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第三章 常州騒乱
討伐(4)
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「――まさか、鳴海殿が番頭として常州に赴かれているとは思いも寄らぬことでした。先日お見かけした折には拙者も驚きましたが、さすが、彦十郎家の御方ですな」
やや皮肉を帯びているものの、その声からは敵意が一切感じられなかった。まるで、懐かしい旧友に会いに来たと言わんばかりの、柔らかさである。それにも関わらず、身形は先日見かけた通り、髷を落として白い袴を履き、白襷を掛けた異様な風体だ。常州の者らがこの姿を恐れるのも無理はないと、鳴海はぼんやりと思った。
「鳴海殿」
成渡が小声で囁いて、芳之助の腰に視線を彷徨わせた。成渡の視線を追って、鳴海もはっとした。芳之助は、腰の物を持ち合わせていなかった。なぜ、寸鉄も帯びていないのか。答えは一つしかありえなかった。
月明かりを背にしたその姿は、独特の不気味さと威容を備え、刹那、鳴海も息を呑む。
(この川を渡って、斬りにいくか……)
じりじりと間合いを測りながら、鳴海は芳之助を見据えた。が、剣を構えていない無防備な者を斬るのは、さすがの鳴海も躊躇いがある。それを狙って無防備な姿でのこのことやってきたのだとしたら、今の芳之助は相当の策士としか言いようがなかった。
「芳之助。何をしにここへ参った」
成渡の声も、いつになく硬い。成渡の声からは、かつての同胞に対する複雑な感情が伺える。だが、芳之助は静かに笑みを浮かべているだけだった。
「お主らに頼みがある。せめて、清吉は助けてやってもらえぬか。後生だ」
その言葉に、鳴海はちらりと成渡に視線を送った。芳之助は斬るとしても、清吉一人を見逃すくらいならば、訳ない。だが、芳之助の言葉に肯きかけた、そのときだった。
「――嫌でございます。あっしとて、芳之助様と身命を共にするつもりで二本松を出て参りました。芳之助様のおられぬ二本松に戻っても、生きる意味はございませぬ。鳴海様、大島様。どうか、芳之助様もお助けくださいませ!」
芳之助の提案を拒んだのは、当の清吉だった。そのあまりの懇願の強さに、鳴海は踏み出し掛けた足を止めた。だが、芳之助はどうあっても助ける術はない。あの主命は、鳴海だけではなく源太左衛門や与兵衛にも下されている。たとえ鳴海が芳之助の命を救ったとしても、他の二人が許すはずがなかった。鳴海は、意を決して息を吸い込んだ。
「お主がこの二年余り行ってきた数々の所業は、到底許されるものではない。それは承知しておるな?」
淡々と告げる鳴海の声色も、硬い。それは自分でも分かった。
「承知しておる」
答える芳之助の声は、鳴海とは対照的に穏やかそのものだった。
「かつ高崎領では、水戸藩士として扱われたそうだな。であれば、二本松に救いを求めるのは、筋違いであろう」
その言葉に、芳之助の顔色が初めて変わった。先程鳴海が成渡に説明した言葉を草叢の影で聞いていたはずだが、改めてその事実を突きつけられたのが、よほど衝撃的だったのだろうか。
「――水戸家中の者として死ねということか」
「そうだ」
そう言いながらも、鳴海にも分かっていた。芳之助は既に国賊としての扱いになっているにも関わらず、思いがけず二本松の面々を目の当たりにした。それでつい気の迷いが出て、「お慈悲を求めなさいませ」という清吉の願いを受け入れ、ここに来てしまった。
たとえ尊皇攘夷の思想に骨の髄まで染まっていたとしても、祖父が水戸藩に縁があったとしても、結局芳之助は、生まれ育った二本松を忘れることができなかったのだ。もはや芳之助が死を逃れる術はなく、せめて、二本松の者の姿を目に焼き付けたかったのだろう。
その望みすら断ち切ろうとしているのは、かつて共に道場で剣を交え、脱藩の折も命を取らずに見逃した鳴海だった――。
「――然らば芳之助。どうしても二本松の者を名乗りたいと申すならば、こちらへ参れ。そして我が佩刀を貸す故、二本松武士としてこの場にて潔く腹を切れ。せめてもの情けとして、介錯はしてやる」
鳴海の非情な命令に、傍らで成渡が息を呑むのが分かった。今しがた告げた言葉は、紛れもなく藩の重鎮としての命令である。だが、源太左衛門や与兵衛であっても、恐らく同じように命じたはずだ。
それでも、平然と命令を下しながら、鳴海は自分で自分が恐ろしかった。戦いの場は別として、今まで人に死を命じたことはない。
(鬼鳴海と言われるわけだ)
自嘲したい思いで、鳴海が唇を歪めたときである。
「――芳之助が国を捨てたがるのも、道理だな」
嘲るような色を含んだ涼やかな声が、どこからともなく聞こえてきた。姿は見えない。だが、鳴海は直感でその声の主が分かった。
(田中愿蔵……)
芳之助に積極的に尊皇攘夷の思想を吹き込み、関東各所で「攘夷」のためと称して狼藉を働き、今なおその正体が判別できない男。その男が、芳之助を連れ戻すためにどこかに潜んでいる。だがこちらの殺気を気にする様子もなく、愿蔵は嘲りの言葉を続けた。
「たとえ剣豪だ何だと持ち上げられても、他所からの流れ者はいつまで経っても余所者扱い。それがどれほど屈辱的なことか、お主らには分かるまい」
愿蔵が告げた言葉は、脱藩の折に芳之助が述べていたことでもあった。鳴海の記憶が正しければ田中愿蔵も元を正せば医者の子で、水戸弘道館で英才扱いをされながらも、藤田小四郎ら正当な武家出身者からは疎んじられていた存在だった。だからこそ、似たような境遇の芳之助と響き合うものがあったのだろう。
「だが、我らは違う。お主らのように見捨てることなく、芳之助を最後まで同志として守ろう」
やや皮肉を帯びているものの、その声からは敵意が一切感じられなかった。まるで、懐かしい旧友に会いに来たと言わんばかりの、柔らかさである。それにも関わらず、身形は先日見かけた通り、髷を落として白い袴を履き、白襷を掛けた異様な風体だ。常州の者らがこの姿を恐れるのも無理はないと、鳴海はぼんやりと思った。
「鳴海殿」
成渡が小声で囁いて、芳之助の腰に視線を彷徨わせた。成渡の視線を追って、鳴海もはっとした。芳之助は、腰の物を持ち合わせていなかった。なぜ、寸鉄も帯びていないのか。答えは一つしかありえなかった。
月明かりを背にしたその姿は、独特の不気味さと威容を備え、刹那、鳴海も息を呑む。
(この川を渡って、斬りにいくか……)
じりじりと間合いを測りながら、鳴海は芳之助を見据えた。が、剣を構えていない無防備な者を斬るのは、さすがの鳴海も躊躇いがある。それを狙って無防備な姿でのこのことやってきたのだとしたら、今の芳之助は相当の策士としか言いようがなかった。
「芳之助。何をしにここへ参った」
成渡の声も、いつになく硬い。成渡の声からは、かつての同胞に対する複雑な感情が伺える。だが、芳之助は静かに笑みを浮かべているだけだった。
「お主らに頼みがある。せめて、清吉は助けてやってもらえぬか。後生だ」
その言葉に、鳴海はちらりと成渡に視線を送った。芳之助は斬るとしても、清吉一人を見逃すくらいならば、訳ない。だが、芳之助の言葉に肯きかけた、そのときだった。
「――嫌でございます。あっしとて、芳之助様と身命を共にするつもりで二本松を出て参りました。芳之助様のおられぬ二本松に戻っても、生きる意味はございませぬ。鳴海様、大島様。どうか、芳之助様もお助けくださいませ!」
芳之助の提案を拒んだのは、当の清吉だった。そのあまりの懇願の強さに、鳴海は踏み出し掛けた足を止めた。だが、芳之助はどうあっても助ける術はない。あの主命は、鳴海だけではなく源太左衛門や与兵衛にも下されている。たとえ鳴海が芳之助の命を救ったとしても、他の二人が許すはずがなかった。鳴海は、意を決して息を吸い込んだ。
「お主がこの二年余り行ってきた数々の所業は、到底許されるものではない。それは承知しておるな?」
淡々と告げる鳴海の声色も、硬い。それは自分でも分かった。
「承知しておる」
答える芳之助の声は、鳴海とは対照的に穏やかそのものだった。
「かつ高崎領では、水戸藩士として扱われたそうだな。であれば、二本松に救いを求めるのは、筋違いであろう」
その言葉に、芳之助の顔色が初めて変わった。先程鳴海が成渡に説明した言葉を草叢の影で聞いていたはずだが、改めてその事実を突きつけられたのが、よほど衝撃的だったのだろうか。
「――水戸家中の者として死ねということか」
「そうだ」
そう言いながらも、鳴海にも分かっていた。芳之助は既に国賊としての扱いになっているにも関わらず、思いがけず二本松の面々を目の当たりにした。それでつい気の迷いが出て、「お慈悲を求めなさいませ」という清吉の願いを受け入れ、ここに来てしまった。
たとえ尊皇攘夷の思想に骨の髄まで染まっていたとしても、祖父が水戸藩に縁があったとしても、結局芳之助は、生まれ育った二本松を忘れることができなかったのだ。もはや芳之助が死を逃れる術はなく、せめて、二本松の者の姿を目に焼き付けたかったのだろう。
その望みすら断ち切ろうとしているのは、かつて共に道場で剣を交え、脱藩の折も命を取らずに見逃した鳴海だった――。
「――然らば芳之助。どうしても二本松の者を名乗りたいと申すならば、こちらへ参れ。そして我が佩刀を貸す故、二本松武士としてこの場にて潔く腹を切れ。せめてもの情けとして、介錯はしてやる」
鳴海の非情な命令に、傍らで成渡が息を呑むのが分かった。今しがた告げた言葉は、紛れもなく藩の重鎮としての命令である。だが、源太左衛門や与兵衛であっても、恐らく同じように命じたはずだ。
それでも、平然と命令を下しながら、鳴海は自分で自分が恐ろしかった。戦いの場は別として、今まで人に死を命じたことはない。
(鬼鳴海と言われるわけだ)
自嘲したい思いで、鳴海が唇を歪めたときである。
「――芳之助が国を捨てたがるのも、道理だな」
嘲るような色を含んだ涼やかな声が、どこからともなく聞こえてきた。姿は見えない。だが、鳴海は直感でその声の主が分かった。
(田中愿蔵……)
芳之助に積極的に尊皇攘夷の思想を吹き込み、関東各所で「攘夷」のためと称して狼藉を働き、今なおその正体が判別できない男。その男が、芳之助を連れ戻すためにどこかに潜んでいる。だがこちらの殺気を気にする様子もなく、愿蔵は嘲りの言葉を続けた。
「たとえ剣豪だ何だと持ち上げられても、他所からの流れ者はいつまで経っても余所者扱い。それがどれほど屈辱的なことか、お主らには分かるまい」
愿蔵が告げた言葉は、脱藩の折に芳之助が述べていたことでもあった。鳴海の記憶が正しければ田中愿蔵も元を正せば医者の子で、水戸弘道館で英才扱いをされながらも、藤田小四郎ら正当な武家出身者からは疎んじられていた存在だった。だからこそ、似たような境遇の芳之助と響き合うものがあったのだろう。
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