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第二章 尊攘の波濤
虎落笛(1)
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十一月下旬、鳴海が城での勤めを終えて下城しようとすると、会所の前でばったりと宗形善蔵と鉢合わせた。どうやら針道組の惣代として何かを納めるために、善蔵は城下まで出てきたらしい。
「宗形殿」
鳴海は、軽く右手を上げた。
「これは鳴海殿。この度は番頭のご就任、誠におめでとうございます」
善蔵も、目元を細めている。
「何の。まだまだ先達らには及ばぬがな」
一応謙遜してみたものの、番頭が藩政執行部の一員であることには変わりがない。鳴海の言葉遣いも、さり気なく鷹揚さが滲み出た。
「針道から、何かを納めに参られたのか?」
鳴海の問いに、善蔵が肯いた。
「ぼちぼち蕨漬と追捕雉子の献上の時期でございますからな……。今春は日和の良い日が多かったですから、蕨平の蕨の出来も、上々でございます」
善蔵の言葉に、鳴海は首を捻った。蕨平とは、針道組と隣藩の一つである相馬中村藩との境にある部落の名である。その名の如く蕨の名産地であるはずだが、蕨自体はどこでも採れるものではないかというのが、鳴海の感覚である。
そこへ通りかかったのは、笠間市之進だった。どうやら市之進も、糠沢組の納品の監督に来たらしい。
「針道組の辺りは山が多く、杉田組や安達組のように米が取れませんから……。その代わり、春に採れる蕨を塩漬けにしたものを、幕府へ献上して税としております。秋の雉子も、同じでございますよ。先日糠沢でも組の若衆らに雉子狩を行わせまして、何とか面目を保てました」
二本松藩産の蕨漬や雉子の献上は初冬の風物詩の一つで、その品は幕府から高く評価されているのだという。市之進は雉子狩の指揮を取り、今回は雄雌合わせて拾羽を献上出来たのだそうだ。
「ふうん……」
城下で育った鳴海には、初めて聞くことばかりである。そもそも番頭は武官職であるから、意識的に民政に関わらない限り、細々としたことは分からない制度も多いものだ。
「せっかくですから、鳴海様。会所で献上の品をご覧になっていかれませんか?」
善蔵が、鳴海を誘った。鳴海はちらりと市之進に視線を投げかけた。
「先程中の様子を伺ったところ、本日は新十郎様が算盤を弾いておられました。新十郎様であれば、左程煩いことは申されぬでしょう」
市之進の言葉に、鳴海は小さく苦笑した。郡代見習いである新十郎が細々とした事務作業に携わっているのは想像できるが、民政に小うるさい和左衛門との対話は、鳴海としても出来れば避けたい。
市之進はまだ糠沢組の蔵屋敷での仕事があるとかで、糠沢組の蔵がある蔵場丁の方へ去っていった。
善蔵に誘われるままに鳴海が会所へ上がると、確かに新十郎を中心に、数名の藩士が帳面に何かを書きつけていた。彼らの文机の前には、箱の載った台があった。浅底の箱には青緑色の雄の雉子と、茶色の雌の雉子が綺麗に並べられている。台の正面には、「進上針道村惣代宗形善蔵」という奉書紙が貼り付けられていた。
善蔵が自慢したがるだけのことはあり、どの雉子も丸々と肥えていて、食べごたえがありそうだ。鳴海は、自ずと生唾が湧いてくるのを感じた。
鳴海の視線に気付いたものか、新十郎がふと顔を上げ、軽く頭を下げた。
「ご熱心ですな、鳴海殿」
新十郎の口元には微かに笑みが浮かんでいる。番頭がこの場所に出入りすること自体、物珍しいのだろう。
「宗形殿に勧められてな」
鳴海が言い訳をするように告げると、新十郎の口元はますます笑みを深めた。
「番頭とて民政を知っておくのは、悪いことではございますまい。いずれは鳴海殿も執政職に就かれるかもしれませぬゆえ」
弁の立つ新十郎の言葉であるから、多少は世辞も混じっているかもしれない。だが、悪い気はしなかった。番頭を経て家老に進むのは珍しいことではなく、そしていずれの職も、就けるのは大身の家柄の者に限られるからだ。
「邪魔立てをしましたな。すまぬ」
鳴海がそう告げると、新十郎は目礼して再び手元に視線を落とした。余程忙しいらしい。
「善蔵殿。よろしければこのまま、我が家にお立ち寄り下され」
今度は鳴海が善蔵を誘った。善蔵には、何やかんやと世話になりっぱなしである。それだけではなく、那津の婚礼の打ち合わせも兼ねて、一度きちんと家人らにも紹介するつもりだった。
「よろしいのですか?」
善蔵は口ではそういいながらも、満更でもなさそうだった。
「構わぬ」
鳴海も、気軽に応じた。そのまま一度内大手門の方へ周り込み、一之町の通りに出てから彦十郎家の門扉を潜る。
ただいまと声を掛けると、奥からりんが出てきた。
「お帰りなさいませ、鳴海様」
玄関で両手をついたりんは、善蔵の姿に気づくと再び頭を下げた。善蔵が平民であるのは身なりを見れば一目瞭然だが、誰が相手でも決して奢り偉ぶらないところが、りんの美点である。
「宗形殿」
鳴海は、軽く右手を上げた。
「これは鳴海殿。この度は番頭のご就任、誠におめでとうございます」
善蔵も、目元を細めている。
「何の。まだまだ先達らには及ばぬがな」
一応謙遜してみたものの、番頭が藩政執行部の一員であることには変わりがない。鳴海の言葉遣いも、さり気なく鷹揚さが滲み出た。
「針道から、何かを納めに参られたのか?」
鳴海の問いに、善蔵が肯いた。
「ぼちぼち蕨漬と追捕雉子の献上の時期でございますからな……。今春は日和の良い日が多かったですから、蕨平の蕨の出来も、上々でございます」
善蔵の言葉に、鳴海は首を捻った。蕨平とは、針道組と隣藩の一つである相馬中村藩との境にある部落の名である。その名の如く蕨の名産地であるはずだが、蕨自体はどこでも採れるものではないかというのが、鳴海の感覚である。
そこへ通りかかったのは、笠間市之進だった。どうやら市之進も、糠沢組の納品の監督に来たらしい。
「針道組の辺りは山が多く、杉田組や安達組のように米が取れませんから……。その代わり、春に採れる蕨を塩漬けにしたものを、幕府へ献上して税としております。秋の雉子も、同じでございますよ。先日糠沢でも組の若衆らに雉子狩を行わせまして、何とか面目を保てました」
二本松藩産の蕨漬や雉子の献上は初冬の風物詩の一つで、その品は幕府から高く評価されているのだという。市之進は雉子狩の指揮を取り、今回は雄雌合わせて拾羽を献上出来たのだそうだ。
「ふうん……」
城下で育った鳴海には、初めて聞くことばかりである。そもそも番頭は武官職であるから、意識的に民政に関わらない限り、細々としたことは分からない制度も多いものだ。
「せっかくですから、鳴海様。会所で献上の品をご覧になっていかれませんか?」
善蔵が、鳴海を誘った。鳴海はちらりと市之進に視線を投げかけた。
「先程中の様子を伺ったところ、本日は新十郎様が算盤を弾いておられました。新十郎様であれば、左程煩いことは申されぬでしょう」
市之進の言葉に、鳴海は小さく苦笑した。郡代見習いである新十郎が細々とした事務作業に携わっているのは想像できるが、民政に小うるさい和左衛門との対話は、鳴海としても出来れば避けたい。
市之進はまだ糠沢組の蔵屋敷での仕事があるとかで、糠沢組の蔵がある蔵場丁の方へ去っていった。
善蔵に誘われるままに鳴海が会所へ上がると、確かに新十郎を中心に、数名の藩士が帳面に何かを書きつけていた。彼らの文机の前には、箱の載った台があった。浅底の箱には青緑色の雄の雉子と、茶色の雌の雉子が綺麗に並べられている。台の正面には、「進上針道村惣代宗形善蔵」という奉書紙が貼り付けられていた。
善蔵が自慢したがるだけのことはあり、どの雉子も丸々と肥えていて、食べごたえがありそうだ。鳴海は、自ずと生唾が湧いてくるのを感じた。
鳴海の視線に気付いたものか、新十郎がふと顔を上げ、軽く頭を下げた。
「ご熱心ですな、鳴海殿」
新十郎の口元には微かに笑みが浮かんでいる。番頭がこの場所に出入りすること自体、物珍しいのだろう。
「宗形殿に勧められてな」
鳴海が言い訳をするように告げると、新十郎の口元はますます笑みを深めた。
「番頭とて民政を知っておくのは、悪いことではございますまい。いずれは鳴海殿も執政職に就かれるかもしれませぬゆえ」
弁の立つ新十郎の言葉であるから、多少は世辞も混じっているかもしれない。だが、悪い気はしなかった。番頭を経て家老に進むのは珍しいことではなく、そしていずれの職も、就けるのは大身の家柄の者に限られるからだ。
「邪魔立てをしましたな。すまぬ」
鳴海がそう告げると、新十郎は目礼して再び手元に視線を落とした。余程忙しいらしい。
「善蔵殿。よろしければこのまま、我が家にお立ち寄り下され」
今度は鳴海が善蔵を誘った。善蔵には、何やかんやと世話になりっぱなしである。それだけではなく、那津の婚礼の打ち合わせも兼ねて、一度きちんと家人らにも紹介するつもりだった。
「よろしいのですか?」
善蔵は口ではそういいながらも、満更でもなさそうだった。
「構わぬ」
鳴海も、気軽に応じた。そのまま一度内大手門の方へ周り込み、一之町の通りに出てから彦十郎家の門扉を潜る。
ただいまと声を掛けると、奥からりんが出てきた。
「お帰りなさいませ、鳴海様」
玄関で両手をついたりんは、善蔵の姿に気づくと再び頭を下げた。善蔵が平民であるのは身なりを見れば一目瞭然だが、誰が相手でも決して奢り偉ぶらないところが、りんの美点である。
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