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第三章 常州騒乱
対峙(3)
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下孫から湯縄子に哨戒に出ていた鳴海がその一行と遭遇したのは、六日の朝のことだった。
鳴海は、長柄奉行の権太左衛門、使番の井上らを連れて愛馬を歩ませていた。既に秋も半ばのためか、海からの照り返しは柔らかい。二本松では嗅ぐことのない潮の香りが落ち着かないのか、馬は時折不満げに鼻を鳴らしている。
湯縄子はこの辺りの景勝地と称されるだけあって、青い海に緑の松がよく映えていた。歌詠みが趣味の者であれば、一首詠みたくなるであろう風情がある。その緑の中に、向こうから白に金色の文様が入った馬印を翻せながらやってくる一行があるのが見え、鳴海は手綱を引いて馬を止めさせた。
「鳴海様。あれは……」
井上も、馬を止めた。馬印に描かれているのは、菊桐の家紋だ。紛れもなく山野辺家の家紋であり、しかも、供回りはわずかである。その中心にいるのは、鳴海とあまり変わらない年頃の男だった。
(山野辺主水正様……)
「丹羽御家中の方々でございますな」
主を先導していた男が、馬から下りてすっと膝をついた。
「我ら山野辺家中一同、二本松陣営に投降致したくこのように罷り越した次第でござる」
鳴海は、黙ってその言葉を聞いていた。先に源太左衛門は、山野辺軍の投降を拒んだ。だが主水正の処分については、鳴海に任せるとも申し付けられている。何と言っても、相手は水戸藩の元執政であり、主家ともつながりが深い。投降を拒むのは簡単だが、太田の方からも激戦の模様が聞こえてきている今、いたずらに敵方の反発を招くのも得策とは言えなかった。
鳴海の内心の迷いを読み取ったかのように、主水正がちらりと気弱そうな笑みを浮かべた。
「二本松藩五番組番頭、大谷鳴海と申す」
鳴海が低い声で述べると、「左様でござるか」と柔らかな声が返ってきた。
「大谷鳴海殿の御名前は、守山の三浦平八郎から聞いたことがございました。文久三年の守山の助郷騒動の折に、平八郎とやりあったそうですな」
このような状況だというのに、敵意を微塵も見せず柔らかに答える主水正は、やはり一廉の人物なのだろう。先日戸祭や寺門らから聞かされたように優柔不断な人物とは、鳴海は感じられなかった。己の感情に気づくと、鳴海は一つ頭を振った。
「井上殿。急ぎ下孫陣営に戻り、戸祭殿に主水正殿らを太田にお連れすると、申し伝えよ。護衛の役目は、我ら二本松藩が引き受けると」
鳴海の命令に、井上はやや目を見開いた。
「では……」
「山野辺様の御身は我らが太田までお預かりして、後の裁定は太田におられる佐治殿にお任せする」
「畏まりまして候」
井上が、ぱっと馬の向きを変えて下孫の方へ駆け出した。それを見送ると、鳴海はほっと息を漏らした。
傍らから、嗚咽が聞こえる。山野辺家の家臣が、無念さを堪え切れずに泣いているのだった。
「仙蔵、泣くでない。そなたは武士ではないか」
家臣を慰める主水正の声は、慈愛に満ちていた。
「ですが殿……。大石田殿や興野殿の身は、どうなるのでしょうか?」
その言葉に、主水正は黙って首を振った。鳴海もいたたまれず、その光景からそっと目を逸らせた。大石田や興野というのは、先に成沢村で何度も二本松陣営に足を運んだという、山野辺家の家臣の名だろう。恐らく、その両名はここまで主を追い詰めてしまった責任を取って腹を切る。主水正も、それをわかっているのだ。
気まずい空気は、そのまましばらく続いた。やがて、一足先に下孫に遣っていた井上が戻ってきたのを見て、鳴海はほっとした。井上は他の二本松藩家臣も含め、山野辺氏一行の護衛として一五〇名ほどを連れていた。残りの兵は、物頭である九右衛門に任せてきたという。井上によると、戸祭も鳴海の申し出を承諾し、海岸方面の哨戒は一両日戸祭や寺門が預かり、鳴海らに太田まで山野辺主水正の身柄を預けるというのである。
「主水正様、山野辺御家中の方々。長柄奉行たる拙者が、御腰の物をお預かり致しまする」
恐る恐るといった体で申し出た権太左衛門に対し、一同は黙って差料を差し出した。もっとも降伏する以上敵意のないことを示してもらうのは、当然の処置である。権太左衛門は側にいた家人に次々に山野辺家臣らの差料を預け、井上が陣屋から持ってきた武具を入れる長持にしまわせた。
五番組の面々からは、特に山野辺家に対する敵愾心のような気配は感じられない。そのことに、鳴海は安堵した。血の気の多い部下らが、うっかり水戸藩の重鎮を手に掛けるようなことがあれば、後でどのような問題につながるかわからないからだ。
念の為、主である主水正と山野辺家臣らはそれぞれ引き離して行列に加え、鳴海自身が主水正の側に馬の轡を並べる形で、真弓道を歩ませていく。
隣で馬を歩ませる男の顔にそっと視線を走らせてみると、その眦には小皺が目立つ。二本松軍に敵愾心を見せることもなく、疲れたような、だがどこかほっとしたような顔で淡々と馬を歩ませているのが、印象的だ。
鳴海の視線に気づいたか、ふと主水正が鳴海に顔を向けた。
「何か?」
「これは、ご無礼仕った」
鳴海が慌てて頭を下げると、主水正は微かに口元に笑みを浮かべた。
鳴海は、長柄奉行の権太左衛門、使番の井上らを連れて愛馬を歩ませていた。既に秋も半ばのためか、海からの照り返しは柔らかい。二本松では嗅ぐことのない潮の香りが落ち着かないのか、馬は時折不満げに鼻を鳴らしている。
湯縄子はこの辺りの景勝地と称されるだけあって、青い海に緑の松がよく映えていた。歌詠みが趣味の者であれば、一首詠みたくなるであろう風情がある。その緑の中に、向こうから白に金色の文様が入った馬印を翻せながらやってくる一行があるのが見え、鳴海は手綱を引いて馬を止めさせた。
「鳴海様。あれは……」
井上も、馬を止めた。馬印に描かれているのは、菊桐の家紋だ。紛れもなく山野辺家の家紋であり、しかも、供回りはわずかである。その中心にいるのは、鳴海とあまり変わらない年頃の男だった。
(山野辺主水正様……)
「丹羽御家中の方々でございますな」
主を先導していた男が、馬から下りてすっと膝をついた。
「我ら山野辺家中一同、二本松陣営に投降致したくこのように罷り越した次第でござる」
鳴海は、黙ってその言葉を聞いていた。先に源太左衛門は、山野辺軍の投降を拒んだ。だが主水正の処分については、鳴海に任せるとも申し付けられている。何と言っても、相手は水戸藩の元執政であり、主家ともつながりが深い。投降を拒むのは簡単だが、太田の方からも激戦の模様が聞こえてきている今、いたずらに敵方の反発を招くのも得策とは言えなかった。
鳴海の内心の迷いを読み取ったかのように、主水正がちらりと気弱そうな笑みを浮かべた。
「二本松藩五番組番頭、大谷鳴海と申す」
鳴海が低い声で述べると、「左様でござるか」と柔らかな声が返ってきた。
「大谷鳴海殿の御名前は、守山の三浦平八郎から聞いたことがございました。文久三年の守山の助郷騒動の折に、平八郎とやりあったそうですな」
このような状況だというのに、敵意を微塵も見せず柔らかに答える主水正は、やはり一廉の人物なのだろう。先日戸祭や寺門らから聞かされたように優柔不断な人物とは、鳴海は感じられなかった。己の感情に気づくと、鳴海は一つ頭を振った。
「井上殿。急ぎ下孫陣営に戻り、戸祭殿に主水正殿らを太田にお連れすると、申し伝えよ。護衛の役目は、我ら二本松藩が引き受けると」
鳴海の命令に、井上はやや目を見開いた。
「では……」
「山野辺様の御身は我らが太田までお預かりして、後の裁定は太田におられる佐治殿にお任せする」
「畏まりまして候」
井上が、ぱっと馬の向きを変えて下孫の方へ駆け出した。それを見送ると、鳴海はほっと息を漏らした。
傍らから、嗚咽が聞こえる。山野辺家の家臣が、無念さを堪え切れずに泣いているのだった。
「仙蔵、泣くでない。そなたは武士ではないか」
家臣を慰める主水正の声は、慈愛に満ちていた。
「ですが殿……。大石田殿や興野殿の身は、どうなるのでしょうか?」
その言葉に、主水正は黙って首を振った。鳴海もいたたまれず、その光景からそっと目を逸らせた。大石田や興野というのは、先に成沢村で何度も二本松陣営に足を運んだという、山野辺家の家臣の名だろう。恐らく、その両名はここまで主を追い詰めてしまった責任を取って腹を切る。主水正も、それをわかっているのだ。
気まずい空気は、そのまましばらく続いた。やがて、一足先に下孫に遣っていた井上が戻ってきたのを見て、鳴海はほっとした。井上は他の二本松藩家臣も含め、山野辺氏一行の護衛として一五〇名ほどを連れていた。残りの兵は、物頭である九右衛門に任せてきたという。井上によると、戸祭も鳴海の申し出を承諾し、海岸方面の哨戒は一両日戸祭や寺門が預かり、鳴海らに太田まで山野辺主水正の身柄を預けるというのである。
「主水正様、山野辺御家中の方々。長柄奉行たる拙者が、御腰の物をお預かり致しまする」
恐る恐るといった体で申し出た権太左衛門に対し、一同は黙って差料を差し出した。もっとも降伏する以上敵意のないことを示してもらうのは、当然の処置である。権太左衛門は側にいた家人に次々に山野辺家臣らの差料を預け、井上が陣屋から持ってきた武具を入れる長持にしまわせた。
五番組の面々からは、特に山野辺家に対する敵愾心のような気配は感じられない。そのことに、鳴海は安堵した。血の気の多い部下らが、うっかり水戸藩の重鎮を手に掛けるようなことがあれば、後でどのような問題につながるかわからないからだ。
念の為、主である主水正と山野辺家臣らはそれぞれ引き離して行列に加え、鳴海自身が主水正の側に馬の轡を並べる形で、真弓道を歩ませていく。
隣で馬を歩ませる男の顔にそっと視線を走らせてみると、その眦には小皺が目立つ。二本松軍に敵愾心を見せることもなく、疲れたような、だがどこかほっとしたような顔で淡々と馬を歩ませているのが、印象的だ。
鳴海の視線に気づいたか、ふと主水正が鳴海に顔を向けた。
「何か?」
「これは、ご無礼仕った」
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