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第三章 常州騒乱
出陣(4)
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「衛守様は、私めを好いてはおりませぬぞ」
気付いていたのか。そう言いたいのを、ぐっと堪えた。
「――衛守のことは、何としても説き伏せてから出陣する。だから……」
しばらく善蔵は黙り込んでいたが、やがてこれで幾度目になるかわからないため息をついた。
「……まあ、本宮の兼谷家に十数段の雛飾りを質として入れられた丹波様と比べれば、後事を託される人を指名されるだけ、まだましというものでしょうか」
本宮の兼谷家も、名だたる大商人の一人である。その兼谷家に、家老座乗たる丹波は、女子供のための雛飾りを質に入れたというのか。鳴海は詳細を聞いてみたい好奇心に駆られたが、今はそれどころではないと思い直した。
諦念したように、善蔵は目を閉じて両腕を組んでいる。
「では……」
ぱっと顔をほころばせた鳴海に対し、善蔵は「まだ話は済んでおりませぬ」と釘を指した。何か、考えているようだ。しばし時間が過ぎ、鳴海は出された茶に手をつけることもせず、辛抱強く善蔵の返答を待った。
やがて善蔵はついと席を立つと、困惑した鳴海を置き去りにしたまま、どこかへ姿を消した。次に善蔵が座敷に戻ってきたときにその両腕に包まれていたのは、見覚えのある二竿の刀袋だった。
「お約束通り、手入れは怠っておりませぬ。切れ味は保てておりましょう」
そう述べると、善蔵は鳴海の前に佩刀を袋ごとそっと置いた。
「失礼」
鳴海は逸る気持ちを押さえ、眼の前の刀袋から愛刀を取り出した。懐から懐紙を出して二つに折り、刀身にそっと当てて引いてみると、気持ちの良いくらいにすぱりと切れた。思わず、口元が綻ぶ。
「まず、御腰の物はお返し致しましょう。くれぐれも、他のご家中の方々には内緒にして下さいませ」
「わかっておる」
鳴海も、自分から吹聴して回る気には到底なれなかった。この分だと、他の藩士らも善蔵に借金があるのだろう。だが鳴海が善蔵から金を融通してもらったというのは、番頭という立場上、絶対に知られてはならない事項である。
「次に――」
善蔵の咳払いに、鳴海は思わず身構えた。やはり、何か新たに質を取るつもりか。
「こちらからも六十両貸付の条件がございます。此度の戦においては、必ず生きて戻られること。それに加えて戦に勝ち、筑波勢や水戸藩がかねがね申されてきた『横浜鎖港』を、何としてでも阻止なされませ」
善蔵の言葉に、鳴海は戸惑った。どちらも、武士の常識からは外れている。
「そうは申されるが、善蔵殿。戦は死と隣合わせであるし、横浜鎖港については、幕府の方々がお決めになる事ぞ。約束は致しかねる」
鳴海の弁解に、善蔵は狡猾そうな笑みを浮かべた。その笑みに、鳴海はぞっと背筋が粟立つのを感じた。
「一昨日、横浜に潜伏させておりました手代から使いが来ましてな。欧州に遣わされていた池田長発様ら御一行が七月二十二日、仏蘭西大使からの『横浜鎖港は不可能』との返書を持ち帰ってきたそうでございます」
「まことか」
鳴海は我が耳を疑った。丹波からも、その話は聞いていない。一体、善蔵はどのような伝手でその情報を仕入れてきたのか。商人特有の情報収集能力の高さを、まざまざと見せつけられた思いだった。
鳴海にお構いなしに、善蔵は傍らにあった茶碗から美味そうに茶を啜った。
「鎖港を声高に叫んでいた水戸が未だ騒いでいる手前、池田様らは一旦函館に回航するように申し付けられたそうでございます。ですが、先日老中になられた白河藩の阿部様は、開国派との噂。まず間違いなく、阿部様はこれから朝廷や帝を説得し、横浜鎖港断念の方向に持っていかれましょうな。仏蘭西大使からの返書を無視すれば、天狗共の騒ぎどころではございませぬ故」
この情報が事実とすれば、鳴海らは「横浜鎖港」について気を揉むことなく、戦える。だが、もう一つの「生きて帰ってこい」の要望については、どのように捉えたものか。そんな鳴海の胸中を見透かしたかの如く、善蔵は再度挑戦的な笑みを浮かべた。
「鳴海殿は、このままむざむざと水戸の賊徒の手に掛かり、二本松の民等の行く末を見届けずとも良いとお考えですかな?」
「そのようなわけがあるか」
反射的に答えた鳴海に、善蔵はようやくいつもの笑みを取り戻した。しまった、と思った時には遅かった。またしても鳴海は、善蔵の話術に嵌ったのである。だが、今回は何の魂胆があるのか、思い当たる節はなかった。
「鳴海殿であれば、民を置き去りにしたまま、己の武名を挙げることのみに血道を挙げるような愚かな真似は、致しませぬでしょう。やはり、今後も二本松の民等を守っていただくためには、鳴海殿にこの戦で生き延びて頂かねばなりませぬ」
そう断言すると、善蔵はにこりと蕩けるような笑みを寄越した。先程までのしたたかな商人と、こちらの二本松の武士道にも通じた男。どちらが善蔵の本当の姿なのか。鳴海はそれについて思い悩むのを止めた。
「極力、善処致す」
いずれにせよ、鳴海は簡単に死ぬことはできなくなった。
気付いていたのか。そう言いたいのを、ぐっと堪えた。
「――衛守のことは、何としても説き伏せてから出陣する。だから……」
しばらく善蔵は黙り込んでいたが、やがてこれで幾度目になるかわからないため息をついた。
「……まあ、本宮の兼谷家に十数段の雛飾りを質として入れられた丹波様と比べれば、後事を託される人を指名されるだけ、まだましというものでしょうか」
本宮の兼谷家も、名だたる大商人の一人である。その兼谷家に、家老座乗たる丹波は、女子供のための雛飾りを質に入れたというのか。鳴海は詳細を聞いてみたい好奇心に駆られたが、今はそれどころではないと思い直した。
諦念したように、善蔵は目を閉じて両腕を組んでいる。
「では……」
ぱっと顔をほころばせた鳴海に対し、善蔵は「まだ話は済んでおりませぬ」と釘を指した。何か、考えているようだ。しばし時間が過ぎ、鳴海は出された茶に手をつけることもせず、辛抱強く善蔵の返答を待った。
やがて善蔵はついと席を立つと、困惑した鳴海を置き去りにしたまま、どこかへ姿を消した。次に善蔵が座敷に戻ってきたときにその両腕に包まれていたのは、見覚えのある二竿の刀袋だった。
「お約束通り、手入れは怠っておりませぬ。切れ味は保てておりましょう」
そう述べると、善蔵は鳴海の前に佩刀を袋ごとそっと置いた。
「失礼」
鳴海は逸る気持ちを押さえ、眼の前の刀袋から愛刀を取り出した。懐から懐紙を出して二つに折り、刀身にそっと当てて引いてみると、気持ちの良いくらいにすぱりと切れた。思わず、口元が綻ぶ。
「まず、御腰の物はお返し致しましょう。くれぐれも、他のご家中の方々には内緒にして下さいませ」
「わかっておる」
鳴海も、自分から吹聴して回る気には到底なれなかった。この分だと、他の藩士らも善蔵に借金があるのだろう。だが鳴海が善蔵から金を融通してもらったというのは、番頭という立場上、絶対に知られてはならない事項である。
「次に――」
善蔵の咳払いに、鳴海は思わず身構えた。やはり、何か新たに質を取るつもりか。
「こちらからも六十両貸付の条件がございます。此度の戦においては、必ず生きて戻られること。それに加えて戦に勝ち、筑波勢や水戸藩がかねがね申されてきた『横浜鎖港』を、何としてでも阻止なされませ」
善蔵の言葉に、鳴海は戸惑った。どちらも、武士の常識からは外れている。
「そうは申されるが、善蔵殿。戦は死と隣合わせであるし、横浜鎖港については、幕府の方々がお決めになる事ぞ。約束は致しかねる」
鳴海の弁解に、善蔵は狡猾そうな笑みを浮かべた。その笑みに、鳴海はぞっと背筋が粟立つのを感じた。
「一昨日、横浜に潜伏させておりました手代から使いが来ましてな。欧州に遣わされていた池田長発様ら御一行が七月二十二日、仏蘭西大使からの『横浜鎖港は不可能』との返書を持ち帰ってきたそうでございます」
「まことか」
鳴海は我が耳を疑った。丹波からも、その話は聞いていない。一体、善蔵はどのような伝手でその情報を仕入れてきたのか。商人特有の情報収集能力の高さを、まざまざと見せつけられた思いだった。
鳴海にお構いなしに、善蔵は傍らにあった茶碗から美味そうに茶を啜った。
「鎖港を声高に叫んでいた水戸が未だ騒いでいる手前、池田様らは一旦函館に回航するように申し付けられたそうでございます。ですが、先日老中になられた白河藩の阿部様は、開国派との噂。まず間違いなく、阿部様はこれから朝廷や帝を説得し、横浜鎖港断念の方向に持っていかれましょうな。仏蘭西大使からの返書を無視すれば、天狗共の騒ぎどころではございませぬ故」
この情報が事実とすれば、鳴海らは「横浜鎖港」について気を揉むことなく、戦える。だが、もう一つの「生きて帰ってこい」の要望については、どのように捉えたものか。そんな鳴海の胸中を見透かしたかの如く、善蔵は再度挑戦的な笑みを浮かべた。
「鳴海殿は、このままむざむざと水戸の賊徒の手に掛かり、二本松の民等の行く末を見届けずとも良いとお考えですかな?」
「そのようなわけがあるか」
反射的に答えた鳴海に、善蔵はようやくいつもの笑みを取り戻した。しまった、と思った時には遅かった。またしても鳴海は、善蔵の話術に嵌ったのである。だが、今回は何の魂胆があるのか、思い当たる節はなかった。
「鳴海殿であれば、民を置き去りにしたまま、己の武名を挙げることのみに血道を挙げるような愚かな真似は、致しませぬでしょう。やはり、今後も二本松の民等を守っていただくためには、鳴海殿にこの戦で生き延びて頂かねばなりませぬ」
そう断言すると、善蔵はにこりと蕩けるような笑みを寄越した。先程までのしたたかな商人と、こちらの二本松の武士道にも通じた男。どちらが善蔵の本当の姿なのか。鳴海はそれについて思い悩むのを止めた。
「極力、善処致す」
いずれにせよ、鳴海は簡単に死ぬことはできなくなった。
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