鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

野総騒乱(5)

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「――義父上や義母上から、何か言われたのか?」
 二人が子のことでりんを責めているようならば、後で釘を刺しておかなければならない。鳴海が密かにそう決意したところで、りんは首を横に振った。
「お二方とも、決してそのようなことは申されませぬ。子のない私にも、優しくして下さいます」
 だからこそ、とりんが続けた。
「それが辛く、申し訳なくて……。彦十郎家の行く末を考えるのならば、鳴海様に別の御内儀をお迎えになられたほうが後々の為ではないかと、この頃思うのです」
 鳴海はりんの側ににじり寄り、その小さな身体を抱き締めた。りんがそれほど子のないことを思い悩んでいたとは、思わなかった。
「たわけ……」
 束の間、妻に掛けてやる言葉を探した。そして、ようやく小声でりんの耳元に囁く。
「そなた以上の妻など、いるものか。今更別の内儀を迎えようなぞ、考えたこともない」
 鳴海の両腕の中で、りんが身を震わせる。それは、寒気のためばかりではあるまい。
「ですが万が一、鳴海様が常州の戦に御出馬遊ばすようなことがあったらと思いますと……」
 思いもよらぬりんの言葉に、刹那、鳴海は身を強張らせた。りんの前では、鳴海は滅多に表向きの話をしない。藩の機密にも関わることでもあるし、何よりも鳴海自身がりんを不安がらせたくなかった。だが、藩士の妻たちの間では、既に常州騒乱の噂が広まっているのだろう。そして鳴海が番頭の職に就いている以上、幕府から二本松藩に常州の征討命令が下された場合、鳴海が侍大将として出陣を命じられる可能性は大いにあり得た。先程、自分と同い年でこの世を去った織部の墓前で手を合わせたことで、りんは人の生の儚さを思い、不安を募らせたのかもしれない。
 それだけではない。鳴海の脳裏には、一昨年に流行り病であっけなく死んだ縫殿助のことがあった。縫殿助も多くの者から番頭として期待されていただろうに、ああも早く逝ってしまうとは、鳴海も未だに信じられないことがある。そして彼もまた、その血を残さずにこの世を去っていた。
 同じことを考えていたのか、りんも「縫殿助様とて……」と呟いた。
 出来れば生きた証しとして、我が血を引く者をこの世に残したい。己の本心に気付くと、鳴海はきつく目を瞑り、両腕に力を込めた。
 妻の背を黙って擦っていると、先程龍泉寺で嗅いだ芳香が再び立ち上ってきた。どうやら芳香の主は、りんだったらしい。りんの項に鼻先を近づけると、どうもそこから香ってきている気がする。艶めかしい香りに、鳴海は軽く目眩を覚えた。
「――何か、つけているか?」
 このような香りは、慎ましいりんらしくない。そう思いつつも、徐々に下半身が熱を帯びてきているのを鳴海は感じた。
図書ずしょ様の御内儀様から譲っていただいた薔薇水そうびすいを少々……。図書様がお育てになっている薔薇で、お作りになられたのだそうです」
 恥ずかしそうにりんが打ち明けた。りんの言う「図書様」とは、隣家の丹羽掃部助のことである。薔薇水を現代風に述べるならば、バラの花を蒸留して作った自家製の香水と言ったところか。
 口先では深刻な話をしつつも艶めかしい香りを吸い込んでいる内に、鳴海の自制心に狂いが生じ始めた。理性の上では、武士たるものは常に死を覚悟しこの世に執着してはならないと分かっているのに、鳴海の肉体は生への渇望、そして我が血を残したいという欲望を訴えてくる。それらがないまぜになり、更に両腕の中には妻の柔らかな身体と温もりがある。
 夫の気配の変化を感じ取ったのか、いつの間にかりんの身体の震えも止まっていた。りんが顔を上げ、鳴海と目を合わせる。鳴海はりんの口元に、そっと触れた。
「――左程まで申すならば、遠慮はせぬぞ」
 口角を上げてどこか挑戦的な気配を滲ませつつも、愛おしさを込めて囁く。
「よろしゅうございます」
 りんも柔らかに答えて夫からの愛撫を待つように、そして何かを祈るように目を閉じる。それに励まされ、鳴海は唇を重ねた。しばし舌先で口内を弄り接吻の余韻に浸った後、りんの腰紐を解き、彼女の体を支えながらゆっくりと押し倒していく。襦袢の裾を割って妻の内に身を沈めると、小声ながらも甘やかな声が響き始めた――。

 二人が体を重ねていたのは、どれほどの時間だったのか。軽く汗ばんだ鳴海が気が付いたときには、いつの間にか雨音が止んでいた。このままもう少し余韻に浸っていたい気もするが、さすがにそろそろ家の者たちが気を揉むだろう。ただの散策にしては、時間が経ち過ぎていた。
 腕の中では、りんがすうすうと軽く寝息を立てている。その寝顔は童女のようなあどけなさも感じさせる一方で、今しがたの激しい情交の名残を留めているかのごとく、胸元の肌は微かに薔薇色に染まっていた。起こすのが惜しく、鳴海はしばしその美しい寝姿に見惚れた。
「りん……」
 鳴海の囁きに、りんがゆっくりと瞼を開いた。りんも夫からの愛撫の余韻に浸っていたものか、口元には微かに笑みが浮かんでいる。 
「鳴海様……」
 切なげなその声に再度欲情が掻き立てられるのを感じながらも、辛うじて衝動を抑えた。下帯を締め直して襦袢を整え、その上からすっかり乾いた着物を羽織って帯を締める。
「そろそろ、屋敷へ戻ろう」
 鳴海がそう告げると、りんも身を捩らせて体を起こし、乱れた身なりを整え始めた。ようやく我に返って恥ずかしくなったのか、「あまり見ないで下さいませ」と鳴海に背を向けると、着ていたものを再び身につけた。家を出るときに手にしていた巾着から手鏡と紅入れを取り出すと、手鏡を見ながら手早く唇に紅を差して化粧を整える。
 囲炉裏の炭がすっかり燃え尽きて灰になっているのを確認し、鳴海は外に出た。
「あ、虹」
 鳴海に続いて外に出たりんの言葉に釣られ、鳴海が眼の前の阿武隈山系の端に目をやると、確かに大きな虹が掛かっていた。
「あれほど見事な虹は、久しぶりだな」
 鳴海もしばしその虹に見惚れていたが、やがて、りんの方を振り返った。
「――参ろう」
「はい」
 二人は、ようやく屋敷の方へ足を向けたのだった――。
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