鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

凱旋(2)

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 翌朝、郡山を出立して本宮を過ぎ、城下手前の杉田村で凱旋に相応しい陣容を整えてから、一行は奥州街道を北に進んだ。
 城下への入口の関門である大壇口を過ぎ、新丁坂を通って松坂御門を潜ると、そこは一之町の外れだった。前日に一同の到着が伝えられていたと見え、一之町の通りには懐かしい人々の顔があった。
 勝ち戦の帰還に相応しく、改めて黒縅の鎧や緋の陣羽織を身に付けた鳴海は、ゆっくりと馬を歩ませた。彦十郎家の門前には、鳴海の留守の間に家を守っていてくれた水山や玲子、衛守、そして上崎アサの姿がある。彼女が彦十郎家の皆と一緒にいるところを見ると、どうやら鳴海の出陣中に、衛守はアサを名実共に妻にしたらしい。彦十郎家一同の顔には、それぞれ晴れがましい笑みが浮かべられている。少し離れた場所では、義姪の志津が夫の内藤四郎を伴って、凱旋の一行を出迎えているのが見えた。
 斜向かいの本家の屋敷の前では、志摩が妻のかよと共に、やはり深々と腰を折り曲げている。かよの腕には、娘が抱かれていた。志摩は自分の娘に、祖父の与兵衛や叔父の右門の晴れ姿を見せてやりたいのだろう。
 つと、鳴海は眉を顰めた。鳴海がもっともこの晴れ姿を見せてやりたい相手の姿が、見えない。そういえば、りんは鳴海の出陣の際に体調を崩しており、ずっと寝込んでいた。まさか、りんの身に何かあったのか。不意に落ち着きを失い、妻への慕情が全身を衝き上げる。無意識の内に、胸に下げられた守札がある辺りを押さえた。
 だが、ここで背後の行列を止めるわけにはいかない。鳴海は一抹の不安を覚えながらも、真っ直ぐ前を向いて馬を歩ませ続け、一之町の辻を左に折れ曲がると、内御門を潜り抜けた。
 馬を下りて馬丁に預け千人溜に落ち着くと、箕輪門はすぐそこである。門前では、何と長国公が自ら一同を迎えに出ていた。
「皆、よく常州の民らのために戦ってくれたな。私からも、礼を申す」
 優しげな笑みを浮かべる公に対し、総大将である源太左衛門が「勿体なき御言葉でございます」と、言葉を詰まらせた。源太左衛門も、戦場では幾度も自ら危険に身を晒してきた。日頃は冷静な彼も、公の言葉に感極まったのだろう。
「大広間には、既に宴の用意が出来ておる。無礼講の席と致し、皆で御一同の帰還及び勝ち戦を愉快に祝おうではないか」
 丹波が、肩を揺すって破顔している。さすがの丹波も、此度の凱旋については、嬉しさを隠していない。
 だが鳴海は、先程の一之町の通りの光景が気になって仕方がなかった。思い切って、公や上役らに向けて下げていた頭を上げる。
「お気持ちは誠に有り難く存じまする。されど、この戦塵に塗れたまま城に入るは、無礼というもの。一度、我が家で装いを改めて登城してもよろしいでしょうか」
 源太左衛門が、呆れたようにこちらを振り返った。仮にも番頭である者が、何を言い出すのかという面持ちである。
 だが、傍らにいた与兵衛が、鳴海の言葉に眉を上げた。鳴海の言葉に、何か察したらしい。
「拙者も同じく。なに、鳴海殿と拙者の屋敷はすぐそこでございます」 
 与兵衛はひょいと親指を立てて、背後を指した。確かに、二人の屋敷はすぐそこである。やれやれと、源太左衛門が肩を竦めた。
「仕方ござらぬな。半刻以内に、大広間に参られよ。皆が待っておる」
「畏まりまして候」
 鳴海は与兵衛と共に一同に会釈し、くるりと背を向けた。背後から「奥方の様子が気になるのでしょう」と、誰かの声がした。それに、笑って応じる声も聞こえてくる。あれは、五番組の部下らの声だ。
 部下らの揶揄を聞き流し、鳴海は足早に彦十郎家の門前に辿り着いた。門前では、華々しい凱旋の行列がようやく終わり、彦十郎家の一同は、邸内に入ろうとしていたところだった。鳴海の姿に気づいた衛守が、足を止めた。その目が丸く見開かれる。
「兄上。城で祝宴があるはずでは?」 
「――衛守。りんは?」
 衛守の問いかけに答えず、息も切れ切れの鳴海の言葉を聞いた衛守は、口元に笑みを浮かべた。そして、やはり屋敷の内に戻ろうとしていたアサの方を振り返る。
「アサ、義姉上を頼む」
「畏まりました」
 くすりとアサが笑い、家の中へ姿を消した。同じく邸内に戻ろうとしていた水山と玲子も、黙って顔を見合わせ、にこにこと笑っているばかりである。どうにも落ち着かない。
 彦十郎家の騒ぎを聞きつけたのか、志摩も再び外へ出てきていた。が、志摩もおかしそうに笑いを堪えているばかりである。
「――鳴海殿。何も伺っておられないのですか?」
 ついに痺れを切らしたらしい志摩が、笑いを含ませて鳴海に問いかけた。
 何を、と鳴海が口を開きかけたところで、アサがりんの手を引き再び門前に出てきた。ゆっくりと足元を気にするように、りんが鳴海に歩み寄る。
「お帰りなさいませ、鳴海様」
 りんが柔らかな声で挨拶を述べ、小さく頭を下げた。その姿を目にした鳴海は、瞠目した。
 りんの腹の辺りが、ぽっこりと丸く膨らんでいる。りんが懐妊しているのは、一目瞭然だった。妊婦姿が気恥ずかしいのか、りんは俯いたままだ。だがその口元には、やはり笑みが浮かべられている。
「りん……」
 人目があるのも忘れ、鳴海はりんの手を取って握り締めた。
「これは……。途方もない戦勝祝ですな、鳴海殿」
 鳴海の後を追ってきた与兵衛が、ぽんと鳴海の背を叩いた。与兵衛の言葉に、じわじわと喜びの感情が湧き上がってくる。
 自分が、父になる。
 夫婦仲が改善されてから三年余り。子がなかなか授からないことについて、密かに思い悩んだときもあったが、長らく待ち望んでいた我が子がりんの胎内に息づいている。
「兄上も、大概鈍いですよね。兄上がご出陣のときには、義姉上は既に身籠られていたそうですよ」
 呆れたように、だが、優しさを込めた声で衛守が告げた。すると、鳴海の出陣前にりんが寝込んでいたのは、悪阻つわりだったのか。さすがの鳴海も、自分のあまりの鈍さに呆れ、首筋を染めた。
 鳴海の様子を見たりんが、小声で弁明する。
「私はあまり体が丈夫な質ではないですし……。戦場で、皆の為に御命を賭けて戦っていらっしゃる鳴海様の気を煩わせるのも、申し訳なくて……」
 鳴海は、玲子の方に顔を向けた。玲子の顔にも、柔らかい笑みが浮かんでいる。りんの腹の子は、水山や玲子にとっても待望の、彦十郎家の初孫だった。
「りんさんの悪阻は随分と重くて、私共も気を揉みましたが……。ここまで育てば、まず大丈夫でしょう。そろそろご実家の江口家に、戌の日の腹帯はらおびをお願いしようと思っていたところです」 
 戌の日に妊婦に贈られる腹帯は、安産祈願のまじないでもある。多くの子を産み育てた玲子が言うのならば、まず間違いがないだろう。
「馬鹿……。もっと早く申し伝えよ」
 ようやく、鳴海は小声で妻に囁いた。そのまま、両腕にりんを抱き締める。
夫婦めおとなのだから」
 鳴海の言葉にりんが鳴海の胸にそっと顔を埋め、その胸元を濡らした。

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