまり期待はしないようにと与兵衛は笑った。そのため、鳴海の懐具合は相変わらず苦しい。
その農兵らへの褒賞の処分が行われる前にと、鳴海は和左衛門と新十郎の姿を求めて、会所へ足を運んだ。
「これは、鳴海様。この度は常州からご無事にお戻りになられまして、まことにようございました」
会所の広間でにこやかに談笑していたのは、中島黄山と宗形善蔵である。鳴海も、二人に笑顔を向けた。
「久しぶりであるな。今日は追捕雉子でも納めに参られたのか」
「お陰様で、今年も無事に幕府に献上することが出来ました。もっとも今年は、針道からも猟師らが常州に連れられていったため、多少追捕の時期が遅れましたが」
善蔵は、相変わらずふくふくとした笑みを浮かべながら、応じた。
善蔵に追捕雉子の制度を教えてもらったのは、丁度去年の今頃だった。経済のあれこれについて、二人が鳴海に教示してくれなければ、横浜鎖港が二本松にもたらす意味について考えることもなく、鳴海は今でも、ただの武芸自慢の凡将で終わっていたに違いない。あれらの教えは、これから鳴海が執行部の一人として藩政に関わっていく上で、きっと役立つことだろう。
「それは済まなかった」
澄まして応じる鳴海に、今度は黄山が笑みを向けた。
「鳴海様もこの一年で、執政の方々と肩を並べるほどの御仁になられましたな。常州ではきっと、魑魅魍魎の類も御覧になられてきたことでしょう」
黄山の皮肉には、鳴海は黙って苦笑を向けただけだった。確かにその通りだが、もう、それらの面倒事から逃げようとは思わなかった。
「そういえば、先月は講の会月でございましたな」
しれしれと告げる善蔵に、黄山が呆れ顔を向ける。
「宗形殿……。我が藩の鬼神からも取り立てておられるのか」
「左様。それがしの戦は、まだ終わっておりませぬよ」
うっ、と鳴海もわざとおどけてみせた。言われてみればそうなのだが、もうこの手には乗るまいと、決意していた。しばし熟考し、口から出てきた言葉は――。
「御式台から褒賞が下賜されたら、まとめて針道に持参しよう」
「それは、いつでございますか」
もはや遠慮なく、善蔵は渋い顔を鳴海に向けた。さあ、と肩を竦めて見せる鳴海にも、黄山は呆れた素振りの視線を送って寄越した。昔から城下に住んでいる黄山は、幕府の褒賞がさほど当てにならないことを、よく知っているに違いなかった。
「ところで和左衛門殿と新十郎殿は、今日はこちらにおいでか?」
鳴海の問いに、茶を運んできた小者が肯いた。
「幕府への追捕雉子と蕨漬の目録を作るのでお忙しそうですが……。お呼び致しましょうか?」
「頼む」
鳴海の言葉に、眼の前の二人は顔を見合わせた。新十郎はともかく、和左衛門にも用事があるというのが、意外だったのだろう。だが、八槻宿で芳之助の最期について聞いたときから、和左衛門父子に協力を仰ぐというのは、考え抜いてきたことだった。
小者の伝言を受けた和左衛門父子が、姿を見せた。
「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ござらぬ」
鳴海が会釈するのに対して、和左衛門は曖昧な笑みを浮かべて、会釈を返した。その表情は、鳴海から呼び出されたことに戸惑っているようである。それも無理のないことで、鳴海の出征前は、和左衛門は鳴海に対しての敵愾心を隠そうともしていなかった。だが、この親子でなければ、出来ないことがある。
「ちと、お二方に御願いしたき儀がございましてな。お二方が下城された後で宜しゅうござる。御邸を訪うても構いませぬか?」
鳴海の願いに、父子は顔を見合わせた。
「……それは、何かご事情がおありということでございますな?」
新十郎が、口を開いた。さすが、察しの良い男である。阿吽の呼吸で会話出来るほど、新十郎とも縁が深くなったものだと、鳴海は感慨深かった。
「左様」
父子はしばし顔を見合わせていたが――。
「承知致した。今宵、我が家にお出でなされませ」
そう応じる和左衛門の顔からは、何の感情も読み取れなかった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説


どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる