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第三章 常州騒乱
出陣(9)
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さらに翌日、二本松藩の一行はようやく郡山に到着した。当初の予定より二日遅れである。やはり出水に見舞われた本宮を脱出してくるのには、小舟で幾度かに分けて荷駄を輸送せねばならず、思いの外時間がかかった。そのため、郡山で再度陣容を立て直そうということになったのである。
郡山宿では、すっかり顔馴染となった今泉久三郎が出迎えてくれた。側には、錦見の姿もある。
「御家老、与兵衛様、鳴海様。この度は、ご出馬にておめでとうございまする」
型通りの挨拶を述べる錦見に対し、源太左衛門は「こちらこそ、世話になる」と柔らかく答えるだけに留めた。鳴海も鳴海で、気になっていることがあった。
「その後、上方についての知らせは何かござらぬか」
鳴海は、錦見に尋ねた。宇都宮で幕軍と合流する前に、できるだけ新たな情報は把握しておきたい。
鳴海の言葉に錦見が肯いた。
「去る十九日に、京で長州が反旗を翻したとの知らせが参りました」
三人は、顔を見合わせた。錦見の情報が正しいとすれば、約一ヶ月程前の話である。いわゆる、「禁門の変」もしくは「蛤御門の変」と呼ばれる変事の知らせだった。
水戸の天狗党による三月二十七日の筑波義挙を受け、昨年の八月十八日の政変で一度は権威を失墜した長州藩も動いた。元々水戸藩や備前藩、因幡藩は、藩主同士に血の繋がりがある。それら攘夷推進派の藩主等は、長州藩の復権を朝廷にも働きかけ、長州藩の上京を再び認めるべしという意見を上申していた。この尊攘派各藩の動きを受け、長州藩士の京での動きも再び活発化した。それを止めようとした事件が、先々月五日に起きた、「池田屋事件」である。会津藩の支援を受けた新選組による長州藩士ら過激派の摘発が、事件のあらましである。が、この事件のために有力な志士を失った長州藩では、京に滞在していた家老福原越後及び久坂玄瑞らが、朝廷を通じて「攘夷実現」を迫ろうとした。そこで禁裏を守護していた会津藩や薩摩軍と武力衝突となり、長州藩は京を追われた。そればかりでなく、長州の追討が朝廷の主導で決定したのである。かつての長州の盟友であり鎖港推進派であった因幡藩主の池田慶徳ですら長州を非難する一方で、水戸藩主である慶篤も、対長州寄りの姿勢を見せる備前藩主池田茂政を非難した。ここに来て、亡き裂公から「尊皇攘夷」の教育を受けた兄弟らの絆も、瓦解したと言える。
もはや政局の課題も、「鎖港実行」から「長州の追討」へと移り変わっていた。
「それについて、幕府からの知らせは何か届いておらぬか」
源太左衛門が、焦れたように先を促した。
「届いておりまする。後ほど二本松にも使いを出しますが、『長州藩士へ加勢致した者は勿論の事、その出入りを許した者も朝敵と見做す』とのお達しが、御式台より参りました」
つまりは、長州藩過激派と懇ろであった水戸藩激派も、朝敵と見做されたに等しい。これで、彼らが主張する「横浜鎖港実現」の目は、完全に消えた。
朝廷側の怒りは相当深いものらしく、情勢の不穏を受けて、当面祭礼や鳴物も控えるようにとの命令も届いているという。
それだけでなく、七月二十三日には、長州追討が朝廷により正式に決定した。朝廷からも「夷狄のことは、長州征伐が済むまではひとまず置く」との沙汰書が幕府に届いたとのことで、二本松藩はこれで「横浜鎖港」を気にすることなく、水戸藩の過激派と対峙できる。
ふと思い出して、鳴海はもう一つ尋ねてみた。
「守山は、特に動いておらぬか?」
上方で、これだけ大きな動きがあったのである。水戸に近い筋である守山も、無関係を決め込んでいられるはずがなかった。
錦見が、再び大きく肯いた
「松川表の願いもあり、宍戸藩の松平大炊頭様の元へ馳せ参じるために、当月一日に一部の守山藩士らが守山を出立致したようでございます」
鳴海は、源太左衛門へ視線を向けた。宍戸藩も、水戸藩御連枝の一つである。恐らく、水戸藩主徳川慶篤の意向を受けて、鎮圧に向かおうとするものだろう。その援護のために、守山からも人を出したということである。
「――松川表の願いもあり、か……」
源太左衛門が、何やら考え込んでいる。が、首を振った。
「その旨、城下にも知らせるがよい。もはや水戸激派らが朝敵となったのは明白であるが、万が一ということもある。守山の者らが水戸の動きに乗じて騒ぎを起こし、我が藩に火の粉が降りかかるようなことがあっては一大事である。引き続き不審の議があれば、直ちに城下へ早馬を出されよ」
「はっ」
錦見が平伏した。
錦見らが陣屋へ戻ると、鳴海は源太左衛門に尋ねてみた。
「宍戸藩の大炊頭様は、我らの味方となりましょうや?」
源太左衛門は、厳しい表情を崩さなかった。
「水戸藩及び御連枝の御仁等について、予断を持つは禁物であろう。それ故、妙な肩入れをして幕閣らの疑いを招き我が藩に災いをもたらすようなことがあってはならぬと、それがしは思う」
つまり、今の段階ではまだ敵とも味方とも言えない、ということである。水戸筑波勢の挙兵以来、水戸藩首脳陣もまた、猫の目のようにくるくると立場が変わってきた。その事実を踏まえれば、源太左衛門が判断に慎重にならざるのを得ないのも、無理のないことだった。
幕命には従う。だが、水戸藩の者に対して一瞬たりとて気を許してはならない。それが、今の源太左衛門の判断基準のようであった。
郡山宿では、すっかり顔馴染となった今泉久三郎が出迎えてくれた。側には、錦見の姿もある。
「御家老、与兵衛様、鳴海様。この度は、ご出馬にておめでとうございまする」
型通りの挨拶を述べる錦見に対し、源太左衛門は「こちらこそ、世話になる」と柔らかく答えるだけに留めた。鳴海も鳴海で、気になっていることがあった。
「その後、上方についての知らせは何かござらぬか」
鳴海は、錦見に尋ねた。宇都宮で幕軍と合流する前に、できるだけ新たな情報は把握しておきたい。
鳴海の言葉に錦見が肯いた。
「去る十九日に、京で長州が反旗を翻したとの知らせが参りました」
三人は、顔を見合わせた。錦見の情報が正しいとすれば、約一ヶ月程前の話である。いわゆる、「禁門の変」もしくは「蛤御門の変」と呼ばれる変事の知らせだった。
水戸の天狗党による三月二十七日の筑波義挙を受け、昨年の八月十八日の政変で一度は権威を失墜した長州藩も動いた。元々水戸藩や備前藩、因幡藩は、藩主同士に血の繋がりがある。それら攘夷推進派の藩主等は、長州藩の復権を朝廷にも働きかけ、長州藩の上京を再び認めるべしという意見を上申していた。この尊攘派各藩の動きを受け、長州藩士の京での動きも再び活発化した。それを止めようとした事件が、先々月五日に起きた、「池田屋事件」である。会津藩の支援を受けた新選組による長州藩士ら過激派の摘発が、事件のあらましである。が、この事件のために有力な志士を失った長州藩では、京に滞在していた家老福原越後及び久坂玄瑞らが、朝廷を通じて「攘夷実現」を迫ろうとした。そこで禁裏を守護していた会津藩や薩摩軍と武力衝突となり、長州藩は京を追われた。そればかりでなく、長州の追討が朝廷の主導で決定したのである。かつての長州の盟友であり鎖港推進派であった因幡藩主の池田慶徳ですら長州を非難する一方で、水戸藩主である慶篤も、対長州寄りの姿勢を見せる備前藩主池田茂政を非難した。ここに来て、亡き裂公から「尊皇攘夷」の教育を受けた兄弟らの絆も、瓦解したと言える。
もはや政局の課題も、「鎖港実行」から「長州の追討」へと移り変わっていた。
「それについて、幕府からの知らせは何か届いておらぬか」
源太左衛門が、焦れたように先を促した。
「届いておりまする。後ほど二本松にも使いを出しますが、『長州藩士へ加勢致した者は勿論の事、その出入りを許した者も朝敵と見做す』とのお達しが、御式台より参りました」
つまりは、長州藩過激派と懇ろであった水戸藩激派も、朝敵と見做されたに等しい。これで、彼らが主張する「横浜鎖港実現」の目は、完全に消えた。
朝廷側の怒りは相当深いものらしく、情勢の不穏を受けて、当面祭礼や鳴物も控えるようにとの命令も届いているという。
それだけでなく、七月二十三日には、長州追討が朝廷により正式に決定した。朝廷からも「夷狄のことは、長州征伐が済むまではひとまず置く」との沙汰書が幕府に届いたとのことで、二本松藩はこれで「横浜鎖港」を気にすることなく、水戸藩の過激派と対峙できる。
ふと思い出して、鳴海はもう一つ尋ねてみた。
「守山は、特に動いておらぬか?」
上方で、これだけ大きな動きがあったのである。水戸に近い筋である守山も、無関係を決め込んでいられるはずがなかった。
錦見が、再び大きく肯いた
「松川表の願いもあり、宍戸藩の松平大炊頭様の元へ馳せ参じるために、当月一日に一部の守山藩士らが守山を出立致したようでございます」
鳴海は、源太左衛門へ視線を向けた。宍戸藩も、水戸藩御連枝の一つである。恐らく、水戸藩主徳川慶篤の意向を受けて、鎮圧に向かおうとするものだろう。その援護のために、守山からも人を出したということである。
「――松川表の願いもあり、か……」
源太左衛門が、何やら考え込んでいる。が、首を振った。
「その旨、城下にも知らせるがよい。もはや水戸激派らが朝敵となったのは明白であるが、万が一ということもある。守山の者らが水戸の動きに乗じて騒ぎを起こし、我が藩に火の粉が降りかかるようなことがあっては一大事である。引き続き不審の議があれば、直ちに城下へ早馬を出されよ」
「はっ」
錦見が平伏した。
錦見らが陣屋へ戻ると、鳴海は源太左衛門に尋ねてみた。
「宍戸藩の大炊頭様は、我らの味方となりましょうや?」
源太左衛門は、厳しい表情を崩さなかった。
「水戸藩及び御連枝の御仁等について、予断を持つは禁物であろう。それ故、妙な肩入れをして幕閣らの疑いを招き我が藩に災いをもたらすようなことがあってはならぬと、それがしは思う」
つまり、今の段階ではまだ敵とも味方とも言えない、ということである。水戸筑波勢の挙兵以来、水戸藩首脳陣もまた、猫の目のようにくるくると立場が変わってきた。その事実を踏まえれば、源太左衛門が判断に慎重にならざるのを得ないのも、無理のないことだった。
幕命には従う。だが、水戸藩の者に対して一瞬たりとて気を許してはならない。それが、今の源太左衛門の判断基準のようであった。
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