125 / 196
第三章 常州騒乱
関東内訌(5)
しおりを挟む
水戸藩で内訌が起きたという知らせが二本松城下にもたらされたのは、衛守が須賀川から戻ってきて一旬程経った頃のことだった。知らせを寄越したのは、江戸に詰めていた丹波である。
先日の上役らの会合で源太左衛門が指摘したように、やはり旧来の門閥派は天狗党の動きを座視していなかった。元々水戸藩内で烈公(斉昭)の方針に反発していた門閥派と、改革派の内でも藤田小四郎ら激派に対して批判的な目で見ていた鎮派の一部が、手を結んだというのである。
五月上旬の頃には、既に水戸藩校である弘道館の諸生の元に浪士らの件について相談が寄せられていた。祝町(現在の大洗町)に暴徒が出没し、暴行を働くので同所では遊客が少なくなり、町の者らも日々の糊口に困る有り様であり、巡察の依頼が出されていたのだという。そのため、巡察の相談を受けた抜刀指南役の門人らが祝町にある岩船山願入寺に申し入れて、ここを「諸生党」の会合の拠点として利用することを承諾してもらったという。かつて水戸藩では天保の頃に行われた藩政改革の一貫として、神道思想に基づいた廃仏毀釈の施策が行われた時期がある。門閥派はこれに目をつけ、門閥派の周旋で諸生党は願入寺を「決起」の拠点としたのだった。神道寄りの天狗党らは、共通の敵というわけである。
それだけではない。諸生派は天狗党の一連の行動が国家滅亡を招くとして非難し、排除を呼びかける建言書を藩政府に進達し、同時に広く配布して同志を募った。
五月九日には弘道館の諸生らが藩の重臣や弘道館文武師範らに書を送って、門閥派の筆頭格である朝比奈弥太郎や鈴木石見守、佐藤図書などに南上してもらい藩主慶篤に建言してもらうよう申し送った。
一言で言えば、「呉越同舟」と言ったところか。
その一方で江戸には「二〇日に将軍が帰府する」との知らせが届いていた。江戸の留守を任されていた水戸藩主慶篤は、将軍の留守中に天狗党の挙兵を許したことについて、「幕府の面目を潰すもの」と考えたのだろう。一五日には国元に対して「鎮撫」の命令を下した。諸生党らの「建言書」が慶篤に届いたのも、この頃である。その中には、「御政事御一新」を迫る、つまり藩内人事の一新を求める内容も含まれていた。
さらに、五月二六日には諸生党が水戸千波原に結集した。同時に市川三左衛門、朝比奈弥太郎、佐藤図書らは諸生党を率いて鎮派と時を同じくして南上した。慶篤はこの勢いに押され、江戸藩邸においては、それまで執政職であった武田耕雲斎、興津勝五郎、山国兵部、中山与左衛門らを免職した。さらに国元の執政職であった山野辺主水正、岡田信濃守、杉浦恙二郎らも罷免が言い渡された。
「ひどいものですな……」
上役らの会議の席で、三郎右衛門が嘆息した。水戸の内訌は予想されていたが、藩主としてあまりにも不甲斐ないではないかという感想が、あちこちから漏れる。
「水戸だけではない。宇都宮でも、人事一新が行われたそうだ。のう、鳴海殿」
今までは表情をあまり表に出してこなかった源太左衛門も、この頃は怒りを隠しきれていない。源太左衛門の言葉に、鳴海も肯く。
「宇都宮より知らせが参りました。去る二十三日に再度山国兵部殿や美濃部又五郎殿らが太平山に向かい、大人しく帰順するように呼びかけましたが、物別れに終わったとの由。また、宇都宮藩でも懸殿ら天狗党寄りの面々が他藩に協力を周旋して回り、藩政を混乱させたとしてその責任を取るべしとして、馘首の声が挙がっているそうでございます。宇都宮藩については、日光守備の不手際を幕府より譴責されるのを恐れて反天狗党に回ると見るべしというのが、味岡殿らの見立てです」
そして、日光警衛に向かわされた福島藩や三春藩が未だ帰藩したという知らせがないところを鑑みると、幕閣らもまだまだ混乱が続くと見ているに違いなかった。
「それほど、乱妨を働いているとは……」
和左衛門が眉を顰めた。その他人事のような物言いにむっとして、鳴海は口元を歪めた。
「何せ、未だ天狗党の一味が下野領内に滞在しており、宇都宮城下でも『筑波党に味方せねば宇都宮は焼き払われる』との風聞が流れていると申しますからな。源太左衛門様とも話し合い、宇都宮表の者もそろそろ国元へ呼び戻す所存にござる」
鳴海の皮肉を咎めるかのように、ちらりと与兵衛がこちらを見た。だが、一歩間違えば二本松もそのような混乱に巻き込まれかねなかったとの思いは、未だ燻っている。
「京都の藩邸からは、いよいよ水戸藩士らの不用意な上洛についても制限されたとの知らせが参り申した。どうも、関東周辺の動きとは別に、水戸は朝廷への伝手を通じて横浜鎖港を実現させようと、あれこれ工作していたらしいですな」
掃部助の口ぶりも、皮肉の色が滲み出ていた。京都からの知らせというのは意外だったが、先に上洛した折に、淀藩との連絡でもつけたのだろう。藩主が所司代から老中に異動になったとはいえ、淀藩の者の方が京都方面についての動きは詳しい。
「二階堂衛守殿から差し出された守山藩の達文からしても、水戸藩内が混乱の極みにあるのは確かであろう。よって、各々が独断で動くことは厳に慎まれ、万事委細粗漏なく御報告されたし。宜しいな」
源太左衛門が、ぐるりと一同を見回した。
先日の上役らの会合で源太左衛門が指摘したように、やはり旧来の門閥派は天狗党の動きを座視していなかった。元々水戸藩内で烈公(斉昭)の方針に反発していた門閥派と、改革派の内でも藤田小四郎ら激派に対して批判的な目で見ていた鎮派の一部が、手を結んだというのである。
五月上旬の頃には、既に水戸藩校である弘道館の諸生の元に浪士らの件について相談が寄せられていた。祝町(現在の大洗町)に暴徒が出没し、暴行を働くので同所では遊客が少なくなり、町の者らも日々の糊口に困る有り様であり、巡察の依頼が出されていたのだという。そのため、巡察の相談を受けた抜刀指南役の門人らが祝町にある岩船山願入寺に申し入れて、ここを「諸生党」の会合の拠点として利用することを承諾してもらったという。かつて水戸藩では天保の頃に行われた藩政改革の一貫として、神道思想に基づいた廃仏毀釈の施策が行われた時期がある。門閥派はこれに目をつけ、門閥派の周旋で諸生党は願入寺を「決起」の拠点としたのだった。神道寄りの天狗党らは、共通の敵というわけである。
それだけではない。諸生派は天狗党の一連の行動が国家滅亡を招くとして非難し、排除を呼びかける建言書を藩政府に進達し、同時に広く配布して同志を募った。
五月九日には弘道館の諸生らが藩の重臣や弘道館文武師範らに書を送って、門閥派の筆頭格である朝比奈弥太郎や鈴木石見守、佐藤図書などに南上してもらい藩主慶篤に建言してもらうよう申し送った。
一言で言えば、「呉越同舟」と言ったところか。
その一方で江戸には「二〇日に将軍が帰府する」との知らせが届いていた。江戸の留守を任されていた水戸藩主慶篤は、将軍の留守中に天狗党の挙兵を許したことについて、「幕府の面目を潰すもの」と考えたのだろう。一五日には国元に対して「鎮撫」の命令を下した。諸生党らの「建言書」が慶篤に届いたのも、この頃である。その中には、「御政事御一新」を迫る、つまり藩内人事の一新を求める内容も含まれていた。
さらに、五月二六日には諸生党が水戸千波原に結集した。同時に市川三左衛門、朝比奈弥太郎、佐藤図書らは諸生党を率いて鎮派と時を同じくして南上した。慶篤はこの勢いに押され、江戸藩邸においては、それまで執政職であった武田耕雲斎、興津勝五郎、山国兵部、中山与左衛門らを免職した。さらに国元の執政職であった山野辺主水正、岡田信濃守、杉浦恙二郎らも罷免が言い渡された。
「ひどいものですな……」
上役らの会議の席で、三郎右衛門が嘆息した。水戸の内訌は予想されていたが、藩主としてあまりにも不甲斐ないではないかという感想が、あちこちから漏れる。
「水戸だけではない。宇都宮でも、人事一新が行われたそうだ。のう、鳴海殿」
今までは表情をあまり表に出してこなかった源太左衛門も、この頃は怒りを隠しきれていない。源太左衛門の言葉に、鳴海も肯く。
「宇都宮より知らせが参りました。去る二十三日に再度山国兵部殿や美濃部又五郎殿らが太平山に向かい、大人しく帰順するように呼びかけましたが、物別れに終わったとの由。また、宇都宮藩でも懸殿ら天狗党寄りの面々が他藩に協力を周旋して回り、藩政を混乱させたとしてその責任を取るべしとして、馘首の声が挙がっているそうでございます。宇都宮藩については、日光守備の不手際を幕府より譴責されるのを恐れて反天狗党に回ると見るべしというのが、味岡殿らの見立てです」
そして、日光警衛に向かわされた福島藩や三春藩が未だ帰藩したという知らせがないところを鑑みると、幕閣らもまだまだ混乱が続くと見ているに違いなかった。
「それほど、乱妨を働いているとは……」
和左衛門が眉を顰めた。その他人事のような物言いにむっとして、鳴海は口元を歪めた。
「何せ、未だ天狗党の一味が下野領内に滞在しており、宇都宮城下でも『筑波党に味方せねば宇都宮は焼き払われる』との風聞が流れていると申しますからな。源太左衛門様とも話し合い、宇都宮表の者もそろそろ国元へ呼び戻す所存にござる」
鳴海の皮肉を咎めるかのように、ちらりと与兵衛がこちらを見た。だが、一歩間違えば二本松もそのような混乱に巻き込まれかねなかったとの思いは、未だ燻っている。
「京都の藩邸からは、いよいよ水戸藩士らの不用意な上洛についても制限されたとの知らせが参り申した。どうも、関東周辺の動きとは別に、水戸は朝廷への伝手を通じて横浜鎖港を実現させようと、あれこれ工作していたらしいですな」
掃部助の口ぶりも、皮肉の色が滲み出ていた。京都からの知らせというのは意外だったが、先に上洛した折に、淀藩との連絡でもつけたのだろう。藩主が所司代から老中に異動になったとはいえ、淀藩の者の方が京都方面についての動きは詳しい。
「二階堂衛守殿から差し出された守山藩の達文からしても、水戸藩内が混乱の極みにあるのは確かであろう。よって、各々が独断で動くことは厳に慎まれ、万事委細粗漏なく御報告されたし。宜しいな」
源太左衛門が、ぐるりと一同を見回した。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説


どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる