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第三章 常州騒乱
出陣(10)
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本宮で思いがけず足止めを食らったものの、それから宇都宮までは比較的順調な道程だった。郡山を出立した翌十二日は矢吹、それから白坂・鍋掛・佐久山・白沢と順次それぞれの宿場町に宿泊し、十七日にようやく宇都宮の池上町にある本陣に入った。ここで、一旦水戸藩に先触れを出してその復命を待つ一方で、幕閣らと打ち合わせすることになっている。
丹波が手配した江戸藩邸からの増援部隊とも、ここで落ち合うことになっていた。
「朝河殿、お久しゅうござる」
人目を憚ることなく、十右衛門が顔をほころばせた。
先に本陣で待っていたのは、定府勤めであるはずの朝河父子だった。砲術家として二本松ではその名が高いが、この時期はまだ二本松に帰藩していない。もっとも十右衛門はその専門ゆえか、予てより朝河父子と交流があったらしく、あれこれと砲術談義に花を咲かせている。
やれやれと鳴海は与兵衛と顔を見合わせて、苦笑した。そして、鳴海はその側に小沢長右衛門の姿があるのを認めた。
慌てて手元にある江戸からの出陣者名簿に目を走らせると、そこに長右衛門の名はなかった。長右衛門は困ったような表情を浮かべ、何か言いたげである。
「小沢殿。何ゆえ、この場に参られておる?」
鳴海が小声で尋ねると、長右衛門も小声で返答した。
「御三方にお会いしたいという方を、江戸より護衛して参った次第でござる」
その言い方に、鳴海は小首を傾げた。長右衛門は決して身分の低い藩士ではない。むしろ藩内では上位に属する家柄である。源太左衛門や鳴海、与兵衛にわざわざ面会を求め、しかも小沢自らが護衛の任に当たるというのは、相当の貴人に違いなかった。
「どなたが……」
与兵衛も、不審な表情を浮かべている。
「さる御方が内々の話を伝えたいとの由にて、某寺の方丈にてお待ち致しておりまする。まことに申し訳ござらぬが、何卒ご足労願えませぬか」
幸い二本松藩は宇都宮に到着したばかりで、幕閣との打ち合わせは明日以降である。少しばかり、三人には空き時間があった。
「御家老、いかが致しましょう」
源太左衛門の顔にも、困惑の色がありありと浮かんでいる。が、困り果てた様子の長右衛門が気の毒になったのか、植木次郎右衛門と成田外記右衛門を手招いた。外記右衛門は、源太左衛門付きの使番だった。
「しばし与兵衛殿と鳴海殿とで出かけて参る故、そなたらに留守を預ける。他の者らには、幕閣の御方に呼ばれたとでも説明せよ」
植木や外記右衛門も訝しんでいたが、総大将の命である。「畏まりまして候」と答えるのみに留めた。
寺に着くまでの間、長右衛門は黙ったままだった。もっとも案内された寺は、本陣から数丁しか離れていない小寺であった。
寺に通されると、あらかじめ話を付けてあったらしく、直ちに方丈へ案内された。
「日向守様。今しがた二本松の方々が宇都宮にご到着され、御三方を案内して参りました」
その言葉に、三人は思わず顔を見合わせた。まさか――。
長右衛門が、すっと方丈の襖を開いた。そこにはばつの悪そうな顔をした、水野日向守勝知公の姿があった。
「――三人とも、久しいな」
やや弾んだその声は、懐かしくもあった。が、手放しでは喜べない。
「久しいな、ではございますまい。藩主のお忍びは、決して褒められたものではございませぬ」
源太左衛門が頭を下げつつも、やや厳しい声色で咎めた。案の定、勝知公は気まずそうな色を浮かべた。
「分かっておる。そなたらと話したら、直ちに江戸藩邸に戻る。これでも、幕務が山積みの身ぞ」
問題はそういうことではあるまいと思ったが、鳴海は黙っていた。二本松藩が天狗党討伐の幕命を下されたのは、当然勝知公も知っているに違いなかった。だが、わざわざ人目を避けてまで三人に会いに来る理由が、思い当たらなかった。
「結城の者らと、諍いを起こした……というわけではございますまいな」
冗談に紛らわせる与兵衛の言葉にも、わずかに非難の色が混じっている。もちろん与兵衛も勝知公が祐吉君と呼ばれていた頃から主を見知っており、それ故の気安さなのではあるが。
「与兵衛まで……。私ももう幼子ではないのだぞ」
うるさそうに首を振ると、勝知公は鳴海に苦笑いを向けた。老臣らの諌言を煙たがる思いは分からなくもないが、鳴海も心情的には源太左衛門や与兵衛と同じである。
「お久しゅうございまする、日向守様。その節は親しきお言葉を頂戴いたしまして、まことに嬉しく存じました」
勝知公の尊厳をこれ以上傷つけないように言葉を選びながら、鳴海は頭を下げた。勝知公が結城藩に養子に入る前、ひょんなことから鳴海は公からお言葉を頂戴したものだった。与兵衛が、ちらりとこちらを見る。どうやら、志摩からその折の事情を聞いていたらしい。
「覚えておったのか」
勝知公が嬉しそうに、白い八重歯をちらりと見せた。気兼ねなく家臣らと語らうのは、勝知公にとっても久しぶりなのかもしれない。その心中を思うと、鳴海は改めて諌言を重ねる気にはならなかった。
「その時の私の言葉を覚えておるか?」
鳴海は、ゆっくりと肯いた。
「家臣らは、公の優しさに甘えることがあってはならないと。長国公は心優しき御方故、どなたも股肱の臣として慈しんでおられるが、日向守様と致しましては、それに甘えてほしくはないと仰せになりました」
番頭となった今でも、勝知公の言葉は鳴海にとって己への戒めとなっている。
「私の思いは、今でもあの時と変わっておらぬ。だからこそ、内々にそなた等をこの場に呼んだ」
そう述べると、勝知公は微かに顔を歪め、藩主としての表情に顔つきを改めた。
丹波が手配した江戸藩邸からの増援部隊とも、ここで落ち合うことになっていた。
「朝河殿、お久しゅうござる」
人目を憚ることなく、十右衛門が顔をほころばせた。
先に本陣で待っていたのは、定府勤めであるはずの朝河父子だった。砲術家として二本松ではその名が高いが、この時期はまだ二本松に帰藩していない。もっとも十右衛門はその専門ゆえか、予てより朝河父子と交流があったらしく、あれこれと砲術談義に花を咲かせている。
やれやれと鳴海は与兵衛と顔を見合わせて、苦笑した。そして、鳴海はその側に小沢長右衛門の姿があるのを認めた。
慌てて手元にある江戸からの出陣者名簿に目を走らせると、そこに長右衛門の名はなかった。長右衛門は困ったような表情を浮かべ、何か言いたげである。
「小沢殿。何ゆえ、この場に参られておる?」
鳴海が小声で尋ねると、長右衛門も小声で返答した。
「御三方にお会いしたいという方を、江戸より護衛して参った次第でござる」
その言い方に、鳴海は小首を傾げた。長右衛門は決して身分の低い藩士ではない。むしろ藩内では上位に属する家柄である。源太左衛門や鳴海、与兵衛にわざわざ面会を求め、しかも小沢自らが護衛の任に当たるというのは、相当の貴人に違いなかった。
「どなたが……」
与兵衛も、不審な表情を浮かべている。
「さる御方が内々の話を伝えたいとの由にて、某寺の方丈にてお待ち致しておりまする。まことに申し訳ござらぬが、何卒ご足労願えませぬか」
幸い二本松藩は宇都宮に到着したばかりで、幕閣との打ち合わせは明日以降である。少しばかり、三人には空き時間があった。
「御家老、いかが致しましょう」
源太左衛門の顔にも、困惑の色がありありと浮かんでいる。が、困り果てた様子の長右衛門が気の毒になったのか、植木次郎右衛門と成田外記右衛門を手招いた。外記右衛門は、源太左衛門付きの使番だった。
「しばし与兵衛殿と鳴海殿とで出かけて参る故、そなたらに留守を預ける。他の者らには、幕閣の御方に呼ばれたとでも説明せよ」
植木や外記右衛門も訝しんでいたが、総大将の命である。「畏まりまして候」と答えるのみに留めた。
寺に着くまでの間、長右衛門は黙ったままだった。もっとも案内された寺は、本陣から数丁しか離れていない小寺であった。
寺に通されると、あらかじめ話を付けてあったらしく、直ちに方丈へ案内された。
「日向守様。今しがた二本松の方々が宇都宮にご到着され、御三方を案内して参りました」
その言葉に、三人は思わず顔を見合わせた。まさか――。
長右衛門が、すっと方丈の襖を開いた。そこにはばつの悪そうな顔をした、水野日向守勝知公の姿があった。
「――三人とも、久しいな」
やや弾んだその声は、懐かしくもあった。が、手放しでは喜べない。
「久しいな、ではございますまい。藩主のお忍びは、決して褒められたものではございませぬ」
源太左衛門が頭を下げつつも、やや厳しい声色で咎めた。案の定、勝知公は気まずそうな色を浮かべた。
「分かっておる。そなたらと話したら、直ちに江戸藩邸に戻る。これでも、幕務が山積みの身ぞ」
問題はそういうことではあるまいと思ったが、鳴海は黙っていた。二本松藩が天狗党討伐の幕命を下されたのは、当然勝知公も知っているに違いなかった。だが、わざわざ人目を避けてまで三人に会いに来る理由が、思い当たらなかった。
「結城の者らと、諍いを起こした……というわけではございますまいな」
冗談に紛らわせる与兵衛の言葉にも、わずかに非難の色が混じっている。もちろん与兵衛も勝知公が祐吉君と呼ばれていた頃から主を見知っており、それ故の気安さなのではあるが。
「与兵衛まで……。私ももう幼子ではないのだぞ」
うるさそうに首を振ると、勝知公は鳴海に苦笑いを向けた。老臣らの諌言を煙たがる思いは分からなくもないが、鳴海も心情的には源太左衛門や与兵衛と同じである。
「お久しゅうございまする、日向守様。その節は親しきお言葉を頂戴いたしまして、まことに嬉しく存じました」
勝知公の尊厳をこれ以上傷つけないように言葉を選びながら、鳴海は頭を下げた。勝知公が結城藩に養子に入る前、ひょんなことから鳴海は公からお言葉を頂戴したものだった。与兵衛が、ちらりとこちらを見る。どうやら、志摩からその折の事情を聞いていたらしい。
「覚えておったのか」
勝知公が嬉しそうに、白い八重歯をちらりと見せた。気兼ねなく家臣らと語らうのは、勝知公にとっても久しぶりなのかもしれない。その心中を思うと、鳴海は改めて諌言を重ねる気にはならなかった。
「その時の私の言葉を覚えておるか?」
鳴海は、ゆっくりと肯いた。
「家臣らは、公の優しさに甘えることがあってはならないと。長国公は心優しき御方故、どなたも股肱の臣として慈しんでおられるが、日向守様と致しましては、それに甘えてほしくはないと仰せになりました」
番頭となった今でも、勝知公の言葉は鳴海にとって己への戒めとなっている。
「私の思いは、今でもあの時と変わっておらぬ。だからこそ、内々にそなた等をこの場に呼んだ」
そう述べると、勝知公は微かに顔を歪め、藩主としての表情に顔つきを改めた。
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