鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

出陣(6)

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 鳴海の出立の日は、八日と決められていた。既に前日、先陣らが本宮に向かって出発している。
 彦十郎家では、古式に則り三献の儀の品々が用意された。打鮑うちあわび勝栗かちぐり、昆布の三品を肴に、当主である鳴海が酒を三度ずつ飲み干す。
「留守中のこと、くれぐれもよろしく頼む」
 数日前の諍いは一旦水に流し、鳴海は衛守から注がれた杯を飲み干した。その傍らで、義父母が神妙な顔をして二人の様子を見守っている。
「二本松におきましても、皆様の戦中の無事を、お祈り申し上げます」
 衛守もまた畳に軽く拳をつけ、何事もなかったかのように鳴海に頭を下げた。が、この席にりんはいない。あれからますます症状がひどくなり、時折嘔吐も繰り返しているようだった。
 鳴海も、りんの状態は心配である。病弱な妻だが、これほどまで病状が長引いたことは鳴海の記憶にはなかった。だが、三献の儀は神事ということもあり、心中の心配を安易に口に出すことができない雰囲気があった。
 三献を口にし終えると、鳴海は装いを改めた。それまで身につけていたものを脱ぎ、真新しい真っ白な絹の肌着を纏う。戦装束用の下袴の裾を指貫紐さしぬきひもで括り、脚絆きゃはん脛当すねあてを身につける。腰に佩楯はいだてを巻き、決拾ゆがけ籠手こても身につけたところで、彦十郎家の家祖たる重門公も使用したと伝えられている、伝来の黒縅くろおどしの鎧を纏う。鎧の各部を止める紐の余りを下男に切り落としてもらうと、鳴海は唇を引き結んだ。これで、常州での戦が終わるまで、鳴海がこの装いを解くことはない。
 その姿を見て、衛守が下男を手招いて何事か耳打ちした。やがて、青い顔をしたりんが居間に姿を見せた。りんの具合が悪いのは百も承知しているが、せめて鳴海の晴れ姿を見せてやろうという、衛守なりの配慮だろう。
 鳴海の姿を認めると、りんは黙って頭を下げた。鳴海もそれに対して肯き、無意識のうちにりんの方へ手を伸ばそうとした。が、その手を途中で止めた。たとえ相手が妻であっても、戦の前に女人に触れることはやはり躊躇われたのだ。武将としての、悲しいまでの性である。
「鳴海様……」
 りんが、小声で呼びかけた。その手には、首に下げられるようにしたものか、紐のついた小さな守り袋がある。朱色の守り袋には、大谷家と同じ三つ巴の紋が縫い取られている。社紋からすると、守り袋の中には両社山の護符が入っているのだろう。両社山たる二本松神社は、文字通り二本松の鎮守である。
 りんは、鳴海の手にそっとそれを乗せた。
「かたじけない」
 鳴海は、少しだけ口元を上げてみせた。この手で妻に触れてやることはできない。が、妻が鳴海の身を案じているのはその守り袋からも感じ取られた。袋を首に掛けて握り締めると、さらさらとした何かが入っている感触が伝わってきた。
「中に入れたのは、そなたの髪であろう?」
 小声で妻に問うと、りんもわずかに微笑んだ。どうやら、当たっていたらしい。女性の髪を護符として持っていく武人がいるのは、鳴海も知っていた。
「私の髪が少しでも鳴海様の御身を守るのに役立てられれば、幸いに存じます」
 りんの言葉に、鳴海はさらに目元を和らげた。
「そなたの具合が良くないときに、何もしてやれなくてすまぬ」
 刹那、りんが泣き笑いの表情を浮かべた。出陣が決まってから鳴海に対して特に何も言わなかったが、やはり夫を戦場に送り出す立場は辛かったのだろう。
「彦十郎家の御当主が、そのようなことを申されてはなりませぬ。外で『鳴海殿は戦の前に女を気にして気もそぞろ』などと悪評が立ちましたら、末代までの恥でございます」
 りんは普段はおっとりとしているのに、肝心の場面で強がるところは自分とよく似ている。鳴海は思わず苦笑しそうになった。義弟の衛守は鳴海を「見栄っ張り」と評することがあるが、その言葉の真意が、ようやく鳴海にも理解できた気がした。
「俺が出陣してからで良い。きちんと医者に診てもらうのだぞ」
 鳴海も何度かりんのために医者を呼ぼうとしたのだが、肝心のりんはというと、なぜか「恐らく病ではございませぬ故、どうかご心配召されますな」と、頑なに医師の診察を拒んでいたのだ。同じく強情な性分の鳴海もりんの思いは理解でき、また、自身の多忙のために医者の件は強く申し付けにくかった。だが、さすがにここまで妻の具合が良くないのであれば、話は別である。
 りんは、黙って泣き笑いの表情を張り付かせたままだった。
「兄上。そろそろ刻限でございます」
 衛守が、鳴海の陣羽織を手にしている。今回の出陣に当たって急いで新調させたのがこの陣羽織で、黒縅に映えるように、緋色の布地に背後には金色の大谷家の家紋が染め抜かれている。襟元や袖付根口には紗綾形文様の金羅紗があしらわれており、侍大将に相応しい装いだった。
 衛守から陣羽織を受け取ると、鳴海はそれを羽織って前の紐を固く結んだ。続けて、腰帯に侍大将の証である采幣を刺す。
「行って参る」
 玄関先で馬に跨った鳴海の言葉に、彦十郎家一同が深々と頭を下げた。
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