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第三章 常州騒乱
出陣(2)
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屋敷へ戻ると、鳴海は家族を居間に集めた。
「本日、常州騒乱鎮圧の任を承った」
鳴海の言葉に真っ先に頭を下げたのは、水山だった。
「鳴海殿。此度のご出陣、誠におめでとう御座いまする」
武門の家柄としては、この上ない名誉なことである。ごく自然な口上だが、水山の表情も硬かった。実子の縫殿助も富津へ出張した経験があるが、本物の戦に彦十郎家の者が駆り出されるのは、水山にとっても初めての経験である。
「兄上が……」
衛守も、動揺を隠せなかった。微かに、視線が泳いでいる。そして、鳴海から「大切な話がある」ということで無理やり起き出してきたりんはというと、顔を真っ青にしている。こちらは今にも気絶するのではないかと思われた。
出立までの数日間にやるべきことは多い。まず、組の子らへの「出陣命令」の伝令を出さねばならない。鳴海が留守の間、彦十郎家の名代は衛守に任せることにした。大城代の内藤と一緒に、武器庫にしまわれている武具の点検も行わなければならない。また、戦勝祈願を兼ねて精進潔斎に入るので、出陣までは女中らも鳴海の近辺から遠ざけて欲しいと、鳴海は玲子に告げた。
青ざめた顔を俯かせているりんは、鳴海の言葉に口を噤んだままだった。可哀想な気もするが、こればかりは鳴海の力ではどうしようもない。
だが、あれこれと指令を出す内に、「侍大将」としての新しい己が身の内を割って誕生するような、不思議な感覚を鳴海は覚えた。
「然らば、鳴海殿。これを」
一旦席を立った水山が持ってきたのは、一振の采配だった。執政格の家だけに代々伝えられている、侍大将の証である。恐らく、彦十郎家の初代である重門公のときに所持を許されたもので、采弊の元には、金の三つ巴の家紋が刻まれていた。先祖もこの采配を持って、大坂の陣で指揮を取ったのだろうか。
「謹んで、お受け致しまする」
鳴海も、恭しく両手に捧げ持った。軽く振ってみると、ぱらりと心地良い音が響いた。
「どうか、ご無事に戻られよ。衛守がおっても、この家のご当主は鳴海殿。それをお忘れになっては、養泉様へ申し訳ございませぬ」
義父の言葉に、鳴海は頭を下げた。
「留守中のこと、何卒お頼み申しまする」
明日には亡父母や先祖への報告も兼ねて、大隣寺へ詣でる予定だった。まことに、しなければならないことは山程ある。
翌日大隣寺へ参詣すると、そこには与兵衛の姿もあった。側には、右門や志摩もいる。こちらもやはり、先祖へ出陣の報告に来たものらしかった。
「まさか右門の方が先に初陣を飾ることになるとは、思いませんでしたよ」
志摩は、無理やり作ったような笑みを浮かべていた。
「兄上、ひどくないですか?私の弓の腕前を散々けなされていたくせに」
年相応の膨れっ面を浮かべた右門を、志摩が軽く小突いた。
「鳴海殿の足を引っ張るなよ」
「もう、それほど下手だとは思いませぬ。鳴海殿も、春の私の成績をご覧になったでしょう?」
「ん?まあな」
鳴海は、半ば上の空で答えた。そして、ちらりと与兵衛の方を見た。与兵衛も何事か察したのか、「二人とも、先に屋敷へ戻れ」と命じた。
まだ何か言い合っている兄弟の後ろ姿を見送ると、鳴海はそっと与兵衛に尋ねてみた。
「与兵衛様も、実戦は初めてでございまするな」
鳴海の言葉に、与兵衛が苦笑した。
「当たり前だ。それどころか、此度の戦に加わる多くの者が、まことに命のやり取りをした経験はなかろう。たとえ武士の心得だ何だと申しても、本当に刃身を抜いたことのある者は、どれほどいるものか」
与兵衛の顔が心持ち青ざめて見えたのは、墓周りの木々の青葉が映っていただけなのだろうか。
「――この手に右門ら組の子の命を握っていると思うと、恐ろしゅう御座いまする」
誰にも言えなかった弱音を、鳴海はそっと舌先に乗せた。幼い頃より世話になってきて、かつ同じ立場の与兵衛にならば、本音を吐露できた。
「常州からの諸事を聞く限りでは、どう抗っても血を流す他なさそうであるからな」
与兵衛も、小声で答えた。口には出さないが、与兵衛も今回の出陣に動揺しているに違いない。だが――。
「我等は、侍大将を申し付けられた。それに相応しい胆力、振る舞いが求められる。鳴海殿は聡明故お分かりであろうが、己が動揺を部下らに悟られてはならぬ。怯懦な己は、この場に打ち捨てていかれよ」
「本日、常州騒乱鎮圧の任を承った」
鳴海の言葉に真っ先に頭を下げたのは、水山だった。
「鳴海殿。此度のご出陣、誠におめでとう御座いまする」
武門の家柄としては、この上ない名誉なことである。ごく自然な口上だが、水山の表情も硬かった。実子の縫殿助も富津へ出張した経験があるが、本物の戦に彦十郎家の者が駆り出されるのは、水山にとっても初めての経験である。
「兄上が……」
衛守も、動揺を隠せなかった。微かに、視線が泳いでいる。そして、鳴海から「大切な話がある」ということで無理やり起き出してきたりんはというと、顔を真っ青にしている。こちらは今にも気絶するのではないかと思われた。
出立までの数日間にやるべきことは多い。まず、組の子らへの「出陣命令」の伝令を出さねばならない。鳴海が留守の間、彦十郎家の名代は衛守に任せることにした。大城代の内藤と一緒に、武器庫にしまわれている武具の点検も行わなければならない。また、戦勝祈願を兼ねて精進潔斎に入るので、出陣までは女中らも鳴海の近辺から遠ざけて欲しいと、鳴海は玲子に告げた。
青ざめた顔を俯かせているりんは、鳴海の言葉に口を噤んだままだった。可哀想な気もするが、こればかりは鳴海の力ではどうしようもない。
だが、あれこれと指令を出す内に、「侍大将」としての新しい己が身の内を割って誕生するような、不思議な感覚を鳴海は覚えた。
「然らば、鳴海殿。これを」
一旦席を立った水山が持ってきたのは、一振の采配だった。執政格の家だけに代々伝えられている、侍大将の証である。恐らく、彦十郎家の初代である重門公のときに所持を許されたもので、采弊の元には、金の三つ巴の家紋が刻まれていた。先祖もこの采配を持って、大坂の陣で指揮を取ったのだろうか。
「謹んで、お受け致しまする」
鳴海も、恭しく両手に捧げ持った。軽く振ってみると、ぱらりと心地良い音が響いた。
「どうか、ご無事に戻られよ。衛守がおっても、この家のご当主は鳴海殿。それをお忘れになっては、養泉様へ申し訳ございませぬ」
義父の言葉に、鳴海は頭を下げた。
「留守中のこと、何卒お頼み申しまする」
明日には亡父母や先祖への報告も兼ねて、大隣寺へ詣でる予定だった。まことに、しなければならないことは山程ある。
翌日大隣寺へ参詣すると、そこには与兵衛の姿もあった。側には、右門や志摩もいる。こちらもやはり、先祖へ出陣の報告に来たものらしかった。
「まさか右門の方が先に初陣を飾ることになるとは、思いませんでしたよ」
志摩は、無理やり作ったような笑みを浮かべていた。
「兄上、ひどくないですか?私の弓の腕前を散々けなされていたくせに」
年相応の膨れっ面を浮かべた右門を、志摩が軽く小突いた。
「鳴海殿の足を引っ張るなよ」
「もう、それほど下手だとは思いませぬ。鳴海殿も、春の私の成績をご覧になったでしょう?」
「ん?まあな」
鳴海は、半ば上の空で答えた。そして、ちらりと与兵衛の方を見た。与兵衛も何事か察したのか、「二人とも、先に屋敷へ戻れ」と命じた。
まだ何か言い合っている兄弟の後ろ姿を見送ると、鳴海はそっと与兵衛に尋ねてみた。
「与兵衛様も、実戦は初めてでございまするな」
鳴海の言葉に、与兵衛が苦笑した。
「当たり前だ。それどころか、此度の戦に加わる多くの者が、まことに命のやり取りをした経験はなかろう。たとえ武士の心得だ何だと申しても、本当に刃身を抜いたことのある者は、どれほどいるものか」
与兵衛の顔が心持ち青ざめて見えたのは、墓周りの木々の青葉が映っていただけなのだろうか。
「――この手に右門ら組の子の命を握っていると思うと、恐ろしゅう御座いまする」
誰にも言えなかった弱音を、鳴海はそっと舌先に乗せた。幼い頃より世話になってきて、かつ同じ立場の与兵衛にならば、本音を吐露できた。
「常州からの諸事を聞く限りでは、どう抗っても血を流す他なさそうであるからな」
与兵衛も、小声で答えた。口には出さないが、与兵衛も今回の出陣に動揺しているに違いない。だが――。
「我等は、侍大将を申し付けられた。それに相応しい胆力、振る舞いが求められる。鳴海殿は聡明故お分かりであろうが、己が動揺を部下らに悟られてはならぬ。怯懦な己は、この場に打ち捨てていかれよ」
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