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第三章 常州騒乱
関東内訌(4)
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衛守は半月ほどして、善蔵に送られて帰ってきた。もっとも須賀川は二本松から左程遠くないこともあり、鳴海も心配していたわけではない。
「お帰りなさいませ、衛守様」
鳴海が側にいるにも関わらず、りんがにこやかな笑顔を衛守に向けた。
「義姉上。ご心配をお掛けしました」
応じる衛守も、笑顔で対応している。元々この二人は仲が良いのだが、りんは鳴海の妻である。何となく鳴海は面白くなかった。
むっつりと両腕を組んで立っている鳴海に気付き、衛守は眉を上げた。
「何ていう顔をしているんです、兄上。まさか妬心ではございますまいに」
「そのようなわけがあるか」
そう強がってみたものの、鳴海は狼狽してそっぽを向いた。そんな鳴海にお構いなしに衛守は馬を下男に託すと、一旦自室に引き下がった。
夕餉の席で、鳴海は改めて衛守に須賀川の様子を尋ねてみた。
「善蔵殿にお誘いを受けたときは迷いましたが、行ってみると面白いところでした、須賀川は。白河藩領でありながら、さながら小さな藩のようです。白河藩士も常駐していて敷教舎という藩校の分室までございますが、実質的にあそこを取り仕切っているのは商人なのですよ。己等の手で須賀川の地を守り、栄えさせていくのだという気概に満ちております」
そう述べて、衛守は笑った。そして同地には善蔵の説明したように本当に「二階堂神社」もあり、衛守も参拝してきたという。厳密に言えば、大谷家の祖先である尾張二階堂氏とは鎌倉の頃には血筋が分かれてしまっており、須賀川を治めていたという岩瀬二階堂氏と現在の大谷氏の血縁は、恐らくごく薄いものだろう。それでも衛守は「二階堂様の末裔」として、街の者らから丁重に扱われたらしい。
そして、これだけ武士がぴりぴりと尊皇攘夷の動きに気を張っているにも関わらず、町人等は商いに励みつつ俳諧を嗜み、季節の風流を楽しむ文化があるというのだ。尊皇攘夷についてあれこれと論じる者は、衛守の逗留中は見かけなかった。そのような気風のためか、外から余所者が来て滞留しても快く迎え入れる。
「だからですかね。守山藩士の姿も見かけましたし、長沼藩の者も来ているようです」
「長沼藩というと……府中藩の長沼陣屋のことか」
水山の呟きに、衛守は肯いた。
「或いは水戸本家の対応について、御連枝の者同士で、情報を交換しているのかもしれませんが」
そう述べると、衛守はちらりと鳴海に視線をやった。
「ふむ……」
鳴海は、箸を止めた。長沼藩というのは通称であるが、そちらも二本松藩の郡山組と領地が接している地域である。だが、その西の先にあるのは大藩である会津藩だ。会津に任せる方が無難だろう。
「そうそう。こんなものが守山で出回っているようです」
すっかりぬるくなった茶の入った茶碗を脇に寄せて、衛守は懐から書状を取り出した。鳴海がぱらりと広げてみると、どうやら何かの御達文のようである。
抑臣子たる事寸刻も忘れ間敷事ハ忠孝之道ニ而心得之事ニハ候得共近来世上之弊風ニ而一藩之中ニも奸黨又者正義派之黨派ヲ唱ヘ隔絶ニ及ヒ殆と絶交同様之輩も有之哉ニ候是則当今之流俗とハ乍申自然忠孝之大道ヲ迷忘致候ニ当り大乱之根元ハ昔より天下国家之治乱興廃も和不和之二つニ依候事ハ面々も心得可有之旨人身之異成事者各面目之如く才敏有り癡鈍あり剛強あり柔弱あり惣而才不才任セ十人十色ニ御座候得共忠孝之目的間違無候ハゝ幾重ニも和融致し倶ニ力ヲ合セ
君之御為ヲ働候義肝要之事ニ候且骨肉之兄弟ニ候ハゝたとへ異論別意ニ候共速而義絶も相成間敷精々異見教諭も可致俗に言ふきたなき指ニ而も切り捨てられぬと申處真の人情ニ候得者深く右之情実隔りよしや不心得之者ニ候共厚く和融懇情ヲ尽し自然心底ヲ改させ忠孝之大道ニ不為背様教諭致候義是則大忠大孝臣子たる者之最第一可心掛事ニ候譬何程重キ石ニ而も大勢力ヲ合候得者手軽く上り向々ニ而力別々ニ致者決而上り不申候是と同じ事ニ候上ヲ真似而下ニ候得者頭支配者不及申古役先役之心得別而肝要ニ候組中厚く和融致し他組之者迠自然風紀為致候儀者抜群之事候得者
上ニも右様之者共ハ厚く頼ニ思召夫々格外之御引立も可有之候然ル上者世間之面目と申子孫迠も美名ヲ伝へ候事ニ候得者呉々深く思念可被致候右之通集穆いたし文武出精一藩一鉄丸の如くなる時者君之御美名高く
幕朝 宗藩之一干城と被為成全忠孝之大道御立被遊天下後世御芳名ヲ輝し候儀ハ臣たるもの之本念此上有間敷事ニ候条幾重ニも憤発稽々ヲ被尽候様可被致候事
右之通被仰出候条支配之面々末々迠不洩様可被御申合候此段申達候 以上
五月十四日 高橋岩太郎
要するに、現在では意見の相違から互いに正義の党派であると主張して、互いに憎み合い交流が隔絶しているが、それこそ国が滅びる元となる。心を一つにして水戸宗藩の尖兵となり、宗藩のために忠孝を尽くすのが大道であるという内容である。
「この高橋岩太郎という御仁……。お主が書き送ってきた、新しく守山藩の御目付役となられた御仁ではないか?」
鳴海の問いに、衛守が肯く。
「高橋殿のお名前になっていますが、役職は三浦平八郎殿と同じでしょう?この内容は、多分三浦平八郎殿の意向も含まれておりますよ」
「なるほどな」
守山でこのような達文が出されたということは、嶽で平八郎が鳴海に残した言葉は間違いなく平八郎の本心だろう。だが、水戸の政情が如何に複雑で不安定であるかを如実に示す、証左の文でもあった。
「この文だが……。御家老方に届け出る方がよかろうな」
水山が、鳴海に視線を向けた。鳴海にも異存はない。
「それでは兄上。私が直接日野様にお届けしてもよろしいでしょうか。兄上もお読みになられたというのは、きちんと申し伝えますので」
衛守が、いやに真剣な眼差しを向けた。
「構わぬが……」
この前から衛守は、何か一物腹に秘めているような気もする。鳴海は、それが気になった。
――久しぶりに夜の寝所でりんと床を共にすると、鳴海は衛守の件を持ち出した。水山や玲子のいる前では、話しづらい。
「俺が御家老方に届ける方が、面倒が少ないのに」
鳴海の愚痴に、りんはひっそりと笑った。
「いよいよ分家するおつもりなのかもしれませんわね、衛守様は」
「分家?」
鳴海は、思わず半身を浮かした。以前にもそのような話が出たことはあったが、鳴海が家を継いだばかりの頃の話であり、第一、鳴海には一言の相談もない。
「志津様や那津様が嫁がれて、今度は衛守様ご自身の番と思われておりますでしょう。ですが、今の御身分のままでは……とお考えになられておるのでは……。鳴海様の陰に隠れることなく、己の力で何かしら藩の為に尽くされたいのではないでしょうか」
りんの、女ならではの視点だった。だが、当たっているような気がする。先日、「番頭として命じて欲しい」と宣言したのは、衛守の一人の男として独立したいという意志の現れなのかもしれなかった。
「上崎家の、アサ殿か……」
鳴海の独り言に、りんが肯いた。
「私も詳しくは存じ上げませんが、お互いに随分と長いこと思われているようですから……。既にお二人の間でこの先について、話し合われているのかもしれません」
「そうか」
番頭の職務で多忙な鳴海と異なり、衛守は家にいる時間が鳴海より長い。自ずと、りんと時間を共有する機会も多いのだろう。それ故りんは鳴海の妻であるにも関わらず、衛守の心の機微まで読んでいるのだった。
「関東の天狗党の件が落ち着くまで、衛守の分家の件については、今しばらく待ってもらいたいのだがな」
鳴海がそう呟くと、りんが身を固くする気配が伝わってきた。
「……戦になりますの?」
「戦支度をしておくようにという命令を、先日日野様から申し伝えられた」
鳴海の言葉に、りんは黙り込んだ。だが、まだ二本松藩が直接命令を下されたわけではない。水戸藩が自力で問題を解決できれば、それに越したことはないだろう。
それでも、どうにも希望的観測は伝えにくかった。代わりに鳴海がりんを抱きしめる両腕に力を入れると、りんもそれに応じて、鳴海の胸に顔を埋めた。
「お帰りなさいませ、衛守様」
鳴海が側にいるにも関わらず、りんがにこやかな笑顔を衛守に向けた。
「義姉上。ご心配をお掛けしました」
応じる衛守も、笑顔で対応している。元々この二人は仲が良いのだが、りんは鳴海の妻である。何となく鳴海は面白くなかった。
むっつりと両腕を組んで立っている鳴海に気付き、衛守は眉を上げた。
「何ていう顔をしているんです、兄上。まさか妬心ではございますまいに」
「そのようなわけがあるか」
そう強がってみたものの、鳴海は狼狽してそっぽを向いた。そんな鳴海にお構いなしに衛守は馬を下男に託すと、一旦自室に引き下がった。
夕餉の席で、鳴海は改めて衛守に須賀川の様子を尋ねてみた。
「善蔵殿にお誘いを受けたときは迷いましたが、行ってみると面白いところでした、須賀川は。白河藩領でありながら、さながら小さな藩のようです。白河藩士も常駐していて敷教舎という藩校の分室までございますが、実質的にあそこを取り仕切っているのは商人なのですよ。己等の手で須賀川の地を守り、栄えさせていくのだという気概に満ちております」
そう述べて、衛守は笑った。そして同地には善蔵の説明したように本当に「二階堂神社」もあり、衛守も参拝してきたという。厳密に言えば、大谷家の祖先である尾張二階堂氏とは鎌倉の頃には血筋が分かれてしまっており、須賀川を治めていたという岩瀬二階堂氏と現在の大谷氏の血縁は、恐らくごく薄いものだろう。それでも衛守は「二階堂様の末裔」として、街の者らから丁重に扱われたらしい。
そして、これだけ武士がぴりぴりと尊皇攘夷の動きに気を張っているにも関わらず、町人等は商いに励みつつ俳諧を嗜み、季節の風流を楽しむ文化があるというのだ。尊皇攘夷についてあれこれと論じる者は、衛守の逗留中は見かけなかった。そのような気風のためか、外から余所者が来て滞留しても快く迎え入れる。
「だからですかね。守山藩士の姿も見かけましたし、長沼藩の者も来ているようです」
「長沼藩というと……府中藩の長沼陣屋のことか」
水山の呟きに、衛守は肯いた。
「或いは水戸本家の対応について、御連枝の者同士で、情報を交換しているのかもしれませんが」
そう述べると、衛守はちらりと鳴海に視線をやった。
「ふむ……」
鳴海は、箸を止めた。長沼藩というのは通称であるが、そちらも二本松藩の郡山組と領地が接している地域である。だが、その西の先にあるのは大藩である会津藩だ。会津に任せる方が無難だろう。
「そうそう。こんなものが守山で出回っているようです」
すっかりぬるくなった茶の入った茶碗を脇に寄せて、衛守は懐から書状を取り出した。鳴海がぱらりと広げてみると、どうやら何かの御達文のようである。
抑臣子たる事寸刻も忘れ間敷事ハ忠孝之道ニ而心得之事ニハ候得共近来世上之弊風ニ而一藩之中ニも奸黨又者正義派之黨派ヲ唱ヘ隔絶ニ及ヒ殆と絶交同様之輩も有之哉ニ候是則当今之流俗とハ乍申自然忠孝之大道ヲ迷忘致候ニ当り大乱之根元ハ昔より天下国家之治乱興廃も和不和之二つニ依候事ハ面々も心得可有之旨人身之異成事者各面目之如く才敏有り癡鈍あり剛強あり柔弱あり惣而才不才任セ十人十色ニ御座候得共忠孝之目的間違無候ハゝ幾重ニも和融致し倶ニ力ヲ合セ
君之御為ヲ働候義肝要之事ニ候且骨肉之兄弟ニ候ハゝたとへ異論別意ニ候共速而義絶も相成間敷精々異見教諭も可致俗に言ふきたなき指ニ而も切り捨てられぬと申處真の人情ニ候得者深く右之情実隔りよしや不心得之者ニ候共厚く和融懇情ヲ尽し自然心底ヲ改させ忠孝之大道ニ不為背様教諭致候義是則大忠大孝臣子たる者之最第一可心掛事ニ候譬何程重キ石ニ而も大勢力ヲ合候得者手軽く上り向々ニ而力別々ニ致者決而上り不申候是と同じ事ニ候上ヲ真似而下ニ候得者頭支配者不及申古役先役之心得別而肝要ニ候組中厚く和融致し他組之者迠自然風紀為致候儀者抜群之事候得者
上ニも右様之者共ハ厚く頼ニ思召夫々格外之御引立も可有之候然ル上者世間之面目と申子孫迠も美名ヲ伝へ候事ニ候得者呉々深く思念可被致候右之通集穆いたし文武出精一藩一鉄丸の如くなる時者君之御美名高く
幕朝 宗藩之一干城と被為成全忠孝之大道御立被遊天下後世御芳名ヲ輝し候儀ハ臣たるもの之本念此上有間敷事ニ候条幾重ニも憤発稽々ヲ被尽候様可被致候事
右之通被仰出候条支配之面々末々迠不洩様可被御申合候此段申達候 以上
五月十四日 高橋岩太郎
要するに、現在では意見の相違から互いに正義の党派であると主張して、互いに憎み合い交流が隔絶しているが、それこそ国が滅びる元となる。心を一つにして水戸宗藩の尖兵となり、宗藩のために忠孝を尽くすのが大道であるという内容である。
「この高橋岩太郎という御仁……。お主が書き送ってきた、新しく守山藩の御目付役となられた御仁ではないか?」
鳴海の問いに、衛守が肯く。
「高橋殿のお名前になっていますが、役職は三浦平八郎殿と同じでしょう?この内容は、多分三浦平八郎殿の意向も含まれておりますよ」
「なるほどな」
守山でこのような達文が出されたということは、嶽で平八郎が鳴海に残した言葉は間違いなく平八郎の本心だろう。だが、水戸の政情が如何に複雑で不安定であるかを如実に示す、証左の文でもあった。
「この文だが……。御家老方に届け出る方がよかろうな」
水山が、鳴海に視線を向けた。鳴海にも異存はない。
「それでは兄上。私が直接日野様にお届けしてもよろしいでしょうか。兄上もお読みになられたというのは、きちんと申し伝えますので」
衛守が、いやに真剣な眼差しを向けた。
「構わぬが……」
この前から衛守は、何か一物腹に秘めているような気もする。鳴海は、それが気になった。
――久しぶりに夜の寝所でりんと床を共にすると、鳴海は衛守の件を持ち出した。水山や玲子のいる前では、話しづらい。
「俺が御家老方に届ける方が、面倒が少ないのに」
鳴海の愚痴に、りんはひっそりと笑った。
「いよいよ分家するおつもりなのかもしれませんわね、衛守様は」
「分家?」
鳴海は、思わず半身を浮かした。以前にもそのような話が出たことはあったが、鳴海が家を継いだばかりの頃の話であり、第一、鳴海には一言の相談もない。
「志津様や那津様が嫁がれて、今度は衛守様ご自身の番と思われておりますでしょう。ですが、今の御身分のままでは……とお考えになられておるのでは……。鳴海様の陰に隠れることなく、己の力で何かしら藩の為に尽くされたいのではないでしょうか」
りんの、女ならではの視点だった。だが、当たっているような気がする。先日、「番頭として命じて欲しい」と宣言したのは、衛守の一人の男として独立したいという意志の現れなのかもしれなかった。
「上崎家の、アサ殿か……」
鳴海の独り言に、りんが肯いた。
「私も詳しくは存じ上げませんが、お互いに随分と長いこと思われているようですから……。既にお二人の間でこの先について、話し合われているのかもしれません」
「そうか」
番頭の職務で多忙な鳴海と異なり、衛守は家にいる時間が鳴海より長い。自ずと、りんと時間を共有する機会も多いのだろう。それ故りんは鳴海の妻であるにも関わらず、衛守の心の機微まで読んでいるのだった。
「関東の天狗党の件が落ち着くまで、衛守の分家の件については、今しばらく待ってもらいたいのだがな」
鳴海がそう呟くと、りんが身を固くする気配が伝わってきた。
「……戦になりますの?」
「戦支度をしておくようにという命令を、先日日野様から申し伝えられた」
鳴海の言葉に、りんは黙り込んだ。だが、まだ二本松藩が直接命令を下されたわけではない。水戸藩が自力で問題を解決できれば、それに越したことはないだろう。
それでも、どうにも希望的観測は伝えにくかった。代わりに鳴海がりんを抱きしめる両腕に力を入れると、りんもそれに応じて、鳴海の胸に顔を埋めた。
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