鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

嶽の出湯(1)

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 ――半刻後、鳴海は権太左衛門や政之進と共に、馬首を嶽温泉の方へ向けた。
「鳴海様。守山の者らが嶽に来ているというのは、まことでございましょうか」
 権太左衛門が、気遣わしげに鳴海の横に馬を並べた。竹ノ内擬戦の頃は「鳴海殿」呼びだったのだが、鳴海が正式に番頭に就任したこともあり、今ではすっかり上司扱いである。
「新十郎殿曰く、気になると。守山から嶽はその気になれば日帰りできる距離にも関わらず、強いて長期滞在を願い出ているというのも、不審であるしな」
 鳴海は、眉根を寄せた。
「では、不審者として城下へ引っ立てても宜しいでしょうか」
 息巻く権太左衛門に、鳴海は苦笑した。
「そう急くな。まずは番所におる湯守にでも、事情を訊くべきであろうに」
 十文字嶽温泉は、古くから名湯として栄えてきた出湯である。元は陽日ゆいの湯と呼ばれていたが、文政七年(1824年)、連日続いた雨と台風のために安達太良あだたら連峰の一つである鉄山くろがねやまの一角が崩壊し、その土石流が温泉街を飲み込んだ。俗に言う「嶽山だけやま崩れ」である。その惨状は「死骸は土中に埋まり屍湯気にただれたるみ候を引き上げ数日間置候処面影常に替り見分け難くほくろあざ等をしるべにようやく見分けられ候」というほど、ひどい有り様だったらしい。だが、二本松藩では五千両もの公金を投入して温泉街をわずか一年余りで復旧させた。それが、今向かおうとしている十文字嶽温泉である。とても甚大な被害を受けたとは思えないほどの歓楽街で、今では十四軒もの宿と三つの外湯、そして茶屋や商人、工人らが住む街として賑わっているのだった。その名は奥州随一の名湯として各地に聞こえており、遠くは水戸からも湯治客がやってくるほどだった。
 二本松城下からは気軽に足を運べる行楽地でもあり、また、温泉地の高台には藩公の為の別邸や温泉神社がある。元湯は安達太良山中から湧き出ているが、その湯は三里半もの長さに及ぶ、赤松をくり抜かれて造られた木樋の中を通ってくる。湯が温泉街に届く頃には程良い湯加減となっており、また、元湯ではぴりぴりと肌を刺す湯も、木樋を流れて空気に触れてくる内に肌触りがまろやかになっているのだった。ちなみに、これだけの大掛かりな設計を行ったのは、当代随一と評された算学者の渡辺東嶽とうがくである。名字こそ異なるが、鳴海が先日学館で目に止めた木村銃太郎の曽祖父だ。
 やがて、三人の鼻腔を硫黄の匂いがくすぐり始めた。仕事でなければ、このまま一風呂浴びていきたくなるような、長閑な空気である。
「あの権太夫も、これくらいの仕事を手掛けてくれれば良いのですがな」
 政之進が笑った。嶽の早急な復旧の陣頭指揮を取ったのは、後に名郡代と評された三浦義類である。権太夫の祖父であり十右衛門の父でもあった。
「三浦の一族でも、権太夫は異色なのだろう。十右衛門殿も、何のかんのと京の情勢をつぶさに書き送ってくれたしな。三浦一族は、元来民を思う優秀な一門であろう」
 鳴海は、政之進に笑い返した。権太左衛門も肯く。
「権太夫の弓の腕が優れておるのも、確かですから。叶うならば、戦場に立たせてその腕前を見物してみたいものです」
 遥かに年の離れた弟の前ですら、いいところを見せようとした権太夫のことである。本気で敵の前に立ったならば、嬉々としてその腕を皆に披露するに違いなかった。現在は近所の藩の御子らに読み書きを教えて三浦家の生計の一助としているらしいが、丹波をあれだけ怒らせたのだ。当分謹慎が許されることはないだろう。それを思うと、鳴海はそっとため息をこぼした。
 細々とした道がやや広くなり、前方に「鏡ヶ池」と呼ばれる池が見えてきた。そこから左手に折れると、太い樋が街の中心街を貫いている。一際硫黄の匂いが強くなり、馬が鼻を鳴らした。その首筋を軽く叩いて硫黄の匂いを嫌がる愛馬を宥め、湯樋に沿って坂道を上っていく。この坂の天辺には、温泉神社や御殿、そして湯治客を監視する番所があるのだった。
 鳴海は馬から下り、番所の一角の杉の木に手綱を結びつけて中の様子を伺った。そこでは、湯守と思しき男が湯女ゆなをからかって戯れていた。湯女は湯守にしなだれかかっており、それまで二人だけの世界に浸っていたのは、一目瞭然である。
「何をしている。お主も職務中ではないのか」
 怖い声色の鳴海の叱責に、湯守は首を竦めた。
「別に仕事を怠けていたわけではございませぬよ。ここからであれば、この十文字嶽の街並みは手に取るように分かります」
 そう言うと、湯守は番所の縁側に腰を下ろした鳴海に遠眼鏡を渡した。鳴海はすっと目を細めたが、好奇心の強い権太左衛門は、「どれどれ」と鳴海の手から遠眼鏡を奪い取り、それを手にして番所の庭先に出て行き、眼下の街並みを見下ろしている。
「へえ……。便利なものですな、これは」
 権太左衛門は、どうやら初めて遠眼鏡を手にしたようである。
「へへっ。御家老である丹波様から下賜されました」
 湯守が、得意げに鼻の下を擦った。遠眼鏡とは、新しい物好きの丹波らしい趣味である。確かに見張りには適した小物だろうが、その心配りをもう少し藩士らにも向けてほしい。
「鳴海様、鳴海様。これを使えば、下の外湯の様子までくっきりと見えます」
 子供のように燥ぐ権太左衛門に、鳴海は苦笑した。
「女湯は覗くでないぞ」
「そのような不埒な真似をするわけがないでしょう」
 権太左衛門が口を尖らせた。もっとも、鳴海の女嫌いの性分は五番組の間では広く知られており、鳴海も本気で権太左衛門をたしなめたわけではない。立場上、念の為に釘を刺しただけである。ところで、と鳴海は改めて湯守に向き合った。
「守山藩士らが逗留しているとはまことか?」
 湯守もすっと真面目な顔を作り、深々と肯く。
「まことでございます。なあ、おてい」
 湯守にしなだれかかっていた湯女も、身を起こしてこくりと肯く。
「どうも、藤乃家に泊まっているようですよ。そこからよく中の湯に通っていると、お梅ちゃんが申しておりました。あたしも中の湯に呼ばれて、守山の御侍様の背を流しましたし。あんな大きな腫れ物が出来ているのに人に背中を流させて、その度に痛がっているんですよ。毎回文句を言われるので、もう少し背中流しのお代を上げようかと思案していたところです」
 おていは、顔を顰めた。すると、守山藩士が治療に来ているというのは本当だったのか。
「ですがね、御頭おかしら様。本当に湯治に参っているのは一人だけだと思います」
「何の根拠があって、そのように思案致した?」
 政之進が鳴海に代わり、問い質した。
「お梅ちゃんが文句を言っていました。あの背中に腫れ物の出来た球三郎という百姓っぽい御侍様を迎えに来たとかで、もう少し上役の方々もいらっしゃっているのですけれど。上役の方々はお梅ちゃんらを呼ぶわけでもないですし、たまに外湯に行くものの、どちらかと言えば日がな武芸稽古に励んでいると。飯の時以外呼ばれないので、商売にならないそうです」
 おていの話からすると、お梅というのは藤乃家づきの飯盛女だろう。もちろんただ飯をよそうだけではなく、夜になれば男たちの相手もするのだが、それに呼ばれないのでは、飯盛女の商売は上がったりに違いなかった。
 鳴海は、両腕を組んで考え込んだ。確かに、温泉地に来て湯にも行かず女も呼ばず、武芸稽古に精を出しているというのは妙な話である。

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