鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

出陣(8)

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 ――結局二本松藩士ら一同は、この大雨と本宮での出水のために、同地で二日間足止めを余儀なくされた。このとき本宮で発生した出水は、町内を舟で通行しなければ往来できないと後世に伝えられるほどの、甚大な被害をもたらした。出陣の最中とは言え、まさかそのような状況を見捨てておくわけにもいかず、二本松藩の面々は宇都宮に赴く前に、思いがけず本宮の出水の後始末を手伝う羽目になった。ようやく雨が上がった十日の昼、鳴海は大内屋で本宮の復旧作業の報告を受けていた。
「まさか、常州に行く前に出水の後始末をすることになるとは、思いも寄りませんでしたな」
 大島成渡は気前良く当世具足を脱ぎ、着ていた物の裾も絡げ、襷掛けをしながら苦笑した。
「止むを得まい。今ここで本宮の民等を放って宇都宮へ急げば、後々恨みを買うことになりねぬしな」
 鳴海の返事に、市之進も肯いた。彼もまた、二本松を出立するときには身につけていたはずの具足を脱いで一仕事してきたところである。その両足には、泥がこびりついていた。
「今ほど本宮の被害の状況について、祐筆役皆で手分けしてまとめて参りました。やはり、被害はかなりのものになりますでしょうな」
 のんびりとした口調で鳴海に報告したのは、杉内萬左衛門である。奥右筆も務めたことのある人物で、事務処理能力にも長けていた。今回の常州遠征については、幕軍側の心づもりとしては当面の常州の警邏けいらも二本松藩に手伝わせるかもしれないということで、郡代である植木次郎右衛門を始めとして、地方じかたの者も多く加わっていた。
 皆からの報告を聞いていた鳴海は、そっと視線を伏せた。常州に行く前にまさか出水に煩わされるとは思わなかったし、侍大将の装束は簡単には脱げない仕様になっている。出水の後始末でてんやわんやの皆から、ぼんやりと報告を受けるだけの自分の役割が、未だ馴染めないのである。
 そんな鳴海を見兼ねたのか、与兵衛が微かに笑った。
「餅は餅屋と申す。出水の件は、他の者に任せられよ」
 そう言う与兵衛も、鳴海と同じようにただ報告を受けるに留めていた。
「我らには、我らの為すべき役割がある」
 その言葉に、鳴海は顔を上げた。
「それは何でございましょう、父上」
 成渡と同じように、本宮町内の後片付けの手伝いに行く支度をしていた右門が、与兵衛に尋ねた。
「常州の戦でお主等をむざむざと死なせぬことだ、右門」
 父の言葉が余程思いがけなかったのか。右門の目に、うっすらと水っぽいものが浮かぶのを、鳴海は確かに見た。与兵衛も恐らくそれに気付いているのだろうが、既にさり気なく他の者からの報告に注意を向けている。
「成渡、右門。せっかくの好機だ。民と交わって信を得て参るが良い。民あってこその、我らであるからな」
 与兵衛にはまだまだ及ばないが、鳴海も侍大将には違いない。できるだけ与兵衛の姿に近くあろうと、鳴海は余裕の笑みを浮かべ、それらしい言葉を捻り出した。
 そこへやってきたのは、和左衛門らだった。その顔には、複雑な笑みが浮かんでいる。
「植木殿から知らせを受け取りましてな。本来であれば真っ先に我らが駆けつけねばならぬところ、これから戦に赴かれる方々のお手を煩わせて、申し訳ござらぬ」
 どうやら、日頃和左衛門と同じ役職に就いている植木が気を利かせ、城下に本宮の救援を求める伝令を飛ばしたらしい。もっとも、たまたま出陣の面々が先に本宮に滞陣していたとは言え、本来は出水の後始末は地方の仕事である。二本松の留守を預かる和左衛門が本宮復旧の指揮を取るのは当然だった。
「何の。民を救わんとする心に、武方も地方もございますまい」
 指揮官であるため必然的に和左衛門への応対に当たる羽目になった鳴海は、努めて明るく述べた。今でも尊攘派であることを隠そうともしない和左衛門に対しては、若干の苦手意識がある。だが戦に赴く前に、藩の者とつまらぬ諍いを起こす気にはならなかった。
 和左衛門には、なぜか清介も付き従っていた。その表情は、先日城内で顔を合わせたときと同じように、硬い。流石に捨て置けず、鳴海は小声で文句を述べた。
「清介。その不景気な面を何とかせぬか。皆の士気が損なわれる」
 あけすけな鳴海の物言いに、清介が顔を上げた。
「――鳴海殿は、何もおわかりになっておりませぬ」
 この男の皮肉な物言いは、相変わらずである。が、口元には正体不明の笑みが浮かんでいた。
「清介殿」
 与兵衛も、むっとした様子で叱咤の色を滲ませた。それに構わず、清介は言葉を続けた。
「それがしが腹立たしいのは、水戸の尊攘派の御仁らが綺麗事を述べつつ、結局のところ、己の利を求めるだけの者らに過ぎなかったということでござる。また、一時でもそれらに傾倒した己の愚かさが腹が立ったというまで。たとえ我が胸の内を完全に御理解されずとも、民を救わんとする同じ二本松の同胞はらからの御仁らの方が、まだ信が置けるというもの」
 その言葉の意味を鳴海が咀嚼するまで、しばしの間があった。やがて――。
「お主の物言いは相も変わらず、回りくどいな」
 鳴海も肘で清介の脇腹を小突き、声に笑いを含ませて言い返した。
「要するに、常州の民らのために、我らに存分に働いて参れということであろうが」
 鳴海は清介に対しても、苦手意識がある。だが、民を救わんとするのが武士の本分との教えは、鳴海らが幼い頃から叩き込まれ、身分や派閥を超えて持つ共通の理念でもあった。
 鳴海の言葉を聞いて、清介もニヤリと笑った。
「ようやく、お分かりになられましたか。拙者は別に鳴海殿を嫌ってはおりませぬ。たとえ、鳴海殿が拙者を厭わしく思われたとしても、です」
 鳴海自身は、清介の前ではあまり感情を顕にしていないつもりだった。が、鳴海より遥かに洞察力に優れたこの男には、鳴海の感情はすっかりお見通しだったらしい。思わずたじろいだ鳴海に対し、清介は今までに鳴海に見せたことのない表情を作った。
「鳴海殿が武勇を誇るばかりでなく、民をも思う仁者であるのは、我々もよく存じておる。どうか、ご無事に戻られよ」
 その真摯な言葉に、鳴海は真正面から清介を見つめ返した。
「無事に帰還したならば、我が屋敷で一献交えるか。その席で、お主が得意な歌でも詠んでもらうとしよう」
 鳴海の言葉に、清介は再び笑みを浮かべた。
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