鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

出陣(1)

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 鳴海は、しばらく顔を上げられなかった。番頭として遂に来たるものが来たという感慨と、家のこと、そして家の者にも隠してきた秘密が、頭を過る。
「大谷鳴海。復命は如何致した」
 頭上から、丹波の苛立った声が降ってきた。
「……謹んで、お受けいたしまする」
 ようやく鳴海が低声で復命すると、丹波は満足気に肯いた。
「二本松の名を広く知らしめる千載一遇の好機である。幕閣の方々の命に謹んで従い、武功を挙げて参れ」
 言う方は、気楽なものである。その思いを噛み殺し、鳴海は再度深々と頭を下げた。
 続けて、丹波は大まかな出陣予定を説明した。水戸に向かうのに、二本松からの最短の道は棚倉街道である。だが、現在常総北部は筑波勢がしきりに出没しており、水戸到着以前に襲撃されては元も子もない。また、日光警衛の任務に当たっていた藩も、一部を残して水戸藩の騒乱鎮圧に回る。その打ち合わせも兼ねて、まずは宇都宮まで奥州街道を南下せよとの幕命が届いていた。そこで水戸諸生党からの連絡を待った上で、その後どの方面の役割を持つか決められる。七日に総陣触れ、八日に出立というのが丹波が幕閣と打ち合わせてきた日程だった。また今回は、戦の情勢が読めないため、普段は江戸詰の者からも砲術師範の者を中心に、人を出す。
 御前会議がお開きになった後、鳴海は隣にいた与兵衛と視線を交わした。与兵衛の顔にも、複雑な色合いが浮かんでいる。昨年京都に出張させられたばかりだというのに、六番組はまたしても常陸への出張である。そして、今回は文字通り組の子らの命も預かる立場だ。番頭としては名誉なことなのだろうが、手放しで喜べない事情があった。
「鳴海殿と戦場いくさばに立つ日が来ようとはな……。二十数年この任に就いておるが、具足を纏う手順をさらう機会など、そうそうあるものではないわ」
 長国公と上役たる家老等の退席を待って、与兵衛はようやくそう述べた。鳴海も番頭就任一年目で大任を仰せ付けられるのは、意外だった。それを口にすると、与兵衛は小さく笑った。
「お主はこの二年余り、ずっと尊攘派と対峙してきただろうに。それを思えば、お主が常陸への出陣を命じられるのは、自然の理であろう」
 与兵衛に言われて、鳴海も納得した。恐らく与兵衛が命じられたのも、先に京都に出張してきた経験を踏まえ、ある程度現地の尊攘派の動きを読めると期待されてのことだろう。だが、出陣を命じられた動揺は、まだ抑えきれない。
「城下の明珍の具足は、此度の出陣に間に合ったのでしょうか」
 少し前に、源太左衛門は城下の明珍に具足を発注する命令を出していた。が、何せ一千余りの出兵である。到底今回の出陣に間に合うはずがなかった。案の上、与兵衛は鳴海の言葉に首を振った。
「そう言う鳴海殿は、ご自身の支度は整っておろうな」
 ぎくりとした。鳴海が気に入っていた腰の大小の件については、未だに誰にも話せないでいる。だが、長柄奉行の権太左衛門らが鳴海の身辺警護を引き受けているとはいえ、やはりみっともないことには変わりがない。
 鳴海の狼狽した様子を見逃さず、与兵衛がふっと息を漏らした。
「出陣まではまだ幾ばくかの猶予がござる。一刻も早く御腰の物をいつもの差料に戻されよ」
「――気付いておられたのですか」
 小声で呟く鳴海を、与兵衛が軽く睨んだ。
「鳴海殿が幼い頃より見てきているのだ。お主の見栄坊の性分はよく存じておる。大方、ここ近年の彦十郎家の事情のために金策に難儀し、その金策の質として、どこぞやの者に預けてあるのだろう?」
「何故、そこまでお分かりになるのですか……」
 与兵衛にそこまで見抜かれていると知ると、ますます己が情けなかった。
「皆、近年の幕府の命による出費にはほとほと頭を痛めておるからな。さすがに腰の物を質草に差し出したのはお主くらいであろうが、たとえ大身の者であっても、年三度支給される扶持米を質として銭に変えているのも、珍しい話ではない」
 大柄な体を小さく竦める鳴海に、与兵衛がふと苦笑を見せた。その苦笑に誘われ、鳴海が「宗形善蔵の勧める講にうっかり加入した」と白状すると、今度は容赦なく三白眼で睨みつけられる。
「金子積立の仕組みについてろくに調べもせず、安々と宗形殿の甘言に乗ったお主が悪い。あれが宗形殿のもう一つの生業であるのは聞いておったろうが」
 が、そこでねちねちと責める真似をしないのが、与兵衛らしかった。
「今更責めもせぬが、褒めもせぬ。せめて身形は侍大将らしく整えなされ。そのままでは水戸の者らに侮られる」
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