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第三章 常州騒乱
出陣(11)
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「筑波勢の一派に、田中愿蔵という者がおる。それは存じておるな?」
「存じておりまする」
鳴海も、低声で応じた。
「田中愿蔵は、かつて水戸藩の郷校である時雍館の代表を務めておった者でございましょう。栃木宿で放火し、結城城下の者らも脅したという悪行は、我々の耳にも入っておりまする」
「左様。が、それだけではない」
怖い声で、勝知公が説明を続けた。源太左衛門や与兵衛が、固唾を飲んで二人の話に耳を傾けている。
「今年の五月下旬に、田中愿蔵の部下らが高崎藩に捕らえられた。それも聞いておるか?」
「はい」
そこまでは、鳴海や源太左衛門が宇都宮に探索を出して掴んでいた情報だった。だが、次に勝知公がもたらした情報は、三人の顔色を変えた。
「――その捕らえられた一行の名に、二本松を脱藩した藤田芳之助の名があった」
しばし、沈黙が流れた。
「……それは、まことでございますか」
そろそろと、源太左衛門が息を漏らした。宇都宮を探索させていた味岡らは、そこまで突き止められなかったのだろう。宇都宮からさらに離れた高崎藩での出来事であり、味岡らが突き止められなかったとしても、咎められるものではない。
「間違いない。幕閣に事のあらましを報告するために登城した高崎藩の者から、私が直に聞いたのだからな」
そう述べる勝知公の顔には、陰が浮かんでいた。勝知公の怒りは、鳴海にもよく分かった。五月に高崎藩に捕らえられたという一行のうち、猿田忠夫は田中愿蔵の甥である。その男と一緒に、芳之助は積極的に上州の民を脅して回り、あろうことか、かつての主筋が藩主である領内の民をも脅したのだった。
もし、かつての二本松藩士が筑波勢、それも最も過激な派閥に属する一員であると幕府側に知られたならば、二本松にどのような疑いの目が向けられるか分らない――。
「……その重大さ故に、我々のみを内々に呼ばれたのですな」
日頃温厚な源太左衛門の声にも、怒りが混じった。勝知公が、口元の歪みを深めた。
「しかも彼の者。高崎藩が水戸藩に身元を照会したところ、芳之助のみについて『旧水戸藩士の者である』との回答が返ってきたそうだ。どのような説明を、彼の者は周囲にしていたのであろうな」
横をちらりと見ると、与兵衛の目の奥にも怒りが閃いている。芳之助の祖父である藤田三郎兵衛は、かつて水戸藩に仕えていた過去がある。その来歴を説明していたのかもしれないが、芳之助が二本松藩士だった過去は、簡単に消し去れるものではない。
「――主命である」
勝知公が、三人を見据えた。
「二本松の名を語りながらも、戒石銘の藩是に背き無辜の民を傷つけ、我が兄の寛恕の心を裏切った奸賊は許すべからず。始末せよ」
「はっ」
反射的に、三人は平伏した。紛れもなくこれは、鳴海らが二本松軍の責任者として下された密命だった。他の藩士らには、この密命は伝えられない。中には芳之助のかつての知己もおり、知己を誅せよという命令を安易に伝えれば、隊内の動揺を招きかねないからだ。
話が済むと、勝知公は長右衛門に命じて馬の支度をさせた。どうやら本当に、鳴海たちに密命を下すためだけに宇都宮に来たらしい。その身が結城藩の者に見つかると話がややこしくなるため、このまま素知らぬ顔をして江戸藩邸に戻ると、勝知公は再び笑顔を作りながら説明した。
「一体、どのような手立てを用いられて、赤坂の江戸藩邸を抜け出されて来られたのですか?」
今更咎め立てしても仕方ないが、寺の山門を出て本陣に戻ろうとしたところで、鳴海は見送りに出た勝知公に尋ねてみた。勝知公の藩邸からの脱走に付き合わされた小沢は気の毒であるが、やはり藩主と家臣の間に心の隔たりがありすぎるのは、問題である。今の勝知公はあくまでも結城藩主であり、彼が気に掛けなければならないのは、本来ならば結城藩政のことである。
勝知公は黙って笑っているばかりである。が、鳴海は強いて諌言を述べた。
「日向守様のお言葉は、今でも拙者の内にありまする。ですが、日向守様が二本松のことを思う余り、結城家中の者らと方向を違えることがあってはならぬとも思います。万が一結城藩が水戸の二の舞となることがあれば、それこそ国元の長国公らの御心を傷つけましょう」
「――お主も番頭となってから、言うようになったではないか」
勝知公が、小さく笑った。が、決して嫌そうではない。ありのままに胸襟を開ける家臣が、今の勝知公の回りにはいないのかと思うと、鳴海は改めて胸を突かれる思いがした。今回勝知公が密かに三人を呼び出したのは、己が密命を伝えるためだけではなかったのかもしれない。だが、こればかりは、勝知公が自身で向き合わなければならない問題だ。
「分かっておる。私も、そなたの言葉を覚えておこう」
二人は、焦れて待つ源太左衛門や与兵衛、長右衛門らをそれぞれ背にして、ひっそりと笑みを交わした。
「存じておりまする」
鳴海も、低声で応じた。
「田中愿蔵は、かつて水戸藩の郷校である時雍館の代表を務めておった者でございましょう。栃木宿で放火し、結城城下の者らも脅したという悪行は、我々の耳にも入っておりまする」
「左様。が、それだけではない」
怖い声で、勝知公が説明を続けた。源太左衛門や与兵衛が、固唾を飲んで二人の話に耳を傾けている。
「今年の五月下旬に、田中愿蔵の部下らが高崎藩に捕らえられた。それも聞いておるか?」
「はい」
そこまでは、鳴海や源太左衛門が宇都宮に探索を出して掴んでいた情報だった。だが、次に勝知公がもたらした情報は、三人の顔色を変えた。
「――その捕らえられた一行の名に、二本松を脱藩した藤田芳之助の名があった」
しばし、沈黙が流れた。
「……それは、まことでございますか」
そろそろと、源太左衛門が息を漏らした。宇都宮を探索させていた味岡らは、そこまで突き止められなかったのだろう。宇都宮からさらに離れた高崎藩での出来事であり、味岡らが突き止められなかったとしても、咎められるものではない。
「間違いない。幕閣に事のあらましを報告するために登城した高崎藩の者から、私が直に聞いたのだからな」
そう述べる勝知公の顔には、陰が浮かんでいた。勝知公の怒りは、鳴海にもよく分かった。五月に高崎藩に捕らえられたという一行のうち、猿田忠夫は田中愿蔵の甥である。その男と一緒に、芳之助は積極的に上州の民を脅して回り、あろうことか、かつての主筋が藩主である領内の民をも脅したのだった。
もし、かつての二本松藩士が筑波勢、それも最も過激な派閥に属する一員であると幕府側に知られたならば、二本松にどのような疑いの目が向けられるか分らない――。
「……その重大さ故に、我々のみを内々に呼ばれたのですな」
日頃温厚な源太左衛門の声にも、怒りが混じった。勝知公が、口元の歪みを深めた。
「しかも彼の者。高崎藩が水戸藩に身元を照会したところ、芳之助のみについて『旧水戸藩士の者である』との回答が返ってきたそうだ。どのような説明を、彼の者は周囲にしていたのであろうな」
横をちらりと見ると、与兵衛の目の奥にも怒りが閃いている。芳之助の祖父である藤田三郎兵衛は、かつて水戸藩に仕えていた過去がある。その来歴を説明していたのかもしれないが、芳之助が二本松藩士だった過去は、簡単に消し去れるものではない。
「――主命である」
勝知公が、三人を見据えた。
「二本松の名を語りながらも、戒石銘の藩是に背き無辜の民を傷つけ、我が兄の寛恕の心を裏切った奸賊は許すべからず。始末せよ」
「はっ」
反射的に、三人は平伏した。紛れもなくこれは、鳴海らが二本松軍の責任者として下された密命だった。他の藩士らには、この密命は伝えられない。中には芳之助のかつての知己もおり、知己を誅せよという命令を安易に伝えれば、隊内の動揺を招きかねないからだ。
話が済むと、勝知公は長右衛門に命じて馬の支度をさせた。どうやら本当に、鳴海たちに密命を下すためだけに宇都宮に来たらしい。その身が結城藩の者に見つかると話がややこしくなるため、このまま素知らぬ顔をして江戸藩邸に戻ると、勝知公は再び笑顔を作りながら説明した。
「一体、どのような手立てを用いられて、赤坂の江戸藩邸を抜け出されて来られたのですか?」
今更咎め立てしても仕方ないが、寺の山門を出て本陣に戻ろうとしたところで、鳴海は見送りに出た勝知公に尋ねてみた。勝知公の藩邸からの脱走に付き合わされた小沢は気の毒であるが、やはり藩主と家臣の間に心の隔たりがありすぎるのは、問題である。今の勝知公はあくまでも結城藩主であり、彼が気に掛けなければならないのは、本来ならば結城藩政のことである。
勝知公は黙って笑っているばかりである。が、鳴海は強いて諌言を述べた。
「日向守様のお言葉は、今でも拙者の内にありまする。ですが、日向守様が二本松のことを思う余り、結城家中の者らと方向を違えることがあってはならぬとも思います。万が一結城藩が水戸の二の舞となることがあれば、それこそ国元の長国公らの御心を傷つけましょう」
「――お主も番頭となってから、言うようになったではないか」
勝知公が、小さく笑った。が、決して嫌そうではない。ありのままに胸襟を開ける家臣が、今の勝知公の回りにはいないのかと思うと、鳴海は改めて胸を突かれる思いがした。今回勝知公が密かに三人を呼び出したのは、己が密命を伝えるためだけではなかったのかもしれない。だが、こればかりは、勝知公が自身で向き合わなければならない問題だ。
「分かっておる。私も、そなたの言葉を覚えておこう」
二人は、焦れて待つ源太左衛門や与兵衛、長右衛門らをそれぞれ背にして、ひっそりと笑みを交わした。
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