鬼と天狗

篠川翠

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第二章 尊攘の波濤

虎落笛(4)

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「帝の御本意があくまでも攘夷にある以上、朝廷側はそれにこだわるであろう。然らば、勤皇の風が強い水戸は黙っておるまい」
「ですが水戸の者等が詰めているはずの本圀寺は、人の気配が少ないと……」
 志摩も困惑の気配を隠せない。
「どう思われる、鳴海殿」
 源太左衛門が、じっとこちらを見つめた。鳴海も水戸の動きの意図は掴みかねるが、やはり、源太左衛門の言うように、「攘夷」を藩是とする水戸がこのまま大人しくしているわけはないと思う。
「幕閣たる一橋中納言公の思惑と水戸藩の思惑は、一旦切り離して考えるべきでしょう」
 鳴海は文末を指した。そこには、松平越前守こと松平春嶽、伊達伊予守こと伊達宗城らが上京すると書き記されている。彼らは、元々開港に賛成だった大名だ。だが、一時は将軍候補とまで目されていた一橋慶喜は、矜持の高い男である。素直にそれらの大名に唯々諾々として従うのも、考え辛いのだ。さりとて、一橋慶喜も鎖港の無理難題は承知している。朝廷側の顔を立てつつ緩やかに諸施策を進めていかねばならない。
「ひょっとすると、何かしらの施策として鎖港へ舵を切るかもしれませぬが……。その際には、『国策であるがため、諸万事抜かりなく行うために外国へ奉行を派遣する』くらいのことは申されるのではございますまいか」
「面妖な……」
 志摩が、呆れたように首を振った。
「これだけ攘夷攘夷と世間で叫ばれているのですよ?そのような悠長なことを申している場合ではございますまい。尊攘派の面々が黙っておりませぬ」
 だが、鳴海が源太左衛門の方に視線を向けると、源太左衛門は微かに口元に笑みを浮かべていた。
「成る程……。時間稼ぎをしつつ、世間にはあくまでも『正当な方法での施策を模索し、皆が望む鎖港に向けての尽力はした』と印象付けるわけでござるか」
「左様。この方法であれば、少なくとも帝の御心念に真っ向から背くことにはなりますまい。洋行となれば、数ヶ月から年単位で時間が掛かるは必定」
 あの不可解な動きを見せる一橋公であれば、これくらいのことは考えつくだろう。鳴海はそう読んだ。
「そうですな……。幕閣とて、性急に鎖港を進めれば諸外国の反発を招き、戦に為りかねないことは承知しておりましょう。それこそ、諸外国に『自国民の保護のため』として侵略の口実を与えかねませぬ」
 大内蔵が、皮肉な声色で述べた。昨年大内蔵が派遣されていた富津から江戸は、目と鼻の先である。万が一の海防の備えは怠らないものの、幕閣が本気で外国と事を構えるつもりがないのは、よく知っているに違いなかった。
「ですが、水戸藩の動きは怪しいわけでしょう?どうするつもりなんです、一橋公や幕府は」
 志摩が、尚も食い下がった。
「水戸藩はそもそも家中の考えが一丸ではなく、幾派にも割れているというではないか。それ故執政らの方針に従わず、己らの心念のみにて独自に動く派閥もあるということだ」
 それが、鳴海の下した結論だった。そう捉えると、いつぞや三浦屋敷で目にした清介と権太夫の意見の相違も、納得できるのである。そもそも、一口に「尊皇攘夷」とまとめても、諸外国と交易を図りつつも国力を上げて諸外国に対抗しようとする派閥と、性急に国を閉ざして国防に努めようとする派閥では、その色合いが大きく異なるわけである。
「左様であるな……。その他に、そもそも亡き烈公の方針を否とする門閥派がいる、か……」
 源太左衛門が、独り言のようにごちた。これも、三浦権太夫が江戸で悶着を起こして問題になった際に、ちらりと出た気がする。
「もしや、いつぞや話に出た『市川殿』がそうでございますか?」
 鳴海が源太左衛門に尋ねると、源太左衛門は苦笑しながら肯いた。
「丹波様は、どのようなわけかお気に召されているが……。水戸家中の中では、必ずしも皆に信頼されているとは言い難い御仁であるな」
 源太左衛門によると、鳴海らが生まれる前の文政十二年に烈公が水戸藩主の座を継ぐに当たって、水戸家中は門閥派と改革派の真っ二つに割れたのだという。その時以来両者は犬猿の仲であるが、今ではさらに改革派も穏健派と急進派に割れているのではないかというのだ。昨年の春にも受けた説明であるが、そのときよりも更に対立は激しさを増しているらしい。
「面倒ですねえ、水戸藩は」
 志摩が天井を仰いだ。
「自藩のいざこざに、他藩を巻き込まないでほしいですな」
 全くだ、と鳴海も思った。だが、その急進派が勢いに乗じて各地で事を荒立てれば、二本松藩も対岸の火事として座視しているわけにはいかないだろう。
「十右衛門が本圀寺の水戸藩士が少ないと書いているのは、元々先に一橋公や黄門公に随身して上京していた者等の多くが、尊攘派だったということでございましょう。だが八月十八日の変事で水府の急進派は長州に見切りをつけ、より同志を募りやすい地元やその近郊へ活動拠点を移しているのではござらぬか」
 鳴海の説明に、源太左衛門はますます眉根を寄せた。さらに、鳴海は先日善蔵から聞いた話を報告した。関東各地で、「水府浪士」らが押し借りを働いているらしいという話である。
「後で公儀の席で皆にも伝えるが……。その話は、岡殿や味岡殿からも同様の報告の文が参っておる」
 源太左衛門は、きっぱりと告げた。すると、善蔵の話は大げさではなかったわけか。
「女性の悋気ではございますまいに」
 大内蔵が、鼻を鳴らした。悋気というのは、現代風に述べればヒステリーということである。だが、鳴海には単なる鬱憤晴らしとは思えなかった。
「金品を各所から強奪しているということは、それらを己共の活動資金に充てて攘夷を成功させようと、目論んでいるのでありましょう。成功するか否かは別として、彼らにしてみれば本気でござるな」
「困った隣人でございますな」
 いつもは軽妙な口ぶりの志摩だが、今日ばかりは冗談に聞こえない。万が一、二本松領内に水府浪士と称する過激派浪が侵入して火付けや押し借りを働くことがあれば、大問題である。
「大谷鳴海殿」
 源太左衛門の改まった声色に、鳴海は背筋を伸ばした。
「内命を下す。守山の動きにも、注意を払っていてほしい。事と次第では、郡代を始めとする地方の者らとの協力を惜しまぬように」
「畏まりまして候」
 志摩がちらりとこちらを見た。守山と水戸は密接な関わりがある。鳴海がまだ詰番の身分だった頃から、鳴海と守山は因縁が深く、その事実は今や多くの藩士に知られていた。だが源太左衛門の内命を受けたことにより、これで堂々と守山と向き合える。源太左衛門の言葉は、万が一荒事が生じた場合には、番頭たる鳴海自身に守山藩関連の陣頭指揮を任せるということである。 
 そう言えば、しばらく守山の動きは聞こえてこない。あの三浦平八郎の手管を思うと、彼もまたこのまま大人しくしているわけはないと思うのだが、相手が目立った動きを見せない以上、今の段階では探りようはなかった。
 今までは成り行きで対峙してきたが、これからは違う。鳴海は深々と息を吸い込んだ。 
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