鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

野総騒乱(6)

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「鳴海殿。何か良いことがありましたか?」
 久しぶりに詰番らが集う落ノ間に顔を出した鳴海に、真っ先に声を掛けたのは志摩だった。志摩の言葉に鳴海が眉根を寄せると志摩は、とん、と自分の眉間に人差し指を当てて口元に笑みを浮かべた。
「ここの皺が、緩んでおります」
「たわけたことを」
 そういなしながらも、久しぶりに志摩らしい言葉を聞いて、鳴海も頬を緩めた。鳴海の表情が和らいでいたとすれば、きっと先日りんと過ごした時間のおかげだろう。近頃はそんな冗談さえ吐くことが出来ないほど、上役らが集まる場ではぴりぴりとした空気が流れている。
 実際、「幕府から筑波勢の追討命令が出された」という知らせが宇都宮から届いたのは、つい先日のことだった。今までのように、関東諸藩に「追討」を命じるのではなく、幕府の人間が直接追討の指揮を取ることになったのである。指揮官には、目付として永見貞之丞と小出順之助が任命された。その早馬が到着するや否や、鳴海は源太左衛門と話し合いの場を持ち、井上と味岡に帰藩命令を出した。両名とも使い番として優秀な人間であるから、ぼちぼちと手元に戻し、次の幕府からの命令に備えさせなければならない。
 ほぼ時を同じくして、江戸藩邸の丹波からも早馬が来た。丹波によると、猖獗状態の野州への幕軍派遣が決まると当時に、水戸藩からも筑波勢追討の兵を出すことになったという。水戸藩の指揮官には、先日執政の座に就いたばかりの市川三左衛門が、その任に就くことになった。
 その一方で、「筑波勢の追討」に納得していない水戸藩内の改革派も、独自に動いた。五月二十八日の政変で一旦は門閥派に敗れたかに見えた改革派であったが、鎮派の一人であった榊原新左衛門は亡き烈公の夫人である貞芳院に上書を提出し、市川らの罷免を訴えた。その根拠は、烈公がかつて自分の藩主就任を阻もうとした結城寅寿とらじゅを厭い、「結城寅寿一派は永代登用するべからず」と遺言を残していたというものである。市川は結城寅寿の流れを汲む一人であり、特に改革派の筆頭である武田耕雲斎を敵視していたという理由もあった。
 榊原は藩主慶篤に諌言するために江戸に向けて南上する途中、密かに江戸から脱出してた武田耕雲斎と合流した。
 さらに、幕閣内でも人事に変動があった。六月十八日に再度登城した川越藩主松平直克は、横浜鎖港と筑波勢追討の件について、将軍家茂を説得にかかった。直克の言い分は、「筑波勢の述べるように一日も早く横浜鎖港を実現するべきであり、それが実現されれば筑波勢の乱暴も自ずと静まる」というものである。家茂も、一旦はこの言い分に納得して直克の言い分を受け入れ、直克の方針に反対していた板倉勝静かつきよ、酒井忠績らを罷免した。だが、これを面白く思わなかったのが、同じく横浜鎖港についての責任者である徳川慶篤である。二十日にも登城した直克は、残った幕閣らと筑波勢に対する姿勢を巡って対立し、家茂から「一両日引き籠もるように」と注意を受けた。謹慎命令を受けた直克の隙を突いてやはり江戸城に登城した慶篤は、「横浜鎖港については同じ責任者である自分に相談がなかった」として、家茂に直克の罷免を迫り、直克は罷免されたというのである。
 この事件を巡って、水戸藩が関係しているという噂が流れた。その噂を耳にした水戸藩の榊原らは、慶篤に「市川の排除こそ鎖港を差し置いても実行すべきである」と迫り、慶篤は先月執政の座に就けたばかりの佐藤図書や朝比奈弥太郎らを罷免したという。
「……ということだそうな」
 鳴海は、先程の会議の席で伝えられた江戸藩邸からの情報を、志摩らに教えてやった。
「水戸藩は、筑波勢をどうするおつもりなのでしょうね」
 志摩が、天井を仰いだ。説明している鳴海ですら、何度も丹波からの文を読み返さないと内容を理解できないほど、立て続けに変事が起こり過ぎである。
「つまり、朝廷や大樹公の御意向に従い幕閣の方々で鎖港を決めたにも関わらず、筑波勢が兵を挙げたためにその対応に追われていて、鎖港どころではない、ということですか」
 樽井が、首を傾げた。三月に役替えがあったにも関わらず、なぜかこの日は長年慣れ親しんでいる落ノ間に息抜きに来ていたようだ。
「左様。問題は既に水戸藩内部では処理できぬまでになっているからな。だからこそ幕府の目付を直々に派遣して、筑波勢追討を決めたのだろう」
 鳴海は、口元を歪めた。
「ふうん」
 志摩は、小首を傾げた。
「すると横浜鎖港についても、もしかしたら立ち消えになるかもしれない……ということですか」
 予断は許されないが、志摩が指摘したように、遂に決まったはずの鎖港についても、具体策については江戸からは一切指示が届いていなかった。
「松平大和守様が馘首された翌々日には、白河藩の阿部様が老中に抜擢されたらしい。奏者番兼寺社奉行になられてから、わずか二日でだぞ」
 これまた息抜きに来たのか、鳴海の隣に与兵衛がどっかりと座った。
「白河藩の阿部様と言えば、開国派の方でございましたな」
 志摩の言葉に、鳴海は肯いた。四月に情報収集のために郡山陣屋に顔を出した際には、与兵衛の命令で志摩も同行していた。あの頃は漠然と開国派に一縷の望みを託していたが、ここに来て、本当に鎖港の施策方針の行方も読めなくなった。
 が、その前に水戸筑波勢の討伐に対して、何等かの手を打たねばならない。
「他に、何か変わったことは?」
 鳴海は、与兵衛と顔を見合わせた。
 二十一日に筑波勢の田中隊が真鍋を焼いた話や、京で会津藩お抱えの浪士組が、池田屋に集結していた尊攘派の志士らを一網打尽にした話なども、うっすらと二本松まで聞こえてきていた。それらも、今までだったら「一大事」として上役会議の席でも話題になっていたのだろう。だが、あまりにも立て続けに変事が起こるものだから、どこから志摩ら下役の者らに話して良いものやら、判別がつきかねる。その戸惑いは与兵衛も同じなのか、鳴海の方をちらりと見た。
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