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第三章 常州騒乱
討伐(9)
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二十四日、鳴海ら五番組が太田の浄光寺本陣に到着したところへ、水戸にいる市川からも伝令が届いた。伝令役は、歩兵別当組改役の鈴木九右衛門である。鈴木によると、散切隊が助川城に入ったのと前後して、湊付近で大発勢と対峙していた市川らも一進一退を繰り返しつつ、じりじりとその包囲網を狭めつつあった。九月中旬には、筑波勢は平磯村に拠点を置いていたものの、那珂川を挟んで南側の大場村や大貫村の各所で、諸生党を含む幕軍と砲撃戦を繰り返していた。また、磯浜の海岸には幕軍の軍艦が接近し、北部からは幕軍の一手である北条新太郎の歩兵隊が部田野方面に進軍するなど、南北から筑波勢や大発勢を挟撃しようと目論んでいたのである。
二十二日には幕軍が磯浜村市街に侵入し、那珂川南部の地域は、ほぼ幕軍の掌中に落ちた。その様子を見た田沼は笠間を発って水戸城下に入り、本営を水戸に移すことを決めた。
だが、いくら包囲網を狭めつつあるとはいえ、散切隊と大発・筑波勢が合流すれば厄介なことになる。そのため、太田に駐留する水戸家中及び二本松藩、平藩、松岡藩に対して、助川城に籠もる散切隊を殲滅せよとの命令が、田沼意尊より下されたというのである。
太田御殿の広間には、伝令役の鈴木や軍監として自ら太田まで赴いた内藤弥太夫を中心に、諸藩の総大将や侍大将格の者らが集結していた。
「二本松の方々には前回の総攻撃と同様に、正面口を受け持って頂きたい。二本松藩の各組の細かな陣割は、日野殿にお任せ致す所存でござる」
内藤が源太左衛門に視線を向けると、源太左衛門はちらりと笑みを浮かべた。
「無論、望むところでござる。今までの借りを返さねばなりますまい」
その言葉を聞いて、鳴海も顔を綻ばせた。此度の従軍を通じて、源太左衛門の剛毅な一面にも、徐々に慣れつつある。
続けて、内藤は次々と布陣を決めていった。二本松軍の出立と前後して、北方には松岡藩の中山備前守勢二五〇名、平藩安藤理三郎二五〇名、水戸藩菊地善左衛門勢一〇〇名及び砲隊三〇名。また、海岸の川尻口には、友部海防陣屋の責任者である木内六右衛門勢及び砲隊三〇名が、入四間などの山道を通って回り込む。加えて、川尻口の見張り役に当たっていた寺門勢二〇〇名は宮田村まで進軍させる。
一方、助川城は東口から三の丸の大手門、二の丸を通るとようやく本丸に辿り着く。こちらが正道であり、二本松軍はそちらから砲撃を加える手筈となった。万が一に備え、後詰めとして水戸藩の鵜殿平七勢を成沢村に待機させ、高鈴山には相羽九十郎ら一〇〇名が散切隊の退路を遮断する。
二本松勢は、先に五番組が石名坂から街道沿いに北上して下孫に布陣し、また、植木次郎右衛門と小川平助が入四間方面の警邏も兼ねて、真弓古道から大久保村に入り、そのまま河原子へ抜ける手筈となった。戦いの趨勢次第では、源太左衛門や与兵衛も出陣する。
「まず間違いなく、散切隊は南方の筑波勢や大発勢との合流を目論んでおりましょう」
全軍の軍議の後の二本松藩内だけの軍議の席で、鳴海は絵図を睨みつけた。十八日未明に九右衛門らが下孫に赴いていた隙を突いて寺門勢を破った後も、散切隊は度々助川から水木村や森山村まで進出してきている。一度は湊勢から助力を拒まれたにも関わらず、情勢が変わりつつある今では、受け入れられると見込んでいるのかもしれない。
「たとえ散切隊が助力を求めたとしても、大炊頭様は決して奴らを受け入れますまい。あれを受け入れれば、名実共に賊軍と見做されてしまう」
内藤が、きっぱりと述べた。内藤の言う通り、名目上は水戸藩主である慶篤の名代である大炊頭が、もっとも暴虐の限りを尽くした散切隊を受け入れるというのは、考えにくかった。
が、戦の行方というのは蓋を開けてみるまでわからない。
軍議が終わったところで、鳴海はひらりと愛馬に跨った。先日から散切隊は度々城を出て攻撃を仕掛けてきており、のんびりと太田に留まっている猶予はなかった。
途中、昼食を取るために立ち寄った石名坂では、再び戸祭が大沼から出張してきていた。
「戸祭殿は、やはり石名坂の守備に回られましたか」
「左様、内藤様から伝令が遣わされましてな。お主にとっても因縁の場であるから、此度こそ散切隊の者らに物言わせてやれとのご命令を承りました」
戸祭は、微苦笑を浮かべて答えた。確かに、八月下旬の金沢合戦では、ここで茅根貞蔵のために山野辺氏を助川に逃亡させてしまい、今月九日や十四日の戦闘でも、散切隊のために苦汁を喫している。が、それだけ戦いを重ねていれば、この地の利に通じているということでもある。ここに戸祭を廻した内藤の判断は妥当だろう。
続けて鳴海が石名坂の民家への被害状況を尋ねると、渋々といった体で「石神からこの石名坂にかけて、また何軒か焼かれたという報告が入っておりまする」と低声で述べた。
「かの者の仕業ではございますまいな?」
鳴海が念を押したのは、先日、意気揚々と「水木陣屋に火を放った」と報告した寺門の件が、念頭にあったからだ。だが戸祭は、すっと鳴海から視線を外した。
「――いずれの仕業か、はきとは分かりませぬ。この辺りは、家ごとに諸生方に応じる者、或いは天狗方に応じる者と入り混じっております故……。これだけ互いに誅し合えば、最早その憎しみは誰にも止められますまい」
その言葉に、鳴海もそれ以上戸祭を責めるのを、思い留めた。大沼海防陣屋の責任者である戸祭も、苦い思いを抱えながら事に当たっているのだ。まして、余所者の自分があれこれと意見を述べられるわけがない。
「せめて、御手の者らには乱妨を控えるよう命じられよ」
鳴海がこの石名坂に来るまでの間にも、いくつもの黒焦げの家が見えた。今月三日に通りかかった際には、普通の民家だった家である。いずれの側が火を放ったのかはわからないほどに双方が憎しみ合っているのが、今の日立地方の現状だった。
二十二日には幕軍が磯浜村市街に侵入し、那珂川南部の地域は、ほぼ幕軍の掌中に落ちた。その様子を見た田沼は笠間を発って水戸城下に入り、本営を水戸に移すことを決めた。
だが、いくら包囲網を狭めつつあるとはいえ、散切隊と大発・筑波勢が合流すれば厄介なことになる。そのため、太田に駐留する水戸家中及び二本松藩、平藩、松岡藩に対して、助川城に籠もる散切隊を殲滅せよとの命令が、田沼意尊より下されたというのである。
太田御殿の広間には、伝令役の鈴木や軍監として自ら太田まで赴いた内藤弥太夫を中心に、諸藩の総大将や侍大将格の者らが集結していた。
「二本松の方々には前回の総攻撃と同様に、正面口を受け持って頂きたい。二本松藩の各組の細かな陣割は、日野殿にお任せ致す所存でござる」
内藤が源太左衛門に視線を向けると、源太左衛門はちらりと笑みを浮かべた。
「無論、望むところでござる。今までの借りを返さねばなりますまい」
その言葉を聞いて、鳴海も顔を綻ばせた。此度の従軍を通じて、源太左衛門の剛毅な一面にも、徐々に慣れつつある。
続けて、内藤は次々と布陣を決めていった。二本松軍の出立と前後して、北方には松岡藩の中山備前守勢二五〇名、平藩安藤理三郎二五〇名、水戸藩菊地善左衛門勢一〇〇名及び砲隊三〇名。また、海岸の川尻口には、友部海防陣屋の責任者である木内六右衛門勢及び砲隊三〇名が、入四間などの山道を通って回り込む。加えて、川尻口の見張り役に当たっていた寺門勢二〇〇名は宮田村まで進軍させる。
一方、助川城は東口から三の丸の大手門、二の丸を通るとようやく本丸に辿り着く。こちらが正道であり、二本松軍はそちらから砲撃を加える手筈となった。万が一に備え、後詰めとして水戸藩の鵜殿平七勢を成沢村に待機させ、高鈴山には相羽九十郎ら一〇〇名が散切隊の退路を遮断する。
二本松勢は、先に五番組が石名坂から街道沿いに北上して下孫に布陣し、また、植木次郎右衛門と小川平助が入四間方面の警邏も兼ねて、真弓古道から大久保村に入り、そのまま河原子へ抜ける手筈となった。戦いの趨勢次第では、源太左衛門や与兵衛も出陣する。
「まず間違いなく、散切隊は南方の筑波勢や大発勢との合流を目論んでおりましょう」
全軍の軍議の後の二本松藩内だけの軍議の席で、鳴海は絵図を睨みつけた。十八日未明に九右衛門らが下孫に赴いていた隙を突いて寺門勢を破った後も、散切隊は度々助川から水木村や森山村まで進出してきている。一度は湊勢から助力を拒まれたにも関わらず、情勢が変わりつつある今では、受け入れられると見込んでいるのかもしれない。
「たとえ散切隊が助力を求めたとしても、大炊頭様は決して奴らを受け入れますまい。あれを受け入れれば、名実共に賊軍と見做されてしまう」
内藤が、きっぱりと述べた。内藤の言う通り、名目上は水戸藩主である慶篤の名代である大炊頭が、もっとも暴虐の限りを尽くした散切隊を受け入れるというのは、考えにくかった。
が、戦の行方というのは蓋を開けてみるまでわからない。
軍議が終わったところで、鳴海はひらりと愛馬に跨った。先日から散切隊は度々城を出て攻撃を仕掛けてきており、のんびりと太田に留まっている猶予はなかった。
途中、昼食を取るために立ち寄った石名坂では、再び戸祭が大沼から出張してきていた。
「戸祭殿は、やはり石名坂の守備に回られましたか」
「左様、内藤様から伝令が遣わされましてな。お主にとっても因縁の場であるから、此度こそ散切隊の者らに物言わせてやれとのご命令を承りました」
戸祭は、微苦笑を浮かべて答えた。確かに、八月下旬の金沢合戦では、ここで茅根貞蔵のために山野辺氏を助川に逃亡させてしまい、今月九日や十四日の戦闘でも、散切隊のために苦汁を喫している。が、それだけ戦いを重ねていれば、この地の利に通じているということでもある。ここに戸祭を廻した内藤の判断は妥当だろう。
続けて鳴海が石名坂の民家への被害状況を尋ねると、渋々といった体で「石神からこの石名坂にかけて、また何軒か焼かれたという報告が入っておりまする」と低声で述べた。
「かの者の仕業ではございますまいな?」
鳴海が念を押したのは、先日、意気揚々と「水木陣屋に火を放った」と報告した寺門の件が、念頭にあったからだ。だが戸祭は、すっと鳴海から視線を外した。
「――いずれの仕業か、はきとは分かりませぬ。この辺りは、家ごとに諸生方に応じる者、或いは天狗方に応じる者と入り混じっております故……。これだけ互いに誅し合えば、最早その憎しみは誰にも止められますまい」
その言葉に、鳴海もそれ以上戸祭を責めるのを、思い留めた。大沼海防陣屋の責任者である戸祭も、苦い思いを抱えながら事に当たっているのだ。まして、余所者の自分があれこれと意見を述べられるわけがない。
「せめて、御手の者らには乱妨を控えるよう命じられよ」
鳴海がこの石名坂に来るまでの間にも、いくつもの黒焦げの家が見えた。今月三日に通りかかった際には、普通の民家だった家である。いずれの側が火を放ったのかはわからないほどに双方が憎しみ合っているのが、今の日立地方の現状だった。
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