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第三章 常州騒乱
野総騒乱(7)
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「失礼致します。鳴海殿、掃部助様と羽木殿がお呼びでござる」
落ノ間の襖がすっと開かれた。鳴海に声を掛けたのは、安部井清介だった。なぜかその表情は、強張っている。
「今参る」
藩の上役となった鳴海は、この頃は詰番の頃よりもあちこちから声を掛けられるようになっていた。それでも羽木が鳴海に声を掛けるというのは、珍しい。与兵衛に軽く頭を下げ、鳴海は腰を上げた。
畳廊下からぐるりと右手に回り込み階段廊下を通ると、郡代ノ間である。先導する清介は、不機嫌の気配を隠しきれていない。ちらりとこちらを振り返ったその眼差しからは、僅かに敵意が感じられた。
「何か」
清介の敵意ある態度に釣られ、鳴海も声に苛立ちを滲ませた。
「いえ、別に。番頭となられた御方は、守山からも一目置かれるのだと思ったまでです」
「守山から?」
清介はかつて三浦権太夫の思想も遠回しに非難し、暗に鳴海にも皮肉を浴びせた、独自の思想を持つ男である。何か、鳴海と守山藩の関係について気に食わないことがあるのだろうが、それをあからさまに口にするような真似はしなかった。
「お主には関わりあるまい」
鳴海は意図的に、慇懃無礼を装った。水戸藩の情勢が混沌としている今、尊攘派の思惑に振り回されるのは、得策ではない。鳴海の意思を汲み取ったか、それきり清介は口を噤んだ。
郡代ノ間では、羽木と掃部助が待っていた。
「清介殿、ご苦労」
羽木の上から目線の言葉に頭を下げると、清介はすっと姿を消した。清介の姿が消えたのを確認した掃部助が、微かに苦笑を浮かべた。
「あれは、鳴海殿が嶽で守山の上役と誼を通じられたのを、苦々しく思っておるな」
その口ぶりからすると、掃部助も清介の振る舞いはそれなりに気になっていたのだろう。ただし、清介は三浦権太夫や和左衛門のように、露骨には感情を見せない。その分だけ、むやみに軽挙な振る舞いはするまいという安心感があった。
「して、ご用向きは?守山が……と、清介は申しておりましたが」
鳴海の問いに、羽木が真面目な表情を取り繕った。
「守山藩の郡奉行である加納佑蔵殿と太田新太郎殿が、密かに嶽に参られたいとの御注進がありましてな。それがしと掃部助様が先日松岡町に参って目通りしてきた次第でござる」
その言葉に、鳴海は眉を上げた。なぜ守山の者はこうも嶽に度々来たがるのか。
「で、加納殿は何と」
「球三郎や三本木らが思いの外長く嶽に滞在して、二本松藩の方々にご迷惑をお掛けしたと平身低頭されておりました」
掃部助が、穏やかな口ぶりで述べた。すると、長々と嶽に逗留していた守山の者らは、ようやく自藩に戻る気になったのか。鳴海はほっと息をついた。
「守山藩の郡奉行の御方が、わざわざ下士らを迎えに来られたのですか?」
「まさか」
掃部助は、微かに笑った。
「それは、加納殿なりの口実でござろう。その挨拶の席で、三浦平八郎殿のご身上について説明されていかれた。平八郎殿は彼らの上役でござるからな。此度の『嶽に参りたい』という口上の真意は、平八郎殿の代参というところであろうか」
「平八郎殿が……」
守山の者がわざわざそれを二本松に伝えに来るというのも、意外だった。何でも、三浦平八郎自ら願い出て、十二日付けで常陸松川陣屋の軍務に当たることになったらしい。それに水戸藩から差し遣わされていた米川安之助と、今回加納に同行してきた太田新太郎が随行する。
「これをどのようにお考えになられますかな、鳴海殿」
掃部助の問いに、鳴海はしばし考え込んだ。鳴海の見聞した話からすれば、平八郎は武田伊賀守に近い者である。その武田伊賀守は、元を正せば筑波勢から期待されていた要人である。だが伊賀守自身は、予てより筑波勢の乱暴に苦言を呈して何とか宥めようとしてきた。市川のために執政職を追れたものの、藩主慶篤の意向次第では再び執政職に返り咲き、市川らを取り締まる側に当たるかもしれない。が、幕閣の人事異動を見る限り、水戸藩が標榜してきた「鎖港実現」も、今までとは潮目が変わるのではないか。その原因も、水戸藩のお膝元の者が起こした「筑波義挙」にある。
水戸藩の掲げてきた「攘夷」のスローガンが、よりにもよって自藩の者らの行動によってその一角が崩されようというのは、強烈な皮肉であった。
「水戸藩内訌の結果次第でありましょう。筑波勢の目指すところも、本来は鎖港実現の魁となるはずが、その乱暴ぶりが仇となり民心を失いつつある。また、内訌の結果、己等も挙兵の目的を見失っているように感じられまする。あの平八郎殿のことでござる、それを自分の目で確かめて参る所存と見受けました」
かつて、嶽で平八郎はそのようなことを鳴海に漏らしていた。が、言い換えれば水戸藩中枢部にも伝手がある平八郎でさえ、自ら水戸近くまで赴きその目で確かめねば、宗藩の動きが読めないということだ。
「では、守山の動きについては、そのまま受け止めれば宜しいですかな」
羽木が、こちらに視線を投げかけた。「丹波の腰巾着」とも揶揄される男は、新たな守山からの来訪者についても丹波に報告するつもりで、鳴海の見解を聞きたかったのだろう。
「丹波様にも、平八郎殿が松川表に参られた件については、お伝えした方が宜しいかと存じまする。奥州守山陣屋を取り仕切っていた者の御役交代を知らなかったとなれば、丹波様はご気分を害されましょう」
鳴海の言葉に掃部助と羽木も苦笑した。
落ノ間の襖がすっと開かれた。鳴海に声を掛けたのは、安部井清介だった。なぜかその表情は、強張っている。
「今参る」
藩の上役となった鳴海は、この頃は詰番の頃よりもあちこちから声を掛けられるようになっていた。それでも羽木が鳴海に声を掛けるというのは、珍しい。与兵衛に軽く頭を下げ、鳴海は腰を上げた。
畳廊下からぐるりと右手に回り込み階段廊下を通ると、郡代ノ間である。先導する清介は、不機嫌の気配を隠しきれていない。ちらりとこちらを振り返ったその眼差しからは、僅かに敵意が感じられた。
「何か」
清介の敵意ある態度に釣られ、鳴海も声に苛立ちを滲ませた。
「いえ、別に。番頭となられた御方は、守山からも一目置かれるのだと思ったまでです」
「守山から?」
清介はかつて三浦権太夫の思想も遠回しに非難し、暗に鳴海にも皮肉を浴びせた、独自の思想を持つ男である。何か、鳴海と守山藩の関係について気に食わないことがあるのだろうが、それをあからさまに口にするような真似はしなかった。
「お主には関わりあるまい」
鳴海は意図的に、慇懃無礼を装った。水戸藩の情勢が混沌としている今、尊攘派の思惑に振り回されるのは、得策ではない。鳴海の意思を汲み取ったか、それきり清介は口を噤んだ。
郡代ノ間では、羽木と掃部助が待っていた。
「清介殿、ご苦労」
羽木の上から目線の言葉に頭を下げると、清介はすっと姿を消した。清介の姿が消えたのを確認した掃部助が、微かに苦笑を浮かべた。
「あれは、鳴海殿が嶽で守山の上役と誼を通じられたのを、苦々しく思っておるな」
その口ぶりからすると、掃部助も清介の振る舞いはそれなりに気になっていたのだろう。ただし、清介は三浦権太夫や和左衛門のように、露骨には感情を見せない。その分だけ、むやみに軽挙な振る舞いはするまいという安心感があった。
「して、ご用向きは?守山が……と、清介は申しておりましたが」
鳴海の問いに、羽木が真面目な表情を取り繕った。
「守山藩の郡奉行である加納佑蔵殿と太田新太郎殿が、密かに嶽に参られたいとの御注進がありましてな。それがしと掃部助様が先日松岡町に参って目通りしてきた次第でござる」
その言葉に、鳴海は眉を上げた。なぜ守山の者はこうも嶽に度々来たがるのか。
「で、加納殿は何と」
「球三郎や三本木らが思いの外長く嶽に滞在して、二本松藩の方々にご迷惑をお掛けしたと平身低頭されておりました」
掃部助が、穏やかな口ぶりで述べた。すると、長々と嶽に逗留していた守山の者らは、ようやく自藩に戻る気になったのか。鳴海はほっと息をついた。
「守山藩の郡奉行の御方が、わざわざ下士らを迎えに来られたのですか?」
「まさか」
掃部助は、微かに笑った。
「それは、加納殿なりの口実でござろう。その挨拶の席で、三浦平八郎殿のご身上について説明されていかれた。平八郎殿は彼らの上役でござるからな。此度の『嶽に参りたい』という口上の真意は、平八郎殿の代参というところであろうか」
「平八郎殿が……」
守山の者がわざわざそれを二本松に伝えに来るというのも、意外だった。何でも、三浦平八郎自ら願い出て、十二日付けで常陸松川陣屋の軍務に当たることになったらしい。それに水戸藩から差し遣わされていた米川安之助と、今回加納に同行してきた太田新太郎が随行する。
「これをどのようにお考えになられますかな、鳴海殿」
掃部助の問いに、鳴海はしばし考え込んだ。鳴海の見聞した話からすれば、平八郎は武田伊賀守に近い者である。その武田伊賀守は、元を正せば筑波勢から期待されていた要人である。だが伊賀守自身は、予てより筑波勢の乱暴に苦言を呈して何とか宥めようとしてきた。市川のために執政職を追れたものの、藩主慶篤の意向次第では再び執政職に返り咲き、市川らを取り締まる側に当たるかもしれない。が、幕閣の人事異動を見る限り、水戸藩が標榜してきた「鎖港実現」も、今までとは潮目が変わるのではないか。その原因も、水戸藩のお膝元の者が起こした「筑波義挙」にある。
水戸藩の掲げてきた「攘夷」のスローガンが、よりにもよって自藩の者らの行動によってその一角が崩されようというのは、強烈な皮肉であった。
「水戸藩内訌の結果次第でありましょう。筑波勢の目指すところも、本来は鎖港実現の魁となるはずが、その乱暴ぶりが仇となり民心を失いつつある。また、内訌の結果、己等も挙兵の目的を見失っているように感じられまする。あの平八郎殿のことでござる、それを自分の目で確かめて参る所存と見受けました」
かつて、嶽で平八郎はそのようなことを鳴海に漏らしていた。が、言い換えれば水戸藩中枢部にも伝手がある平八郎でさえ、自ら水戸近くまで赴きその目で確かめねば、宗藩の動きが読めないということだ。
「では、守山の動きについては、そのまま受け止めれば宜しいですかな」
羽木が、こちらに視線を投げかけた。「丹波の腰巾着」とも揶揄される男は、新たな守山からの来訪者についても丹波に報告するつもりで、鳴海の見解を聞きたかったのだろう。
「丹波様にも、平八郎殿が松川表に参られた件については、お伝えした方が宜しいかと存じまする。奥州守山陣屋を取り仕切っていた者の御役交代を知らなかったとなれば、丹波様はご気分を害されましょう」
鳴海の言葉に掃部助と羽木も苦笑した。
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