鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

終焉(6)

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 二十三日、天狗勢が湊に放火して姿を消したという報告が、太田にもたらされた。朝七ツ(午前四時)、那珂川と涸沼川の合流地点にある祝町を固めていた佐倉藩、鯉淵勢、そして寺門勢は、舟の中から対岸の湊へ向かって火攻めを仕掛けた。この火攻のために館山に籠もっていた武田勢二百名余りが逃げ出し、残りは幕軍の兵らによって召し捕えられた。
 それだけではない。平磯村の北西にある雲雀塚に潜んでいた別の天狗勢も追い詰められ、湊へ放火して回った。この狂乱状態の中に館山の武田勢が合流し、馬渡村から高野村、足崎村たらさきむら瓜連村うりづらむらを通って、一行はその日夜五ツ(午後八時)、やっとのことで大宮村まで敗退したという。
 当然、幕府の後ろ楯を得た市川がこれを見逃すはずはなく、翌二十四日には、市川自ら天狗勢を追うために太田へやってきた。その騎馬姿は白毛の槍を立てて進み、供には剛勇で知られた伊東辰之助という武者を連れていた。伊東の名を教えてくれたのは、市川の出迎えのために大沼から出張してきていた戸祭である。
「市川様は、まこと世直し様でございますな」
 感涙に噎ぶ小林から、鳴海は顔を背けた。確かに、太田やその近郊の者らにとって、市川は「世直し様」だろう。筑波勢や散切隊の悪業については、鳴海自身も身に沁みて知っている。だが――。

 二十六日、小林と共に片膝を地につけて市川らの北へ向かう行列を見送った鳴海は、できるだけ顔を伏せ、目立たぬように振る舞った。同宿の五番組の部下らも、ここしばらくの鳴海の不機嫌を察しているのか、鳴海の背後で静かに目を伏せている。
 鳴海の不機嫌は、それだけが理由ではなかった。二十四日の太田御殿での軍議の席で、市川は、「大炊頭の留守を預かっていた榊原新左衛門は、武田勢を見限り内応を約束していた」と、告げた。そこまでは、まだ我慢ができた。だが、その後の言葉には、耳を塞ぎたくなった。
「長年の朋輩であるはずの伊賀守を見限るとは、榊原の振る舞いは士道に背き、まことに卑劣かつ外道である。よって相応の処分を下す」
 広間に満ちたのは、水戸藩や幕軍諸将の追従の声ばかりである。
 そこまで大発勢らを追い詰めたのは、誰なのか。己の私欲と藩益の区分が出来ないのは誰なのか。そう叫び出したい衝動を懸命に堪え、鳴海は握り締めた拳の内にぎりぎりと爪を食い込ませた。その様子が目に入ったのか、市川が不思議そうにこちらに眼差しを向けた。
「二本松の方々は、お静かであるな」
 その声に、鳴海は思い切って市川を見つめた。市川の顔は、何の曇りもなさそうに見える。ただ、首を傾げているだけだった。言われてみれば、与兵衛も源太左衛門も、この席に着いてから一言も発していない。やがて――。 
「此度の皆様方のお働きは、末代までこの地の者らに感謝されることでございましょう。民らの平穏のためには、誠にめでたきことと存じまする」
 聞こえたのは、源太左衛門のいつも通り落ち着いた声だった。その言葉に、「二本松の方々は、皆様揃って奥ゆかしい」と市川が笑顔を見せる。鳴海もようやく作り笑いらしきものを浮かべてみせ、密かに胸を撫で下ろした。どうやら、市川の勘気に触れることは免れたようである。
 やはり、このような政治的駆け引きは、まだまだ源太左衛門には敵わない。
 やがて軍議がお開きとなり、それぞれの宿に戻るために揃って御殿側の辻まで来ると、与兵衛がふと足を止めた。与兵衛らが定宿としていた法然寺には現在、水戸藩の鵜殿が入っている。そのため、与兵衛らは一時的に源太左衛門らのいる浄光寺の本堂で、寝泊まりをしていた。
「よくぞ、堪えたな」
 その言葉に、鳴海も苦笑してみせた。
「それがしの不用意な言葉で、我が藩の取り潰しを招くわけには参りますまい」
 市川の所業に思うところはあるが、それくらいの分別は鳴海にもついた。実際、先日には宍戸藩がいとも簡単に改易されたのを、目の当たりにしたばかりである。
「そうか」
 与兵衛は再び小さく笑うと、くるりと背を向けた。
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