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第三章 常州騒乱
筑波挙兵(1)
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二月二十日、ようやく京都警衛組が帰藩した。鳴海も暖かな日差しに包まれた千人溜の最前列で、一行を出迎えた。ふと顔を上げると、偶然十右衛門と目が合った。目元だけで笑うと、十右衛門の口元も心持ち緩んだ。
その後ろには、与兵衛の姿が馬上にある。さらにはその後ろを月毛に跨った掃部助、黒鹿毛の丹波、そして佐目毛の馬に跨った長国公が続いた。
「この度はご一同無事のお戻りにて、誠に祝着至極でございまする」
留守組一同を代表して、源太左衛門が柔らかな声で祝辞を述べた。
「大儀であった。国元の皆に変わりはないか」
長国公の声が、耳に心地良い。それなのに、源太左衛門が公に返答しようとする前に、しゃしゃり出た者がいた。
「日野殿。大書院にて、皆は揃っておろうな」
「丹波殿も、ご無事のお戻りで何よりでございます」
丹波の無礼にむっとした様子も見せず、大人の対応をする源太左衛門の振る舞いは、さすがであった。これが公から声を頂いたのが鳴海であったら、丹波に渋面を向けて舌打ちの一つでも漏れたところだろう。だが、長国公の視線はどこか心あらずで、最前列の中を泳いだままである。
「ところで樽井は、如何いたした」
公の問いに、鳴海は隣に控えていた種橋と顔を見合わせた。数日前から家老である樽井倫安が臥せっているというのは、息子である弥五左衛門によって届けが出されていたが、事が事であるゆえに口にはしづらかったのである。
「何分不快の様にて御殿に御目通りが叶いませぬことを、父に代わりましてお詫び申し上げます」
背後の列から弥五左衛門の声が聞こえた。確かに、このところ樽井は顔色が悪かったと、鳴海も感じていた。
「そうか……。我々も無事に戻ってきたのだ。ゆるりと養生するよう、父君に申し伝えよ」
「ははっ」
弥五左衛門が、頭を下げる気配が伝わってきた。
公を始め、上役それぞれの口取り役が厩舎に馬を引いていく。その姿が箕輪門の内側に消えると、鳴海らも箕輪門を潜って三の丸に足を向けた。
大書院には、既に宴の膳が用意されていた。鳴海も家老等に続く上席の位置に座る。鳴海の左隣は、与兵衛の席だった。
役目としては鳴海も既に与兵衛と同格なのだが、やはり鳴海にとって与兵衛は「師範」とも言うべき存在である。左隣の席が埋まっているのは、どことなく安心感があった。
「与兵衛様も、道中ご無事で何よりでございました」
鳴海は、徳利から与兵衛の盃に酒を注いだ。
「お主も番頭着任早々に、色々と動き回っていたようではないか」
どこかからかうような笑みを滲ませながら、与兵衛は鳴海に返杯した。
「志摩から、ですか」
「一応あれでも我が家の惣領であるからな。家の事、藩の事を細々と十日に一度は書き送って寄越していた」
十日に一度も手紙を書くとは、かなりの筆まめである。藩の伝令役並の筆まめさだった。この様子では志摩は右門のはかばかしくない秋の学館の成績も、しっかり与兵衛に告げ口したに違いない。思わず、苦笑がこぼれた。
そこへ、当の志摩がやってきた。
「父上、お帰りなさいませ」
志摩の声は、弾んでいた。出陣ではなかったにせよ、与兵衛が長らく家を空けていた分だけ、大谷本家の主の代理として気を張っていたのだろう。鳴海は、ひっそりと笑みを浮かべた。
「志摩、少し落ち着かぬか。全くいい歳をしおって」
叱責する与兵衛も、本気で志摩を叱っている風ではない。与兵衛も国元へ戻ってきた安堵感で、今は寛ぎたい気配が感じられた。
ふと、与兵衛の視線が鳴海の腰のところで止まった。思わず、ひやりとする。目敏い与兵衛のことだ。鳴海の差料が今までと違うのに気付いたに違いない。
「そう言えば、那津殿が先日三春に嫁がれたそうだな」
何食わぬ顔で、与兵衛が再び鳴海の盃に酒を注いだ。鳴海も、素知らぬ顔をしてそれを受ける。
「那津は幼い頃より与兵衛様に可愛がって頂きましたのに、嫁入り前にご挨拶させられなかったのは心残りでした」
鳴海の言葉に、与兵衛が笑い返した。
「彦十郎家の当主たる鳴海殿が決めたことだ、是非もあるまい。強いて言えば、京から嫁入り道具として京雛でも買ってくれば良かったかな」
その言葉に、鳴海はかくかく云々と、針道の宗形善蔵の仲人で縁談がまとまったことを説明した。さすがに講のことは打ち明けられなかったが、本家からは志摩が与兵衛の代理として婚礼の宴に出席してくれたのである。報告を兼ねて、与兵衛にも縁談の成り行きを話すのは当然であった。
「宗形殿か……」
与兵衛の顔にも、微妙な表情が浮かんでいる。だが、それについて咎め立てるようなことは口にしなかった。
「……ま、気骨のある御方ではあるからな。知り合っておいて損はあるまい」
その口ぶりからは、是とも非とも判断が付き兼ねた。
ふと首を巡らせると、皆からやや離れた席において、十右衛門が沈鬱な表情で手酌を汲んでいる。鳴海は与兵衛に会釈をすると盃を手にして、自席を立って下座にいる十右衛門のところへ足を運んだ。
その後ろには、与兵衛の姿が馬上にある。さらにはその後ろを月毛に跨った掃部助、黒鹿毛の丹波、そして佐目毛の馬に跨った長国公が続いた。
「この度はご一同無事のお戻りにて、誠に祝着至極でございまする」
留守組一同を代表して、源太左衛門が柔らかな声で祝辞を述べた。
「大儀であった。国元の皆に変わりはないか」
長国公の声が、耳に心地良い。それなのに、源太左衛門が公に返答しようとする前に、しゃしゃり出た者がいた。
「日野殿。大書院にて、皆は揃っておろうな」
「丹波殿も、ご無事のお戻りで何よりでございます」
丹波の無礼にむっとした様子も見せず、大人の対応をする源太左衛門の振る舞いは、さすがであった。これが公から声を頂いたのが鳴海であったら、丹波に渋面を向けて舌打ちの一つでも漏れたところだろう。だが、長国公の視線はどこか心あらずで、最前列の中を泳いだままである。
「ところで樽井は、如何いたした」
公の問いに、鳴海は隣に控えていた種橋と顔を見合わせた。数日前から家老である樽井倫安が臥せっているというのは、息子である弥五左衛門によって届けが出されていたが、事が事であるゆえに口にはしづらかったのである。
「何分不快の様にて御殿に御目通りが叶いませぬことを、父に代わりましてお詫び申し上げます」
背後の列から弥五左衛門の声が聞こえた。確かに、このところ樽井は顔色が悪かったと、鳴海も感じていた。
「そうか……。我々も無事に戻ってきたのだ。ゆるりと養生するよう、父君に申し伝えよ」
「ははっ」
弥五左衛門が、頭を下げる気配が伝わってきた。
公を始め、上役それぞれの口取り役が厩舎に馬を引いていく。その姿が箕輪門の内側に消えると、鳴海らも箕輪門を潜って三の丸に足を向けた。
大書院には、既に宴の膳が用意されていた。鳴海も家老等に続く上席の位置に座る。鳴海の左隣は、与兵衛の席だった。
役目としては鳴海も既に与兵衛と同格なのだが、やはり鳴海にとって与兵衛は「師範」とも言うべき存在である。左隣の席が埋まっているのは、どことなく安心感があった。
「与兵衛様も、道中ご無事で何よりでございました」
鳴海は、徳利から与兵衛の盃に酒を注いだ。
「お主も番頭着任早々に、色々と動き回っていたようではないか」
どこかからかうような笑みを滲ませながら、与兵衛は鳴海に返杯した。
「志摩から、ですか」
「一応あれでも我が家の惣領であるからな。家の事、藩の事を細々と十日に一度は書き送って寄越していた」
十日に一度も手紙を書くとは、かなりの筆まめである。藩の伝令役並の筆まめさだった。この様子では志摩は右門のはかばかしくない秋の学館の成績も、しっかり与兵衛に告げ口したに違いない。思わず、苦笑がこぼれた。
そこへ、当の志摩がやってきた。
「父上、お帰りなさいませ」
志摩の声は、弾んでいた。出陣ではなかったにせよ、与兵衛が長らく家を空けていた分だけ、大谷本家の主の代理として気を張っていたのだろう。鳴海は、ひっそりと笑みを浮かべた。
「志摩、少し落ち着かぬか。全くいい歳をしおって」
叱責する与兵衛も、本気で志摩を叱っている風ではない。与兵衛も国元へ戻ってきた安堵感で、今は寛ぎたい気配が感じられた。
ふと、与兵衛の視線が鳴海の腰のところで止まった。思わず、ひやりとする。目敏い与兵衛のことだ。鳴海の差料が今までと違うのに気付いたに違いない。
「そう言えば、那津殿が先日三春に嫁がれたそうだな」
何食わぬ顔で、与兵衛が再び鳴海の盃に酒を注いだ。鳴海も、素知らぬ顔をしてそれを受ける。
「那津は幼い頃より与兵衛様に可愛がって頂きましたのに、嫁入り前にご挨拶させられなかったのは心残りでした」
鳴海の言葉に、与兵衛が笑い返した。
「彦十郎家の当主たる鳴海殿が決めたことだ、是非もあるまい。強いて言えば、京から嫁入り道具として京雛でも買ってくれば良かったかな」
その言葉に、鳴海はかくかく云々と、針道の宗形善蔵の仲人で縁談がまとまったことを説明した。さすがに講のことは打ち明けられなかったが、本家からは志摩が与兵衛の代理として婚礼の宴に出席してくれたのである。報告を兼ねて、与兵衛にも縁談の成り行きを話すのは当然であった。
「宗形殿か……」
与兵衛の顔にも、微妙な表情が浮かんでいる。だが、それについて咎め立てるようなことは口にしなかった。
「……ま、気骨のある御方ではあるからな。知り合っておいて損はあるまい」
その口ぶりからは、是とも非とも判断が付き兼ねた。
ふと首を巡らせると、皆からやや離れた席において、十右衛門が沈鬱な表情で手酌を汲んでいる。鳴海は与兵衛に会釈をすると盃を手にして、自席を立って下座にいる十右衛門のところへ足を運んだ。
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