鬼と天狗

篠川翠

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第二章 尊攘の波濤

虎落笛(6)

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「万が一、藤田小四郎とやらの勢いに武田殿が引きずられるようなことがあれば、厄介なことになるな」
 源太左衛門の声に、憂いが混じる。その様子を見た岡は、小首を傾げた。
「今のところ、それはないかと存じまする。漏れ聞いたところによりますと、武田殿は幕閣の伝手を利用し、水府之徒を一堂に集めて鎮撫するおつもりとの由」
「そのような事が可能なのか?」
 鳴海は、怪訝に思った。尊攘過激派の動きは、幕府ですら手を焼いているのである。西では八月に天誅組の変があったばかりであり、それと前後するかのように、生野いくのでも代官所が襲われたとの話が、京からの定期便でもたらされていた。
「水戸は、我々よりも幕閣へのつながりが深いですからな。水戸藩執政職ほどの者であれば、案外日頃より老中とも親密なのかもしれませぬ」
 岡の皮肉に、源太左衛門はちらりと苦笑しただけであった。これが丹波だったならば、たちまち機嫌を損ねていたであろう。
「如何致しますかな、日野殿」
 樽井倫安が、じっと源太左衛門を見つめた。
「関東各地で情勢不穏とあらば、いつ、その火の粉がこちらへ飛んできても不思議ではございますまい」
 源太左衛門はそう告げると、ちらりと鳴海に視線を投げかけた。
「とりわけ守山の動静については、先日、鳴海殿に一任致した。各方、しかと心得られよ」
 短い返答が、あちこちで響く。鳴海も、一同に向かって軽く頭を下げた。
 定例が終わると、三々五々に人々が動き始める中、和左衛門が鳴海に近寄ってきた。
「鳴海殿。今ほどの源太左衛門様のお言葉、まことでござるか」
 喧嘩を売りに来たのか。そう思ったが、さすがに番頭と郡代が言い争うのは、互いの立場上不味い。鳴海は無理やり穏やかな作り笑いを浮かべた。近頃、このような小芝居を演じることも、慣れつつある。嫌な習慣が身についたものだとは思うが。
「真でございます。何かご不審でしたでしょうか」
「いや……」
 和左衛門は明らかに不満げなのだが、さすがの和左衛門も、番頭に面と向かって痛罵するのは憚られるようである。だが、少し向こうの方では、退席しようとしていた新十郎が心配そうにその場にとどまっているのが見えていた。
「我々が守るべきものは殿への忠義もさることながら、民らの平穏な暮らしでございましょう。違いますかな」
 鳴海は、きっぱりと告げた。暗に、「これ以上守山の者との接触で、藩政を乱すな」という意を込めたつもりである。
 和左衛門が、視線を伏せた。鳴海も、強いてそのまま和左衛門の言葉の続きを待った。やがて――。
「さすが、早々と番頭にご出世遊ばされるだけのことはございますな。殊勝なお心掛け、この老臣も見習いたく存じまする」
 本心なのか、皮肉なのか。鳴海がその意図を計りかねている間に、「失礼」と和左衛門は背を向けて行ってしまった。
「――肝を冷やしましたぞ、鳴海殿」
 肩を叩かれて振り向くと、そこには苦笑を浮かべた新十郎がいた。
「我が父が、失礼を申し上げました」
「何の。お気になさらず」
 鳴海は、小さく笑った。立場は今では鳴海の方が上になったが、番頭としての役割を演じ続けるのも、それはそれで肩が凝るのだ。
「鳴海殿が民政に暗い御方であれば、父もあれこれ言えるのでしょうが……。まことに、鳴海殿は武官の御方にも関わらず、時折民政にもご関心を示されておるのを父も存じております。それ故、我が父も鳴海殿の正論に反論できないのでしょう」
 鳴海は、小さくため息をついた。
「武士と言えども、民らの生業に支えられて生きております。それが見えなければ、いずれ信を失いましょう」
 近頃は、戒石銘の重みを噛みしめることも多い。直接平民から税を徴収し、時には慰撫する役割を担う地方の者であれば、尚更だろう。
「――先程の守山の件については、拙者からも郡山組の代官所にも伝えておきましょう」
 新十郎の言葉に、鳴海は物思いから我に返った。
「お頼み申す」
 元はと言えば、鳴海が守山藩との因縁が出来た地が郡山である。両藩の境界でもあり、また、商人らが集い情報が飛び交う地でもあった。何か水戸で動きがあれば、守山を通じて探るのが一番手っ取り早いだろう。
「水戸は、やはり油断がなりませぬか」
 新十郎の言葉に、鳴海も肯いた。そして、辺りに人がいないのを確かめ、小声で告げた。
「源太左衛門様のお言葉通りであるならば、水戸の過激派を執政幹部らが抑え込めないことも、想定しておかねばなりますまい」
 新十郎の口元が、引き締められた。
 水戸だけで騒動を鎮圧するのが無理となれば、次は幕命として近隣の藩に出兵が命じられるかもしれない。京都警衛の場合は、幸いにして政変の後に到着したために難を逃れたが、次も幸運が続くとは限らない。鳴海も万が一に備え、戦支度を整えておかねばと思い始めていた。だが、その費用の捻出を考えると頭が痛いのは、さすがに新十郎には打ち明けられなかった。
「この話、義父には黙っておきまする」
 新十郎も、深々と肯いた。
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