鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

討伐(12)

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「原殿、支度を頼む」
 鳴海は、背後の原兵太夫を振り返った。先日の戦いでは、自馬が傷を負わされ散々の目に遭ったが、元々日置流の弓術師範の腕を持つ男である。いざとなれば、頼れる男だった。
「お任せあれ」
 原が白い歯を見せた。そのまま背に掛けた箙から矢を取り出す。鏃の部分には、ぼろ布が巻かれていた。あらかじめ、原は火襲を予想して支度を整えていたらしい。原がごそごそと腰の辺りを探り、腰に下げられた小さな油壷にしばし鏃の部分を浸す。刹那、榧油かやあぶらの匂いがぷんと鼻を衝いた。
「どうぞ」
 脇から、十右衛門が火皿を差し出した。そこには既に小さな種火が燃えており、原が鏃をかざしただけで、ぽっと鏃に火が灯る。炎はたちまち大きくなった。
 火の勢いに怯むことなく、原は弓に火矢をつがえてキリキリと引き絞ると、素早く放った。矢は寸分も狙いを違えず、表門を超えて本丸別邸の引戸に刺さり、あっと言う間に火が燃え広がった。
「火を掛けられたぞ!」
 城内から、慌てふためく声が聞こえる。鐘楼に登る間もない散切隊の兵士らが、右往左往しているのが、こちらからも見えた。
「やりますな、原殿」
 平助が破顔した。続いて、原に負けじとばかりに、やはり抜群の弓の腕を持つ成渡や市之進が、原が配下に用意させていた火矢を受け取り、次々に放っていく。
 たちまち、本丸のあちこちから火の手と黒煙が上がった。夕暮れの空との境目がわからなくなるくらい、今や空は赤々と染まっている。
 そのまま炎と共に、本丸敷地内に歩みを進めていく。炎の照り返しの熱と夜風の冷気が入り混じって、鳴海の項を撫で上げていく。搦手から散切隊の者が逃げていく気配が伝わってきたが、見知らぬ城でそれを追うつもりは鳴海にはなかった。散切隊には散々手こずらされてきたが、今回は間違いなく幕軍及び諸生党側の勝利である。
「鳴海殿。後はこちらは水藩や諸藩の方々にお任せ致しましょう。我々は、下孫に戻りませぬか?」
 平助が、鳴海に尋ねた。その言葉に、鳴海はしばし考え込んだ。未明に下孫で鳴海らが散切隊の夜襲を受けたということは、そちらに残党が潜んでいることも考えらる。
「承知致した。戸祭殿、このまま我らは下孫に戻って賊共を蹴散らした後、太田へ戻りまする」
 鳴海は、隣に立つ戸祭に顔を向けた。その戸祭の顔も、勝ち戦のために明るかった。
「畏まりました。城の残党を追うのは、我らと相羽殿でお引き受け申そう」
 すっかり日の落ちた陸前浜街道を、松明で照らしながら二本松軍は南下した。半刻もしないうちに、未明に焼かれた下孫陣屋が見えてくる。
「このまま賊徒共を、下孫から追い払え!」
 鳴海の音声に応えるように、部下らが手勢を連れて下孫の街に散る。背後を振り返ると、まだ助川山の辺りが赤く燃え盛っているのが見えた。あの城は、かつては異国船の侵入に備えて建てられた城だと伝え聞いていた。そして、山城ながらも城内には水道などが整備され、家中の者らが住むには住心地が良さげであり、主の山野辺主水正が家臣らを大切にしていた様子が伺い知れた。だが、主水正の命が救われたとしても、もうあの城で山野辺氏が再起を図ることは叶わないだろう。かつて水戸藩を席巻し、多くの者が標榜してきた「尊皇攘夷」の志の成れの果てが、あの助川海防城の姿だった――。
「何を思われていますかな」
 平助が、鳴海に穏やかな声で問うた。その傍らでは、与兵衛も馬に跨っている。
「この二年余り、我々が散々振り回されてきた尊皇攘夷の果てが、あの有り様だと思うと……。彼らがしてきたことは、何だったのでしょうな」
 鳴海の回答に、平助は目を細めた。
「さあ」
 平助も何とも言えない表情で、一里先の彼方で城が燃える様子を眺めている。
「水戸藩は、恐らくこれからが正念場であろうな。これだけ双方が憎み合い、誅殺し合ったのだ。確かに散切隊の者を始め、天狗共は暴虐の限りを尽くしてきたが、市川殿もまた……」
 そう述べる与兵衛も、そこで言葉を切った。市川は、一応二本松勢の味方である。それに遠慮したのだろう。
 与兵衛がふっと一つ息を吐き、手綱を手繰った。
「それがしと植木殿は、先に御家老に戦の次第を報告しに参る。鳴海殿と小川殿は、下孫の始末がつき次第、太田へ戻られよ」
「御家老に、今宵から明日にかけては祝宴だとお伝え願いたい」
 平助が片頬で笑うと、与兵衛や植木も笑った。 
 下孫の始末をして、鳴海と平助が率いる五〇〇名余りが太田に帰陣したのは、翌日未明の夜八ツ時のことだった――。
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