鬼と天狗

篠川翠

文字の大きさ
上 下
110 / 196
第三章 常州騒乱

嶽の出湯(3)

しおりを挟む
 藤乃家は温泉神社からすぐのところにあった。事の発端となった守山の三本木鎗三郎が嬉々として旅籠の主に「藤乃家の庭先を借りて野試合をする」と伝えているのを、平八郎は苦虫を噛み潰したような顔で眺めていた。
「鳴海様。本当に宜しいのですか?」
 数歩先に立っている平八郎の耳に届かないくらいの小声で、政之進が鳴海に尋ねた。鳴海も小声で返す。
「あそこにおられるのは、三浦平八郎殿だ。この機を逃す手はあるまい」
「あれが……」
 五番組の面々は、かつて郡山で三浦平八郎に翻弄された過去がある。その話は、政之進の耳にも入っていたのだろう。軽く肯いてみせた。
「平八郎殿から、水戸の動きを聞き出すおつもりですな」
「左様。権太左衛門にはできるだけ試合を長く引き伸ばすよう、伝えてくれ」
 二人が話しているのが気になったのか、平八郎がちらりとこちらを見た。一方鳴海は何食わぬ顔をして、平八郎に歩み寄った。
「宿の者に話はついたようですな」
 張り切って背後で襷をかけている権太左衛門を尻目に、鳴海は平八郎に笑ってみせた。
「――鳴海殿とも一年ぶりでござるか。あれから早々と御番頭に出世とは、まことに目出度い限りですな」
 部下の手前もあったのか、平八郎はようやくいつもの胡乱な笑みを浮かべてみせた。が、相変わらず目は笑っていないし、影がある。この様子だと、どうも部下らの思惑と平八郎の腹の中は、異なっているのかもしれない。その事自体、鳴海には不審に思われた。
 庭先で、権太左衛門が守山藩の者から借り受けた稽古用の槍を構えている。一人目の球三郎は難なく破り、今は二人目の小林権蔵と向かい合っているところである。権太左衛門は鋭く相手を睨みつけているが、まだ踏み込むまでは至っていなかった。
 宿の者が気を利かせて、盆に嶽温泉名物の饅頭と大ぶりの湯呑みを運んできた。「馳走になる」と鳴海が宿の者に軽く頭を下げると、仕方なさそうに平八郎もそれに倣う。本音では、鳴海と共に茶を飲むなど嫌でたまらないのだろう。
 さて、どこから切り出したものか。
「守山には、近々水戸本家より二十二麿君がご養子に参られるそうですな」
 とりあえず、鳴海は当たり障りのなさそうなところから探ってみることにした。その言葉に、平八郎も頬を緩ませる。
「烈公の末の御曹司でございますが……。水戸本家から聞いたところによると、心身もお健やかな御方とのことで、我ら守山の一同も御目見得を待ちきれませぬ。守山は本家同様に在府を命じられている故、殿が下向されてきた例はかつてございませんでしたからな。その支度で大童でございまする」
 既に二十二麿君のことを「若殿」とお呼びするようにとのお達しが守山にも届けられており、来月の御下向の折には、藩士一同が上下着用で出迎えよとの命令が本家から伝えられているのだと言って、平八郎は笑った。穏やかに談笑する平八郎を見るのは、鳴海も初めてである。今までは敵方と見做してばかりいたが、いつぞや郡山で見せた領民を心配する姿は、案外この男の素なのかもしれなかった。
「ですが、ご多忙だという割には、嶽に参る余裕がおありなのですな」
 皮肉めいた鳴海の言葉に、平八郎の笑顔が消えた。
「二本松の地方の方にも申し上げたように、あの者らが『当地で武術の修行に励みたい』と言って聞かぬのでな……。今日も、帰藩を促すために守山から馬を飛ばして参った次第でござる」
 鳴海は、湯呑みの中に視線を落とした。平八郎の言葉が正しいとすれば、眼の前で権太左衛門と槍を交えているあの者らは、上役の制止を振り切って半ば強引に嶽に来ていることになる。事前に羽木らから聞いていた情報と照らし合わせても、平八郎の言葉に偽りはなさそうであった。
「水府の情勢も落ち着かぬ故、守山でも有事に備えて武勇に磨きをかけようというわけでございますか」
 さらに重ねられた鳴海の皮肉に、平八郎は肩を竦めた。
「攘夷が悪いとは、それがしは思うておりませぬ。ただし、臣民を虐げてまで攘夷を実現するべきかとなると、話は別でござろう」
 その口ぶりからすると、平八郎は必ずしも水戸の天狗共の現況に納得していないのであろう。意外な話の成り行きに、鳴海も困惑を隠せない。
「――鳴海殿は、かつて申されましたな。『まことに民のためを思うならば、守山の本気を見せてもらいたい』と。あれは、なかなかの名文句であった」
 平八郎が、小さく笑った。それは、かつて鳴海が守山藩の越訴騒動に関わったときに、平八郎に投げかけた言葉であった。鳴海とすれば平八郎への牽制の意味に過ぎなかったのだが、平八郎にとってはまた別の意味を持ち続けていたということか。
「して、あの者らは黄門公のお供をして、京で多くの者と交わってきたのでござろう?」
 鳴海は、単刀直入に切り出した。つまり、「平八郎はかつての約束を違えて尊攘派の志士らを扇動し、再び二本松へ手出ししようとしているのではないか」ということである。だが、平八郎は首を振った。
「あの者らが、京であれほど過激な考えに染まって戻ってきたのは、予想外であった。それは、水戸本家の伊賀守様も同じであろう」
 束の間、沈黙が流れた。平八郎は、必ずしも目の前の者らの考えに賛同しているわけではない。かつて二本松の和左衛門や権太夫らに尊攘思想を吹き込み、あれこれと画策していた男の言葉とは到底思えなかった。
「尊攘派の御方の言葉を、それがしが安易に信じるとお思いか?」
 鳴海は、片頬を上げた。だが口先とは裏腹に、今までに見たことのなかった平八郎の言動に、動揺を隠せない己がいる。
「信じられずとも良い。いずれにせよ、鳴海殿は当世の流れ如何に関わらず、己が信念に従って藩政を導かれるおつもりであろう?」
 そう述べる平八郎の口元には、わずかに苦笑らしきものが浮かんでいた。だが、今までのような皮肉な笑みではない。どこか鳴海に対する信頼を匂わせるような、複雑な笑みであった。思わず、その笑みから視線を逸らす。
「――番頭が己の信念も持たずふらついているようでは、民を救うことなど出来ぬ」
 鳴海の独り言に、平八郎はふっと息を漏らした。
「鳴海殿にとって、民とは領内に住むありとあらゆる者を含むのですな」
 鳴海はそれに答えなかった。鳴海にとって当たり前のことでも、それは必ずしも尊攘派の面々にとって当たり前ではない。水府浪士らは金を生み出す大商人を嫌い、その商いを妨げることこそが己が正義だと信じて止まない。
「思想というものは、恐ろしゅうござる。己にとっては正しき義であっても、必ずしもそれが他の者にとって義とは限らぬ。その義を真と信じておる者らに力や勢いが加わった場合は、どのような結果を招くか想像もつかぬ」
 平八郎は、迷いを隠しきれないかのように独白を続けた。長い間守山の藩政に携わってきたために、平八郎は水戸藩執政である武田伊賀守とも縁が深く、その薫陶を受ける機会も多かった。武田はかつて水戸烈公の改革派の寵臣として本家の藩政の一端を担ってきたが、反面、門閥派と反目しあうことも少なくなかった。当人は至極温厚な人柄だが、それ故本人の意志に関わらず多くの者が彼を慕って集まり、自然、改革派の頭目と祀り上げられるようになった。武田自身は国力の充実を待たずに急激な攘夷を実行しようとする激派のやり方を、必ずしも快く思ってはいない。だが、己らの行動こそを正義と信じて止まない激派は、このままでは却って水戸のわざわいの火種となりかねない。彼らの行動如何によっては、水戸藩のお取り潰しという最悪の事態さえあり得る――。
「だからこそ水府の武田伊賀守殿は、己が責任を取るために、潮来に鎮台を設けようとされておられるのか」
 平八郎の長い告白の後に、ようやく鳴海は口を挟んだ。その言葉に、平八郎が眉を上げた。
「よくご存知であるな。さすが番頭の御仁でござる」
 微かに言葉に棘が込められているような気もしたが、鳴海はその棘を無視した。
「……ですが、我らには一言の相談もござらなかった。長らく辛苦を共にしてきた、我等にもな」
 そう述べる平八郎の横顔は、寂しげですらあった。すると、黄山が「両刃の剣になるかもしれない」と評した潮来鎮台の件は、武田伊賀守の独断だったということか。だが、平八郎はあくまでも他藩の人間であり、油断のならない相手である。黄山の推測をそのまま眼の前の相手に伝えるわけにはいかなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

処理中です...