鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

掃討(6)

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 翌二十八日、前日の打ち合わせ通りに、それぞれの兵が出立の準備を整えた。鳴海ら本軍の副将は、与兵衛ということになっている。北方にある助川までは水戸城下から八里ほどあるため、源太左衛門率いる別働隊は払暁の暗いうちから出立していった。夜明け前にも関わらず、水戸城下に屋敷があるという水藩の内藤も、既に神応寺に到着している。
「太田まで、皆を無事に連れて参られよ」
 源太左衛門を見送る鳴海と与兵衛に、源太左衛門は小声で告げた。
「承知致しております。御家老も、どうか御身を大切になされませ」
「うむ」
 源太左衛門は馬首を北方に向けると、暗闇の中にその姿を消した。鳴海と与兵衛はしばしそれを見送っていたが、鳴海の肩にぽんと手を載せる者があった。
「日野殿は、おとこでございまするな」
 軍監として付されている、水戸藩の内藤だった。
「昨日は日野殿のお申し出により、軍議がまとまったようなものでございまする。あれが水戸の者だけであったならば、ああも早くはまとまらなかったでしょう」
 その言葉に、鳴海は曖昧に微笑んでみせた。源太左衛門はああ言っていたが、鳴海の心中としては水戸藩の者の言動は、未だ一律に信用できないところがある。
「我々も日野殿の侠気に後れを取るようなことがあってはなるまい。那珂川の渡河について、少しよろしいか」
「無論」
 与兵衛が、肯いた。そのまま、昨夜再度打ち合わせのために図面が広げられたままの本堂に足を運ぶ。内藤は、図面の一点を指した。昨日の打ち合わせで出てきた、中河内である。その中河内村の北西に、小さいながらも鹿島の社があるという。
「その手前の千歳ちとせの辺りは比較的水が浅く、渡河しやすかろうと存じまする。幸い、ここ数日は比較的天気も良く、雨による増水の心配もござらぬ」
「川の水は怖いですからな」
 鳴海も、内藤の言葉に同意した。二本松出立のときに本宮で思いがけず出水に遭遇し、その怖さは身に沁みている。
「水戸側からは、それがしの手の者を二百六十名ほどを付け申す」
 内藤は、ゆったりと笑った。弘道館では市川らに反論した男という印象しかなかったが、その実なかなかの顔役らしい。目下の者には、地方であるはずの目付や郡奉行までも含んでいるという。今後の太田治安を考えての配分なのだろうが、兵力で言えば、鳴海や与兵衛の部隊とさほど大差はなかった。
「すると、我らが手と内藤殿の兵を合わせれば、凡そ九百から千ほどになりますか」
 与兵衛が、じっと内藤を見た。
「それだけの数が揃えば、天狗党らへの牽制程度にはなり申そう。市川様らも大炊頭様らに当たられると申されておったから、そちらで攻撃している隙を衝いて、我らは大発勢の背後に回る」
 そう述べると、内藤は一つため息をついた。
「――あの後市川様は、武田伊賀守様、山国兵部様、及び田丸稲之衛門殿らの家族を捕らえ投獄すると息巻いておられた。さすれば、天狗共は家の者愛しさ故に気勢を削がれるかもしれぬとな。確かに現在の市川様の勢いを以てすれば、容易いであろうが」
 鳴海は、息を呑んだ。確かに、容易い行為だろう。だが……。
「些か、度を越しすぎではござらぬか。双方の恨みは深くなるばかりでござるぞ」
 与兵衛も、眉を顰めている。内藤は、目を閉じた。
「幕府の後ろ盾を得たのは、確かに市川様。天狗共も、民に迷惑を掛けたのは間違いない。そして、元々市川様と大炊頭様側に付かれた武田伊賀守様らは折り合いがしうござった。こうなるのは、必定だったやもしれぬが……」
 気まずい沈黙が流れた。やがて、内藤はこちらに頭を下げた。
「それだけに、昨日の日野殿の『民の撫育こそ、二本松の藩風』のお言葉は、涼やかに聞こえた。あの様な御方を大将と仰げるならば、武士として本望でござるな」
 鳴海と与兵衛も、黙って内藤に頭を下げた。源太左衛門の見込んだ通り、この内藤はなかなかの人物なのだろう。それだけに、現在の水戸藩の有り様を厭わしく感じているに違いない。
「まずは、無事に兵らを太田に入れることを考えましょうぞ」
 景気付けるように、与兵衛が内藤に笑顔を向けたときである。ドーンと腹の底に響くような音が、川下の方角から断続的に聞こえてきた。
「始まりましたな」
 内藤が、首を音の聞こえてきた方へ巡らした。川下の枝川村や青柳村で戦闘が始まったのだ。鳴海らも、出発しなければならない。
「与兵衛様、鳴海様。御下知を願い奉ります」
 本堂に、井上と佐倉が駆け込んできた。
「直ちに我らも出発する」
 鳴海は、二人に肯いてみせた。手早く兜の緒を締め、山門に向かう。寺の山門のところには、既に鳴海と与兵衛の馬が引き出されていた。
「短い間であったが、世話になり申した」
 与兵衛が、神応寺の住職に頭を下げた。鳴海も与兵衛に続けて頭を下げた。そして顔を上げると、住職は黙ってこちらに向けて手を合わせてくれている。天狗党の者らの中には神道に傾倒するあまり、各地の寺院を焼く者も珍しくなかった。この寺も、幕軍である二本松軍を受け入れたことで、後で天狗党の標的になるかもしれない。それを思うと、身の竦む心地がした。
「行くぞ」
 鳴海は思いを断ち切るかの如くひらりと愛馬に跨り、行列の前の方に出た。その隣には、内藤が付き従っている。やがて、前方に那珂川の川岸が見えてきた。幅はかなりの広さがあるものの、対岸の葦の生え具合はまばらであり、人が潜んでいる気配はなさそうである。
「この千歳からならば、渡るに易いと存じます」
 内藤の言葉に肯きかけ、鳴海はふとあることを思いついた。
「右門」
 鳴海が呼ぶと、右門はすぐにやってきた。
「鳴海殿、何でございましょう」
「水戸の御方と共に那珂川の様子を見てきて欲しい。念の為ということもある」
 ぱっと右門が顔を綻ばせた。右門は魚を愛して止まない奇妙な男だが、かつて竹ノ内擬戦では、その能力を存分に発揮し、鳴海が気が付かなかった志摩らの動きを察知していた経歴がある。
「承知仕りました」
 右門が馬を走らせた。その様子を見た与兵衛が、微かに苦笑を浮かべた。
「まさか、右門があの様な形で役に立つとはな」
「御子息でございましょうが」
 鳴海の軽口に、与兵衛は笑っているばかりだった。そこへ右門が息を弾ませて戻ってきた。
「下手の砲声に驚いたのでしょうか。川面にいくつもの白波が立っておりました」
「魚がこちらへ逃げてきている、ということだな?」
「はい。川下では眼の前の戦闘に夢中になっており、こちらが余程目立つ動きをしなければ渡河に気づかれますまい。瀬の深さも、あの水色であればさほど深くないと見受けました」
 鳴海は、にんまりと笑った。そして、腰から采幣を抜き、前方を指した。進軍の合図である。続けて、馬の鐙に掛けた足先に力を入れた。那珂川の流れに馬ごと身を任せるように、やや斜めに馬を進ませる。幸いにも馬の足が届かないほど深い箇所はなく、手綱を操りながら歩ませることができた。無事対岸に辿り着き、後続の部下たちのために、道を開けてやる。部下らも、難なく渡り切ったようだ。目を眇めて下流に目をやると、曙光の中に、薄茶色の煙とも土埃とも見えるものがもうもうと上がっていた。

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