鬼と天狗

篠川翠

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第二章 尊攘の波濤

藩公上洛(3)

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「さすが鳴海殿。お察しが宜しいことで」
 庭で二人きりになると、平助はくすりと笑った。あの場で他の詰番らに聞かせるのは憚りのある話なのだろうと察して、わざわざ人気のない庭に誘ったのである。
「――して、言伝の主は?」
 元来回りくどい話が嫌いな鳴海は、率直に平助に尋ねた。
「大したことではございませぬ。丹波様からの御伝言でございます」
 丹波の名を聞いた途端、反射的に眉を顰めた。どうせ禄でもない話なのではないか。
「ですから、そう身構えられますな。丹波様曰く、『よく十右衛門を説き伏せた。褒めて遣わす』。その一言のみでございます」
「なるほど」
 平助がわざわざ他の人間の耳目を避けたのは、三浦一族に関わる話だからだったのかと、鳴海も合点がいった。あの場には、三浦権太夫の義弟にあたる樽井弥五左衛門もいた。過ぎた話とはいえ、樽井は権太夫に同情的な素振りを見せていたから、平助は樽井の余計な疑惑を招きたくなかったに違いない。
「丹波様の言葉ではございませぬが、よくあの強情者を説き伏せましたな」
 まさか十右衛門の件で平助から褒められるとは思わず、鳴海は慌てて手を振った。
「いえ。拙者も尊攘派の動きは気になっておりました故……。京の情勢の仔細について伝聞を頼めるとすれば、十右衛門殿しかおらぬと思うておりました」
 二人だけという気安さからか、あるいは実弟の話だからか。率直な平助の言葉に、つい鳴海も本音が漏れ出た。
 鳴海と十右衛門の付き合いは古い。それだけに、丹波が暗示したように「番頭として」命じるような真似は避けたかっただけである。
「尊攘派の計略から二本松を守るには、上方の情報が必要と申されたそうですな」
 平助が、微かに口元を緩ませた。
「この度丹波様が直接向かわれるというのも、藩政を取り仕切るご自身の目で上方の情勢を分析されたいからでござろうと、拙者は拝察致しました。横浜鎖港の問題は、我が藩にとっても見過ごせるものではございますまい」
「その件についても、お聞き及びでしたか」
 平助が、鳴海の回答に満足気に肯く。                                                                                                   
「江戸警衛の折、拙者も横浜へ足を運んでみましたが、確かに目の青い異人らを多く見かけました。また、港に停泊していた軍艦もとてつもなく大きい。あれらが一度に火を吹き我が国の陣に向けて砲を放ったのだとしたら、長州や薩摩はひとたまりもなかったでしょう」
 そう言うと、平助は地面に視線を落とした。江戸警衛の任務に当たっていた間も自ら横浜まで足を運び、現状分析をしてきたところは流石である。
「戦国の世であれば、恐らく互いの武装能力も拮抗していたのでしょうな。それ故、我ら軍師の腕の見せ所もあったのでしょうが、あれだけ武力に差があり戦法も全く異なる異人を相手とするのでは、我らとしてもどのように対抗するか見当もつきませぬ」
 そう苦笑する平助の横顔は、幾分老けて見えた。戦の専門家がそう断じるのだから、横浜で見た光景は、平助にとっても相当な衝撃だったに違いない。
「会津藩でも管打の銃などを購入し始めているようですが、いずれ我が藩でも、刀槍だけでなく砲の扱いに長けた者を増やさねばなりますまい」
 平助の言葉を、鳴海は噛み締めた。隣藩である会津藩は藩公である松平容保が京都守護職を命じられたため、最新の武器である管打の銃を購入するのは、必然の流れだっただろう。そしてその流れは、いずれ二本松にも及ぶに違いない。番頭となる鳴海の立場としても、部下らにそれらの能力を磨かせるには、従来のやり方を変えていかなければならないと思う。だが、大量の最新砲を購入するとなれば、それなりの元手が必要であり、結局は経済力の問題に帰着するのだった。
 今回、西の尊攘派の一角である長州が敗れた。だが、それで攘夷を完全に諦めたわけではないところが厄介なのであり、さらにそこへ在京の公家の思惑も絡んでいる。正に魑魅魍魎が跋扈するのが、現在の京の情勢だった。
 しばし平助は物思いに耽っていたが、やがてふっと眉を顰めた。
「今般の京都は、江戸よりも更に不逞の徒が数多く潜伏し、要らぬことを吹聴して回っている者も多いと聞き及んでおります。それらの思惑に染まる者が出なければ良いのですが……」
「……それは」
 平助が告げた言葉は、鳴海を戸惑わせた。今回の京都警衛組の中から、さらに尊攘派に惑わされる者が出るというのか。鳴海とて、これ以上尊攘派に振り回されるのは御免である。だが、その思いを告げても尚、平助の眉は顰められたままだった。
「大勢の者の意見が是とするものに傾いている中で日々を過ごせば、何となくそれが正しいように思えてくるものです。ですが、それが真に我が藩にとって正しいかどうかは、また別物。己の信念を貫こうとする余り、身をあやまつ者が出ねば良いのですが……」
 鳴海は、大きく息を吸い込んだ。
「それ故、十右衛門殿に加わって貰った次第でござる」
 十右衛門は、甥の権太夫に負けず劣らず頑固な一面がある。ただし、公への忠義心は人一倍持ち合わせており、また、甥が仕出かした数々の迷惑を帳消しにするべく、藩の為に尽くそうとしているのではないか。それが、鳴海の読みだった。
 羽木のように丹波に諂うことはないが、さりとて甥のように尊攘思想に染まることはあるまい。そう説明すると、ようやく平助は口元に笑みを取り戻した。
「なるほど。それが鳴海殿の我が弟に対する評価ですか」
 そう述べる平助の心中は、鳴海には読み取れなかった。
「朋友というだけで、十右衛門を選ばれたわけではないのですな」
 今度は鳴海が視線を伏せた。平助の分析は、半ば当たっていなくもない。だが、非常時こそ信頼できる者に働いてもらうのが一番ではないか。他の者であればいざ知らず、平助にまでそう思われていたとすれば、心外であった。
「……と皆から思われぬように、私からも弟に言い含めておきましょう」
 にこりと、平助が笑った。やはり、藩の軍師を務めるだけのことはある。鳴海は、またしても己の未熟さを振り返る羽目になったのだった。
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