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第三章 常州騒乱
掃討(1)
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勝知公と密かに対面した翌日、源太左衛門は植木と使番頭である日野七郎次を水戸に派遣した。水戸には諸生党である市川三左衛門らが幕軍と共に水戸城に籠もっており、市川らから二本松軍の進軍についての指示を受けるためである。
宇都宮城下には、福島藩兵の姿もあった。二本松藩より先に日光警衛を命じられていたはずだが、どうやら常州へ転陣となったらしい。
水戸に派遣した植木と七郎次が水戸諸生党らの復命を受けて戻ってきたのは、二十四日だった。植木らによると、水戸近郊では、藩主名代として派遣された宍戸藩主松平大炊頭頼徳と、水戸城に籠もる市川らの間で睨み合いになっているという。当月十日に頼徳一行は長岡駅(現茨城町)に到着し、更に水戸城南の台町にある薬王院に入った。そこで市川らに入城の交渉を行ったが、全軍の入城を要求する頼徳と、頼徳のみの入城を求める市川らとの間で交渉が決裂し、頼徳は一旦磯浜海防陣屋に退いたという。そして、尚も水戸城入城を求めて、水戸城北側にある神勢館に向かったが、二十二日、幕軍の来援を見込んだ市川らは頼徳軍に向かって発砲した。頼徳はしばらく防衛のみに留めていたが、市川らの砲撃が激しくなったのを受け遂に反撃に出て、両者の間で戦端が開かれた。
それを報告する植木らは、やや苦っぽい表情を浮かべていた。
「大炊頭様は、慶篤公の藩主名代として水戸に向かわれたのではなかったか?」
鳴海も、戸惑いを禁じ得なかった。八月四日に江戸を出発した松平頼徳は、藩主の名代として水戸に下向したはずである。頼徳一行は水戸に向かう道すがら、市川らに追放された改革派の勢力らを吸収しつつ、府中石岡に到着した時点で三千人余りの一大勢力となっていた。後に一同は「大発勢」と呼ばれるのだが、天狗党そのものを鎮圧するには決して不足のないはずの人数であった。にも関わらず、なぜ市川らと敵対しているのか。二本松藩の者等からすれば、藩主名代に歯向かうなど、とても考えられない。
「どうも十五日、大炊頭様の御一行に筑波勢が合流したようでござる。田沼様には、『大炊頭様が筑波浮浪の徒を引き連れて城下に迫ったので止むを得ず対峙している』と報告されたとの由。ですが、先に執政を免じられた武田伊賀守や榊原新左衛門殿が大炊頭様御一行に付き従われておる。市川殿はそれが気に食わなかったというのが、本音かと思われまする」
「ふむ……」
報告を受ける源太左衛門の表情も、微妙である。市川ら門閥派と、武田伊賀守ら改革派の間に溝があるのは、二本松でもかねてより掴んでいた情報だった。そのため、水戸の市川らは慶篤の意向と関わりなく、直接幕軍の田沼に来援を要請したというのだ。それを受けて、田沼も古河から二十日には結城に入り、幕兵を下館や下妻、その他筑波山付近に配備して、筑波勢残党の水戸進出を警戒しているという。
二本松軍は幕府の意向を受けて出軍したのであるから、自ずと幕軍の支援を受けている諸生党側に立つことになる。が、藩主の意向を無視する市川のやり方には、必ずしも全面的に賛同できるものではなかった。
やがて、源太左衛門は小さく息を吐いた。
「我らの本分を見失ってはなるまい。我らは幕命を奉じて二本松より出張して参ったのだ。水戸におわす市川殿らと共に、事に当たる」
その声色には、僅かな苦々しさが滲んでいた。やはり源太左衛門の見立て通り、水戸藩一行は一筋縄ではいかない。
さらに植木らは、二本松軍の宿舎指定の知らせも持って帰ってきた。それによると、水戸城下上町神崎にある神応寺に、一先ず入られたしとのことであった。植木等が水戸を出立してきた二十二日には、神勢館で遂に戦端が開かれたため、一刻の猶予もならないとの要請である。
「であれば、結城へ出て笠間街道を通り、水戸へ向かうことになりますな。恐らく茂木街道は通れますまい」
手元の絵図を見ながら、与兵衛が断じた。宇都宮から水戸への最短の道は茂木街道なのだが、その途中には野口郷などの天狗党本拠地がある。
源太左衛門が肯いた。
「いずれにせよ、一度田沼様にもお目通りせねばならぬ。笠間を通るのであれば好都合だろう。明日にも宇都宮を出立する」
こうして、八日間宇都宮に滞在した後に、二本松軍一同は常州へ足を踏み入れることになった。
二十五日に宇都宮を出立した二本松軍は、同日笠間に宿泊した。そこで源太左衛門は月窓寺に滞在している田沼意尊の元へ出向き、打ち合わせを行ってきた。田沼も別途一千人余りを援兵として水戸へ赴かせるという。また、田沼は助川海防城主である山野辺主水正義芸にも水戸の警備を命じていたが、どうにも雲行きは怪しいというのが、源太左衛門の見立てだった。
「主水正様も、市川殿らの讒言により執政職を免じられておるからな……。次第によっては、大炊頭様らと通じているかもしれぬ故、ゆめゆめ油断するなと申し付けられた」
源太左衛門の口調は、ますます苦いものとなっていた。日立方面の海防拠点である助川海防城は、水戸藩における重要拠点の一つである。そこから山野辺主水正が兵を率いて出撃してくれば、確かに厄介なことになるだろう。
険しい顔をした鳴海に、源太左衛門は宥めるような視線を向けた。
「二十七日に水戸弘道館で開かれる軍議には、我々も出席することになっておる。まずは、その軍議の結果を以ていかに行動するべきか考える他あるまい」
宇都宮城下には、福島藩兵の姿もあった。二本松藩より先に日光警衛を命じられていたはずだが、どうやら常州へ転陣となったらしい。
水戸に派遣した植木と七郎次が水戸諸生党らの復命を受けて戻ってきたのは、二十四日だった。植木らによると、水戸近郊では、藩主名代として派遣された宍戸藩主松平大炊頭頼徳と、水戸城に籠もる市川らの間で睨み合いになっているという。当月十日に頼徳一行は長岡駅(現茨城町)に到着し、更に水戸城南の台町にある薬王院に入った。そこで市川らに入城の交渉を行ったが、全軍の入城を要求する頼徳と、頼徳のみの入城を求める市川らとの間で交渉が決裂し、頼徳は一旦磯浜海防陣屋に退いたという。そして、尚も水戸城入城を求めて、水戸城北側にある神勢館に向かったが、二十二日、幕軍の来援を見込んだ市川らは頼徳軍に向かって発砲した。頼徳はしばらく防衛のみに留めていたが、市川らの砲撃が激しくなったのを受け遂に反撃に出て、両者の間で戦端が開かれた。
それを報告する植木らは、やや苦っぽい表情を浮かべていた。
「大炊頭様は、慶篤公の藩主名代として水戸に向かわれたのではなかったか?」
鳴海も、戸惑いを禁じ得なかった。八月四日に江戸を出発した松平頼徳は、藩主の名代として水戸に下向したはずである。頼徳一行は水戸に向かう道すがら、市川らに追放された改革派の勢力らを吸収しつつ、府中石岡に到着した時点で三千人余りの一大勢力となっていた。後に一同は「大発勢」と呼ばれるのだが、天狗党そのものを鎮圧するには決して不足のないはずの人数であった。にも関わらず、なぜ市川らと敵対しているのか。二本松藩の者等からすれば、藩主名代に歯向かうなど、とても考えられない。
「どうも十五日、大炊頭様の御一行に筑波勢が合流したようでござる。田沼様には、『大炊頭様が筑波浮浪の徒を引き連れて城下に迫ったので止むを得ず対峙している』と報告されたとの由。ですが、先に執政を免じられた武田伊賀守や榊原新左衛門殿が大炊頭様御一行に付き従われておる。市川殿はそれが気に食わなかったというのが、本音かと思われまする」
「ふむ……」
報告を受ける源太左衛門の表情も、微妙である。市川ら門閥派と、武田伊賀守ら改革派の間に溝があるのは、二本松でもかねてより掴んでいた情報だった。そのため、水戸の市川らは慶篤の意向と関わりなく、直接幕軍の田沼に来援を要請したというのだ。それを受けて、田沼も古河から二十日には結城に入り、幕兵を下館や下妻、その他筑波山付近に配備して、筑波勢残党の水戸進出を警戒しているという。
二本松軍は幕府の意向を受けて出軍したのであるから、自ずと幕軍の支援を受けている諸生党側に立つことになる。が、藩主の意向を無視する市川のやり方には、必ずしも全面的に賛同できるものではなかった。
やがて、源太左衛門は小さく息を吐いた。
「我らの本分を見失ってはなるまい。我らは幕命を奉じて二本松より出張して参ったのだ。水戸におわす市川殿らと共に、事に当たる」
その声色には、僅かな苦々しさが滲んでいた。やはり源太左衛門の見立て通り、水戸藩一行は一筋縄ではいかない。
さらに植木らは、二本松軍の宿舎指定の知らせも持って帰ってきた。それによると、水戸城下上町神崎にある神応寺に、一先ず入られたしとのことであった。植木等が水戸を出立してきた二十二日には、神勢館で遂に戦端が開かれたため、一刻の猶予もならないとの要請である。
「であれば、結城へ出て笠間街道を通り、水戸へ向かうことになりますな。恐らく茂木街道は通れますまい」
手元の絵図を見ながら、与兵衛が断じた。宇都宮から水戸への最短の道は茂木街道なのだが、その途中には野口郷などの天狗党本拠地がある。
源太左衛門が肯いた。
「いずれにせよ、一度田沼様にもお目通りせねばならぬ。笠間を通るのであれば好都合だろう。明日にも宇都宮を出立する」
こうして、八日間宇都宮に滞在した後に、二本松軍一同は常州へ足を踏み入れることになった。
二十五日に宇都宮を出立した二本松軍は、同日笠間に宿泊した。そこで源太左衛門は月窓寺に滞在している田沼意尊の元へ出向き、打ち合わせを行ってきた。田沼も別途一千人余りを援兵として水戸へ赴かせるという。また、田沼は助川海防城主である山野辺主水正義芸にも水戸の警備を命じていたが、どうにも雲行きは怪しいというのが、源太左衛門の見立てだった。
「主水正様も、市川殿らの讒言により執政職を免じられておるからな……。次第によっては、大炊頭様らと通じているかもしれぬ故、ゆめゆめ油断するなと申し付けられた」
源太左衛門の口調は、ますます苦いものとなっていた。日立方面の海防拠点である助川海防城は、水戸藩における重要拠点の一つである。そこから山野辺主水正が兵を率いて出撃してくれば、確かに厄介なことになるだろう。
険しい顔をした鳴海に、源太左衛門は宥めるような視線を向けた。
「二十七日に水戸弘道館で開かれる軍議には、我々も出席することになっておる。まずは、その軍議の結果を以ていかに行動するべきか考える他あるまい」
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