鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

掃討(3)

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「北方からも攻めてくる可能性がある、ということですな」
 ゆったりとした声色で、源太左衛門は顔を上げて市川を見つめた。
「左様。天狗の浮浪共が南から北上するばかりでなく、北の主水正様が動けば、大義名分を得た天狗共は勢いづくことになりましょうな」
 その乱暴な物言いは、妙に鳴海の癇に障った。が、感情を殺して鳴海も図面に集中する。ここまでの話を整理すると、大発勢が現在本拠地としているのは、那珂湊周辺である。それには、田丸稲右衛門や藤田の率いる筑波勢が合流し、現在は神勢館から青柳・枝川付近に布陣している。が、その一方で北方の助川から山野辺軍が進出してくる可能性もあるということか。
「狙いは、水戸城だけでございましょうか」
 同じことを考えていたのか、与兵衛がぽつりと呟いた。その呟きに、水戸藩の老臣の一人が反応した。
「いや、天狗共が狙うは水戸のみではあるまい。むしろここではないかと、それがしは思う」
 老臣が指し示したのは、太田村だった。
「控えよ、内藤」
 苛立たしげに、市川が睨みつけた。が、内藤は落ち着き払ったものである。口元には、わずかに笑みすら浮かんでいた。
「はて、市川様。それがしは軍監としてこの場にお呼びになられたと存じまするが」
 その反論に、市川はぐっと何かを堪えるように「続けよ」と命じた。一つ肯くと、内藤は太田が狙われる理由を述べていった。
 太田の経済力は水戸を凌ぐものがあり、現在劣勢にある天狗勢はこれを手に入れて傾勢の挽回を期するはずである。また、彼の地は代々瑞龍山に水戸徳川家の霊廟が祀られている。既に筑波勢は、四月の日光参詣の折に烈公の神柱を標しそれを旗幟としている事実がある。万が一筑波勢が太田を占拠するような事があれば、水戸藩累代の瑩域に向かって諸生党が攻撃を加える形になってしまう。そうなれば、自ずと兵らは戦意が鈍り、また、筑波勢に祖廟を警護するという大義名分を与えることになってしまうだろう。
「成程な……」
 北方方面の軍事責任者だという筧が、顔をしかめた。確かに、内藤の言うところは理に適っている。ようやく「横浜鎖港実現」の大義名分は消えたものの、祖廟の地を守るという大義名分を筑波勢に与えれば、諸生党側の戦意喪失につながる。
「拙者は反対でござる。太田は天然の要害故、やすやすとは攻められぬ反面、防備するにも強兵を以て当たらねばなりませぬ。万が一敗れることがあれば、太田の地形では脱出は極めて困難であり、全滅の恐れすらありましょう」
 硬い声を発したのは、まだ若い武将である。彼の言葉に、鳴海は引っ掛かりを覚えた。要するに、二本松藩兵が弱兵であるため、頼るには足りぬということか。
「我らが弱兵と申されますかな」
 同じ苛立ちを覚えたものか、与兵衛が若武者を軽く睨みつけた。確かに水戸藩と比べれば藩の規模は小さい。だがこのような若造に二本松藩を、悪しざまに侮辱される謂れはないだろう。
「落ち着かれよ、与兵衛殿。佐治殿に他意はござるまい」
 源太左衛門が、軽く笑った。その言葉に、佐治は黙って頭を下げた。どうやら、自分でも失言だと感じたのだろう。だが、源太左衛門の目は笑っていないことに、鳴海は気付いた。
「そこまで申されるならば、佐治殿にもご存念がござろう。我々は常州に到着したばかりで、この地の地理には暗い。お差し支えなければ、佐治殿の御存念を拝聴したく存じまする」
 源太左衛門の声は、いかにもゆとりがあるように聞こえた。その声色に安心したか、太田陣将である佐治は、さらに太田防衛に反対の理由を重ねた。
 曰く、水戸兵は水戸本城を守らねばならず、これ以上太田に強力な兵を割く余力がない。叛徒は既に幾度かの敗戦により打撃を受けているのだから、太田奪取の計略を取る余裕はないだろう。万が一筑波勢が攻めてきたならば、その時に総力を以て彼らを撃滅すれば良い。また、地理不案内の他藩にその任を委ねるのは気の毒であり、他藩に必死の覚悟を以て事に当たってくれとは、頼みづらい。まずは那珂湊にいる大発勢を徹底的に潰すべきであろう……というのが、佐治の意見だった。
 佐治が述べる理由はもっともらしく聞こえたが、鳴海の不快感は収まらなかった。要するにこの男、臆病風に吹かれ、かつ、できるだけ自分の手を汚すまいとしているだけではないか。ちらりと与兵衛の様子を伺うと、やはりその目には不信の色が浮かんでいた。
「お気遣い、痛み入りまする「北方からも攻めてくる可能性がある、ということですな」
 ゆったりとした声色で、源太左衛門は顔を上げて市川を見つめた。
「左様。天狗の浮浪共が南から北上するばかりでなく、北の主水正様が動けば、大義名分を得た天狗共は勢いづくことになりましょうな」
 その乱暴な物言いは、妙に鳴海の癇に障った。が、感情を殺して鳴海も図面に集中する。ここまでの話を整理すると、大発勢が現在本拠地としているのは、那珂湊周辺である。それには、田丸稲右衛門や藤田の率いる筑波勢が合流し、現在は神勢館から青柳・枝川付近に布陣している。が、その一方で北方の助川から山野辺軍が進出してくる可能性もあるということか。
「狙いは、水戸城だけでございましょうか」
 同じことを考えていたのか、与兵衛がぽつりと呟いた。その呟きに、水戸藩の老臣の一人が反応した。
「いや、天狗共が狙うは水戸のみではあるまい。むしろここではないかと、それがしは思う」
 老臣が指し示したのは、太田村だった。
「控えよ、内藤」
 苛立たしげに、市川が睨みつけた。が、内藤は落ち着き払ったものである。口元には、わずかに笑みすら浮かんでいた。
「はて、市川様。それがしは軍監としてこの場にお呼びになられたと存じまするが」
 その反論に、市川はぐっと何かを堪えるように「続けよ」と命じた。一つ肯くと、内藤は太田が狙われる理由を述べていった。
 太田の経済力は水戸を凌ぐものがあり、現在劣勢にある天狗勢はこれを手に入れて傾勢の挽回を期するはずである。また、彼の地は代々瑞龍山に水戸徳川家の霊廟が祀られている。既に筑波勢は、四月の日光参詣の折に烈公の神柱を標しそれを旗幟としている事実がある。万が一筑波勢が太田を占拠するような事があれば、水戸藩累代の瑩域に向かって諸生党が攻撃を加える形になってしまう。そうなれば、自ずと兵らは戦意が鈍り、また、筑波勢に祖廟を警護するという大義名分を与えることになってしまうだろう。
「成程な……」
 北方方面の軍事責任者だという筧が、顔をしかめた。確かに、内藤の言うところは理に適っている。ようやく「横浜鎖港実現」の大義名分は消えたものの、祖廟の地を守るという大義名分を筑波勢に与えれば、諸生党側の戦意喪失につながる。
「拙者は反対でござる。太田は天然の要害故、やすやすとは攻められぬ反面、防備するにも強兵を以て当たらねばなりませぬ。万が一敗れることがあれば、太田の地形では脱出は極めて困難であり、全滅の恐れすらありましょう」
 硬い声を発したのは、まだ若い武将である。彼の言葉に、鳴海は引っ掛かりを覚えた。要するに、二本松藩兵が弱兵であるため、頼るには足りぬということか。
「我らが弱兵と申されますかな」
 同じ苛立ちを覚えたものか、与兵衛が若武者を軽く睨みつけた。確かに水戸藩と比べれば藩の規模は小さい。だがこのような若造に二本松藩を、悪しざまに侮辱される謂れはないだろう。
「落ち着かれよ、与兵衛殿。佐治殿に他意はござるまい」
 源太左衛門が、軽く笑った。その言葉に、佐治は黙って頭を下げた。どうやら、自分でも失言だと感じたのだろう。だが、源太左衛門の目は笑っていないことに、鳴海は気付いた。
「そこまで申されるならば、佐治殿にもご存念がござろう。我々は常州に到着したばかりで、この地の地理には暗い。お差し支えなければ、佐治殿の御存念を拝聴したく存じまする」
 源太左衛門の声は、いかにもゆとりがあるように聞こえた。その声色に安心したか、太田陣将である佐治は、さらに太田防衛に反対の理由を重ねた。
 曰く、水戸兵は水戸本城を守らねばならず、これ以上太田に強力な兵を割く余力がない。叛徒は既に幾度かの敗戦により打撃を受けているのだから、太田奪取の計略を取る余裕はないだろう。万が一筑波勢が攻めてきたならば、その時に総力を以て彼らを撃滅すれば良い。また、地理不案内の他藩にその任を委ねるのは気の毒であり、他藩に必死の覚悟を以て事に当たってくれとは、頼みづらい。まずは那珂湊にいる大発勢を徹底的に潰すべきであろう……というのが、佐治の意見だった。
 佐治が述べる理由はもっともらしく聞こえたが、鳴海の不快感は収まらなかった。要するにこの男、臆病風に吹かれ、かつ、できるだけ自分の手を汚すまいとしているだけではないか。ちらりと与兵衛の様子を伺うと、やはりその目には不信の色が浮かんでいた。
「お気遣い、痛み入りまする」
 源太左衛門は、軽く口元に笑みを浮かべて佐治に頭を下げた。それを見た佐治が、ほっとため息を漏らす。が、尚も源太左衛門は内藤に視線を向けた。
「内藤殿と申されたな。今の佐治殿のお言葉、いかにお考えでござるかな」
 内藤は、首を振った。
「湊にいる大炊頭様の軍勢と筑波勢は、切り離して考えるべきでござろう。筑波勢の行動は神出鬼没でござるし、大炊頭様と行動を共にしているのは、その一部に過ぎぬ。筑波勢を除名されて一時は野口郷に戻っていた田中愿蔵も、再び姿を晦ましているという報告も参っておる。また、太田は助川からも連絡をつけやすい土地だ。ここを押さえておかねば、後々大惨事を招きかねぬ」
 その言葉に、佐治が視線を伏せた。図星なのだろう。さらに、内藤が言葉を重ねた。
 確かに太田は天険の要地であり、佐竹氏の故城であった歴史がある。だが、今日の太田は兵備のない商いの街して発展して二百年余りが経過しており、たとえ筑波勢が少勢であったとしても、これを占拠するのは容易い。太田に向かって砲撃を加え、これを奪還するために太田を戦火の巷とするようなことがあれば、繁栄を極めた街は灰燼と帰し、住民の怨嗟の声は善悪を問わず、攻撃を加えた者に向かって放たれるだろう――。
 内藤の言葉に、源太左衛門が顔を上げた。笑みを浮かべて佐治に頭を下げた。それを見た佐治が、ほっとため息を漏らす。が、尚も源太左衛門は内藤に視線を向けた。
「内藤殿と申されたな。今の佐治殿のお言葉、いかにお考えでござるかな」
 内藤は、首を振った。
「湊にいる大炊頭様の軍勢と筑波勢は、切り離して考えるべきでござろう。筑波勢の行動は神出鬼没でござるし、大炊頭様と行動を共にしているのは、その一部に過ぎぬ。筑波勢を除名されて一時は野口郷に戻っていた田中愿蔵も、再び姿を晦ましているという報告も参っておる。また、太田は助川からも連絡をつけやすい土地だ。ここを押さえておかねば、後々大惨事を招きかねぬ」
 その言葉に、佐治が視線を伏せた。図星なのだろう。さらに、内藤が言葉を重ねた。
 確かに太田は天険の要地であり、佐竹氏の故城であった歴史がある。だが、今日の太田は兵備のない商いの街して発展して二百年余りが経過しており、たとえ筑波勢が少勢であったとしても、これを占拠するのは容易い。太田に向かって砲撃を加え、これを奪還するために太田を戦火の巷とするようなことがあれば、繁栄を極めた街は灰燼と帰し、住民の怨嗟の声は善悪を問わず、攻撃を加えた者に向かって放たれるだろう――。
 内藤の言葉に、源太左衛門が顔を上げた。
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