120 / 196
第三章 常州騒乱
筑波挙兵(8)
しおりを挟む
「一橋中納言公は、兄上たる黄門公よりもう少し物の見える方かと思うておったがな……。眼鏡違いであったか」
普段は丹波に反発を覚える鳴海も、こればかりは丹波の意見には同感だった。さらにおまけのように、近々幕閣で人事異動が発表されるが、その中には淀藩の稲葉長門守公が京都所司代から老中になり、京都所司代の後任には、会津肥後守の実弟である桑名藩主松平定敬公の名が挙がっていると、丹波は付け加えた。
「帝の横浜鎖港の御心を下野に進軍中だという水府浪士共が耳にすれば、勢いづくのは必定でしょうな」
一学も苦々し気に吐き捨てた。
「――それは如何でござろう、一学殿」
ぽつりと、源太左衛門が呟いた。
「どういうことでござるか、源太左衛門殿」
丹波が膝を叩く手を止めた。
「一橋中納言公の進退を耳にした水府浪士らが勢いづくのは間違いございますまい。ですが、水戸藩執政である武田伊賀守殿や、はたまたそれに準ずるという門閥派の市川殿らが、黙って水府浪士らの動きを見過ごしますかな」
はっと、鳴海も気付いた。源太左衛門の言う通りである。なぜその可能性を失念していたのだろう。
「それに、年末に欧州に派遣したという幕閣らが、未だ海の向こうで鎖港の是非を交渉しておるわけでござろう。その結果を待たずして鎖港に踏み切れば、それこそ外つ国が我が国を蹂躙する格好の口実となる。幕閣も全ての人員がその可能性を失念しているとは、到底思えぬ」
黄山も、その可能性は指摘していたではないか。つまり将軍の決意は固まったが、わずかながらまだ横浜鎖港が引っくり返される可能性はあるのだった。さらに、既に幕府からは「鎮撫」の命令が水戸藩に伝えられている。水府浪士の思惑と幕閣の間に大きな隔たりがあるのは、確実だった。
それで鳴海も、ふと思い出したことがあった。
「今程までの話に比べれば些末ではございますが……。白河藩主が交代したそうでございます」
鳴海の言葉に、丹波も愁眉を開いた。
「阿部正外殿だな。確か亡き井伊掃部助様の元で働いたことのある御仁であったはず」
性格には難のある丹波ではあるが、藩外の人脈についての知見はさすがであった。
「白河藩も、代々老中職を申し付けられる名門でございますからな。或いは……」
四郎兵衛も、深々と肯いた。現在渡欧中の遣欧使節団の持ち帰ってくる交渉の結果、そして幕閣の人事次第で開明派が老中などの要職に就くことがあれば、まだ鎖港の方策が消える可能性が残されているというわけである。
「左様だな」
すっかり落ち着いた丹波が、大きく息をついた。
「守山も、特に目立つ動きは見られぬのであろう?」
「はっ」
鳴海は、丹波に軽く頭を下げた。
「であれば、下野に進軍中という水府浪士らの動き、及び御式台の動きを探るのが第一であるな。御式台については……。拙者が再度江戸に参るか」
どうやら丹波は先日京から戻ってきたばかりにも関わらず、再び江戸に蜻蛉返りするつもりらしかった。二本松は比較的江戸に近い藩とは言え、これだけ江戸と国元を頻々に往来せねばならぬとは、家老職も楽ではない。
「大谷鳴海」
呼び捨てにされてあまりいい気分ではないが、鳴海は黙って丹波に頭を下げた。
「水府浪士の件は、引き続き源太左衛門殿の下知に従って動きを探り、その結果を江戸にも報告せよ。場合によっては、儂が幕閣の方々にも話を通す」
「畏まりまして候」
つまり、鳴海は引き続き水府浪士らについて警戒せよとの意味だった。さらに、鳴海が水府浪士らが日光に向かう可能性を指摘すると、丹波はふむ、と眉根を寄せた。
「日向守様の御身のご安全か……」
他藩の藩主とは言え、日向守公は藩公の弟君である。勝知公が結城水野家の家督を継いで以来、肝心の結城藩に一度も顔を出していないのは、丹波も当然知っているに違いなかった。
「もう日光に入られているだろうから、儂が宇都宮宿を通る際に日光に脚を延ばし、お目通りを願い出てみる。日光のお勤めの帰りにでも領地にお立ち寄り頂き領主としての姿を見せねば、水戸の天狗共や結城藩内に巣食うという天狗党の同志らに御身を狙われ兼ねぬとな」
そう述べると、丹波は口元にちらりと笑みらしきものを浮かべた。上司としては決して好ましい人物とは言い難いが、この藩や藩公への忠義心は、確かに丹波の本心であろう。今回は鳴海も、素直に丹波の方針に従う心積りだった。
普段は丹波に反発を覚える鳴海も、こればかりは丹波の意見には同感だった。さらにおまけのように、近々幕閣で人事異動が発表されるが、その中には淀藩の稲葉長門守公が京都所司代から老中になり、京都所司代の後任には、会津肥後守の実弟である桑名藩主松平定敬公の名が挙がっていると、丹波は付け加えた。
「帝の横浜鎖港の御心を下野に進軍中だという水府浪士共が耳にすれば、勢いづくのは必定でしょうな」
一学も苦々し気に吐き捨てた。
「――それは如何でござろう、一学殿」
ぽつりと、源太左衛門が呟いた。
「どういうことでござるか、源太左衛門殿」
丹波が膝を叩く手を止めた。
「一橋中納言公の進退を耳にした水府浪士らが勢いづくのは間違いございますまい。ですが、水戸藩執政である武田伊賀守殿や、はたまたそれに準ずるという門閥派の市川殿らが、黙って水府浪士らの動きを見過ごしますかな」
はっと、鳴海も気付いた。源太左衛門の言う通りである。なぜその可能性を失念していたのだろう。
「それに、年末に欧州に派遣したという幕閣らが、未だ海の向こうで鎖港の是非を交渉しておるわけでござろう。その結果を待たずして鎖港に踏み切れば、それこそ外つ国が我が国を蹂躙する格好の口実となる。幕閣も全ての人員がその可能性を失念しているとは、到底思えぬ」
黄山も、その可能性は指摘していたではないか。つまり将軍の決意は固まったが、わずかながらまだ横浜鎖港が引っくり返される可能性はあるのだった。さらに、既に幕府からは「鎮撫」の命令が水戸藩に伝えられている。水府浪士の思惑と幕閣の間に大きな隔たりがあるのは、確実だった。
それで鳴海も、ふと思い出したことがあった。
「今程までの話に比べれば些末ではございますが……。白河藩主が交代したそうでございます」
鳴海の言葉に、丹波も愁眉を開いた。
「阿部正外殿だな。確か亡き井伊掃部助様の元で働いたことのある御仁であったはず」
性格には難のある丹波ではあるが、藩外の人脈についての知見はさすがであった。
「白河藩も、代々老中職を申し付けられる名門でございますからな。或いは……」
四郎兵衛も、深々と肯いた。現在渡欧中の遣欧使節団の持ち帰ってくる交渉の結果、そして幕閣の人事次第で開明派が老中などの要職に就くことがあれば、まだ鎖港の方策が消える可能性が残されているというわけである。
「左様だな」
すっかり落ち着いた丹波が、大きく息をついた。
「守山も、特に目立つ動きは見られぬのであろう?」
「はっ」
鳴海は、丹波に軽く頭を下げた。
「であれば、下野に進軍中という水府浪士らの動き、及び御式台の動きを探るのが第一であるな。御式台については……。拙者が再度江戸に参るか」
どうやら丹波は先日京から戻ってきたばかりにも関わらず、再び江戸に蜻蛉返りするつもりらしかった。二本松は比較的江戸に近い藩とは言え、これだけ江戸と国元を頻々に往来せねばならぬとは、家老職も楽ではない。
「大谷鳴海」
呼び捨てにされてあまりいい気分ではないが、鳴海は黙って丹波に頭を下げた。
「水府浪士の件は、引き続き源太左衛門殿の下知に従って動きを探り、その結果を江戸にも報告せよ。場合によっては、儂が幕閣の方々にも話を通す」
「畏まりまして候」
つまり、鳴海は引き続き水府浪士らについて警戒せよとの意味だった。さらに、鳴海が水府浪士らが日光に向かう可能性を指摘すると、丹波はふむ、と眉根を寄せた。
「日向守様の御身のご安全か……」
他藩の藩主とは言え、日向守公は藩公の弟君である。勝知公が結城水野家の家督を継いで以来、肝心の結城藩に一度も顔を出していないのは、丹波も当然知っているに違いなかった。
「もう日光に入られているだろうから、儂が宇都宮宿を通る際に日光に脚を延ばし、お目通りを願い出てみる。日光のお勤めの帰りにでも領地にお立ち寄り頂き領主としての姿を見せねば、水戸の天狗共や結城藩内に巣食うという天狗党の同志らに御身を狙われ兼ねぬとな」
そう述べると、丹波は口元にちらりと笑みらしきものを浮かべた。上司としては決して好ましい人物とは言い難いが、この藩や藩公への忠義心は、確かに丹波の本心であろう。今回は鳴海も、素直に丹波の方針に従う心積りだった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説


どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる