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第三章 常州騒乱
対峙(5)
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太田御殿に詰めている佐治には、予め井上が馬を飛ばして、山野辺家中の降伏を受諾した旨を伝えてあった。鳴海たちが太田城下に到着したのは、丁度昼餉の頃合いだった。北の黒門から太田城下に入ると、街がざわついている。
北の黒門で一同を出迎えたのは、連絡役に残してあった政之進だった。
「政之進、何があった」
馬から下りると、鳴海は政之進に尋ねた。
「昨日から久慈川のほとりで激戦となっております。その風聞が太田にまで届いておりまして、町人らが浮足立っている次第でござる」
報告する政之進の顔も、強張っている。
「まことか」
鳴海の顔も、険しさを帯びた。
「御家老は、本陣におられるか?」
「昨日の督戦の折に、胸に被弾されたという話もございましたが……。浄光寺で特に動きがないところを見ると、ご無事なのでございましょう」
その報告を聞くと、鳴海は駆け出したい衝動を辛うじて抑えた。まずは、太田御殿に山野辺家一同を送り届けなければならない。
「山野辺家御一同を水藩の方々に委ねたら、すぐに本陣に参ると伝えよ」
政之進は一つ肯くと、そのまま西塙の方へ足を向けた。それを見送ると、鳴海は隣にいる主水正に視線を送った。
主水正が、するりと馬から下りた。背後にいる家臣らも、それに倣う。山野辺家は建前としては既に罪人扱いであるため、馬で御殿に乗り入れるわけにはいかないのだ。
「是馬介、山野辺御家中の方々の馬を御殿の厩へ」
手近にいた小笠原是馬介に馬の世話を命じると、是馬介は手際よく馬を引いていった。それを見送る主水正の顔からは、先程まで見せていた親しげな色は既に消えていた。
「道中のお気遣い、誠に痛み入る」
声色すら変えており、それは既に水戸藩執政並びに助川海防城主としての声であった。御殿からこちらの様子を伺っているであろう、佐治ら諸生党の面々の視線を意識してのことだろう。
「御身の御無事を、お祈り申し上げまする」
鳴海が背後に聞こえないくらいの小声で囁くと、主水正は微かに笑みを浮かべ、肯いてみせた。
「大谷殿。拙者は二本松の方々には恨みはござらぬ。が、我が信を裏切った戸祭久之允やその配下の博徒らは、永劫に許しませぬ」
小声で囁き返された言葉に、鳴海は背筋が凍りつくのを感じた。主水正の言葉は、宇都宮で拝命した水野勝知公の言葉に通じるものがあった。
そして、主水正は堂々と胸を張り御殿の門を潜った。その後姿は、やはり水戸藩の重鎮たる威容を備えていた。
鳴海は黙ってしばしその姿を見守っていたが、佐治らに伴われて御殿の中に山野辺家一同の姿が消えたのを確認すると、自分の馬は一旦宿に連れて行くように指示を与え、足早に二本松軍の本陣にある浄光寺に駆け出した。
「御家老!」
息を切らして本堂に駆け込むと、見慣れた顔が源太左衛門の側に付き添っていた。
「お静かになさいませ。今しがた、薬師の診察を終えたばかりでございます」
成田外記右衛門が、こちらに渋い顔を向けた。
「落ち着かれよ、鳴海殿。両社山の守り札に助けられた故、大事はない」
布団の中からややくぐもった声が聞こえ、鳴海はどっと体の力が抜けた。普段よりも声の力強さに欠けているものの、この分であれば、政之進から伝えられたように、確かに大事はなさそうである。
「政之進から、先に報告を受けた。今朝方、主水正様の降伏を受け入れ、太田に送って参ったそうだな」
「左様にございまする」
鳴海は、そのまま次の指示を待ち受けた。先の源太左衛門の処置と異なる故、或いは叱責を受けるかとも思ったのである。
「――現状であれば、それでよかろう」
絞り出すように呟かれた言葉に、安堵感が広がる。
「勿体なきお言葉でございまする」
頭を下げる鳴海に、源太左衛門は布団の中からちらりと笑みを送って寄越した。
「天狗党の者らに、玉を奪われる前で良かった」
源太左衛門の言わんとしているところは、何となく理解できた。たとえ山野辺主水正にその気がなくとも、額田にいる筑波勢が本格的に太田攻略を狙っている現在、主水正がその旗印として担ぎ上げられる可能性は、大いにあっただろうということである。そして、その勢いに乗じて助川海防城を筑波勢の拠点とされれば、厄介なことになっていたはずだった。
「戦は刻々として状況が変わるもの。必ずしも儂の判断に引きずられることが良いとも限らぬ」
「肝に命じまする」
鳴海も、重々しく答えた。
「鳴海殿らがお戻りになられて、よろしゅうございました」
外記右衛門も、ようやく顔をほころばせた。が、すぐに真面目な顔を装う。
「今も、河合村の渡のところで小川殿や植木殿らの手勢と、筑波勢の間で砲撃戦となっているようでございまする」
鳴海は、太田村に入ってきたときの道筋を思い出していた。確かに河合村のところを久慈川が走っていて、そこで砲撃戦になるのは予想されていたことであった。
そこへやってきたのは、水藩の軍監である内藤弥太夫だった。
「日野殿。お加減は如何でござるかな」
「お見苦しい様で、申し訳ござらぬ」
「何の。頭を下げるのは当方でござる」
そして、内藤はそこでようやく鳴海がいるのに気付いたらしい。軽く会釈をしてみせた。
「鳴海殿。今しがた、拙者も太田御殿で主水正様にお目通りして参りました。ご苦労でござったな」
鳴海は、首を横に振った。
「それより、この場に内藤殿が参られたということは、ただの見舞いではございますまい。よろしければ、それがしもこのまま同席してよろしいか」
内藤がわざわざ二本松の本陣に来るということは、河合村の状況や水府本営との連絡を持ってきたに違いなかった。
「無論でござる」
内藤は、別働隊を率いて海岸方面に駐留している鳴海のために、四日の太田戦況から説明してくれた。
まず、鳴海らが海岸方面に向かった翌日早朝から、早々と筑波勢が久慈川対岸に姿を見せた。このとき通報があったのは、額田村の石神明神付近からだった。元々、額田村近辺は天狗勢支持者が多い。その石神明神の森の対岸にある土木内村に布陣していたのが、郡代である植木次郎右衛門である。姿を見せた筑波勢は、旗印からして田丸稲之衛門や藤田小四郎らの率いる本隊だろうということであった。応戦した植木は大砲を二発放ち、さらにそこへ竹瓦から与兵衛隊の一手である寺西次郎介が援軍として駆けつけた。その様子を対岸から伺っていた筑波勢は、その日は一旦額田村に退却した。だが、これで太田奪取を諦めるはずがないと睨んだ内藤は、密かに弘道館に使いをやり、家老である筧に背後から筑波勢を襲撃し、挟撃できるように援軍を要請したのである。
翌五日、内藤の読み通り筑波勢は再び渡河を試みた。前日に額田村に退いたかに見えた筑波勢は隊を分散させ、こちらの戦力も分散させる作戦に打って出た。まず前日、植木隊と戦火を交えた藤田らが率いる本隊は、明け四つ(午前十時)頃米崎村に放火しながら上流の河合村へ移動し、今度はそこからの渡河を試みた。折悪しく、額田村で諸生党の一隊が敗北を喫しており、その隊を破った国分隊がさらに藤田らとの合流を試みるべく、やはり河合村を目指した。八つ時(午後二時)には国分隊も河合に到着し、ここを守っていた二本松藩の小川隊と激しい砲撃戦になったというのである。
これを聞いた源太左衛門は、督戦のため手勢二〇〇名を引き連れて、本陣を河合村の枕石寺に移した。同地に到着したのは暮六つ頃だったが、ここで督戦中に流れ弾に被弾したのだという。
北の黒門で一同を出迎えたのは、連絡役に残してあった政之進だった。
「政之進、何があった」
馬から下りると、鳴海は政之進に尋ねた。
「昨日から久慈川のほとりで激戦となっております。その風聞が太田にまで届いておりまして、町人らが浮足立っている次第でござる」
報告する政之進の顔も、強張っている。
「まことか」
鳴海の顔も、険しさを帯びた。
「御家老は、本陣におられるか?」
「昨日の督戦の折に、胸に被弾されたという話もございましたが……。浄光寺で特に動きがないところを見ると、ご無事なのでございましょう」
その報告を聞くと、鳴海は駆け出したい衝動を辛うじて抑えた。まずは、太田御殿に山野辺家一同を送り届けなければならない。
「山野辺家御一同を水藩の方々に委ねたら、すぐに本陣に参ると伝えよ」
政之進は一つ肯くと、そのまま西塙の方へ足を向けた。それを見送ると、鳴海は隣にいる主水正に視線を送った。
主水正が、するりと馬から下りた。背後にいる家臣らも、それに倣う。山野辺家は建前としては既に罪人扱いであるため、馬で御殿に乗り入れるわけにはいかないのだ。
「是馬介、山野辺御家中の方々の馬を御殿の厩へ」
手近にいた小笠原是馬介に馬の世話を命じると、是馬介は手際よく馬を引いていった。それを見送る主水正の顔からは、先程まで見せていた親しげな色は既に消えていた。
「道中のお気遣い、誠に痛み入る」
声色すら変えており、それは既に水戸藩執政並びに助川海防城主としての声であった。御殿からこちらの様子を伺っているであろう、佐治ら諸生党の面々の視線を意識してのことだろう。
「御身の御無事を、お祈り申し上げまする」
鳴海が背後に聞こえないくらいの小声で囁くと、主水正は微かに笑みを浮かべ、肯いてみせた。
「大谷殿。拙者は二本松の方々には恨みはござらぬ。が、我が信を裏切った戸祭久之允やその配下の博徒らは、永劫に許しませぬ」
小声で囁き返された言葉に、鳴海は背筋が凍りつくのを感じた。主水正の言葉は、宇都宮で拝命した水野勝知公の言葉に通じるものがあった。
そして、主水正は堂々と胸を張り御殿の門を潜った。その後姿は、やはり水戸藩の重鎮たる威容を備えていた。
鳴海は黙ってしばしその姿を見守っていたが、佐治らに伴われて御殿の中に山野辺家一同の姿が消えたのを確認すると、自分の馬は一旦宿に連れて行くように指示を与え、足早に二本松軍の本陣にある浄光寺に駆け出した。
「御家老!」
息を切らして本堂に駆け込むと、見慣れた顔が源太左衛門の側に付き添っていた。
「お静かになさいませ。今しがた、薬師の診察を終えたばかりでございます」
成田外記右衛門が、こちらに渋い顔を向けた。
「落ち着かれよ、鳴海殿。両社山の守り札に助けられた故、大事はない」
布団の中からややくぐもった声が聞こえ、鳴海はどっと体の力が抜けた。普段よりも声の力強さに欠けているものの、この分であれば、政之進から伝えられたように、確かに大事はなさそうである。
「政之進から、先に報告を受けた。今朝方、主水正様の降伏を受け入れ、太田に送って参ったそうだな」
「左様にございまする」
鳴海は、そのまま次の指示を待ち受けた。先の源太左衛門の処置と異なる故、或いは叱責を受けるかとも思ったのである。
「――現状であれば、それでよかろう」
絞り出すように呟かれた言葉に、安堵感が広がる。
「勿体なきお言葉でございまする」
頭を下げる鳴海に、源太左衛門は布団の中からちらりと笑みを送って寄越した。
「天狗党の者らに、玉を奪われる前で良かった」
源太左衛門の言わんとしているところは、何となく理解できた。たとえ山野辺主水正にその気がなくとも、額田にいる筑波勢が本格的に太田攻略を狙っている現在、主水正がその旗印として担ぎ上げられる可能性は、大いにあっただろうということである。そして、その勢いに乗じて助川海防城を筑波勢の拠点とされれば、厄介なことになっていたはずだった。
「戦は刻々として状況が変わるもの。必ずしも儂の判断に引きずられることが良いとも限らぬ」
「肝に命じまする」
鳴海も、重々しく答えた。
「鳴海殿らがお戻りになられて、よろしゅうございました」
外記右衛門も、ようやく顔をほころばせた。が、すぐに真面目な顔を装う。
「今も、河合村の渡のところで小川殿や植木殿らの手勢と、筑波勢の間で砲撃戦となっているようでございまする」
鳴海は、太田村に入ってきたときの道筋を思い出していた。確かに河合村のところを久慈川が走っていて、そこで砲撃戦になるのは予想されていたことであった。
そこへやってきたのは、水藩の軍監である内藤弥太夫だった。
「日野殿。お加減は如何でござるかな」
「お見苦しい様で、申し訳ござらぬ」
「何の。頭を下げるのは当方でござる」
そして、内藤はそこでようやく鳴海がいるのに気付いたらしい。軽く会釈をしてみせた。
「鳴海殿。今しがた、拙者も太田御殿で主水正様にお目通りして参りました。ご苦労でござったな」
鳴海は、首を横に振った。
「それより、この場に内藤殿が参られたということは、ただの見舞いではございますまい。よろしければ、それがしもこのまま同席してよろしいか」
内藤がわざわざ二本松の本陣に来るということは、河合村の状況や水府本営との連絡を持ってきたに違いなかった。
「無論でござる」
内藤は、別働隊を率いて海岸方面に駐留している鳴海のために、四日の太田戦況から説明してくれた。
まず、鳴海らが海岸方面に向かった翌日早朝から、早々と筑波勢が久慈川対岸に姿を見せた。このとき通報があったのは、額田村の石神明神付近からだった。元々、額田村近辺は天狗勢支持者が多い。その石神明神の森の対岸にある土木内村に布陣していたのが、郡代である植木次郎右衛門である。姿を見せた筑波勢は、旗印からして田丸稲之衛門や藤田小四郎らの率いる本隊だろうということであった。応戦した植木は大砲を二発放ち、さらにそこへ竹瓦から与兵衛隊の一手である寺西次郎介が援軍として駆けつけた。その様子を対岸から伺っていた筑波勢は、その日は一旦額田村に退却した。だが、これで太田奪取を諦めるはずがないと睨んだ内藤は、密かに弘道館に使いをやり、家老である筧に背後から筑波勢を襲撃し、挟撃できるように援軍を要請したのである。
翌五日、内藤の読み通り筑波勢は再び渡河を試みた。前日に額田村に退いたかに見えた筑波勢は隊を分散させ、こちらの戦力も分散させる作戦に打って出た。まず前日、植木隊と戦火を交えた藤田らが率いる本隊は、明け四つ(午前十時)頃米崎村に放火しながら上流の河合村へ移動し、今度はそこからの渡河を試みた。折悪しく、額田村で諸生党の一隊が敗北を喫しており、その隊を破った国分隊がさらに藤田らとの合流を試みるべく、やはり河合村を目指した。八つ時(午後二時)には国分隊も河合に到着し、ここを守っていた二本松藩の小川隊と激しい砲撃戦になったというのである。
これを聞いた源太左衛門は、督戦のため手勢二〇〇名を引き連れて、本陣を河合村の枕石寺に移した。同地に到着したのは暮六つ頃だったが、ここで督戦中に流れ弾に被弾したのだという。
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