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第二章 尊攘の波濤
西の変事(5)
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中野は二本松に二、三日滞在しただけで江戸へ帰っていったが、それと入れ替わるようにして、今度は江戸で留守居役を勤める小沢長右衛門から公式な書簡が届いた。
それによると、長州は先のイギリス商船を砲撃した際に、あろうことか朝廷から褒勅を受け取ったというのである。それに気を良くしたのか、五月二十三日には、長府沖に停泊していたフランス艦キャンシャン号を砲撃した。この事件ではフランス書記官が負傷し、水兵四人が死亡。キャンシャン号はそのまま長崎に向かい、長崎から在京の幕閣に事件が伝えられた。それだけでなく、長年の友好国であるはずのオランダ艦まで、長州は砲撃したというのである。
この事態に対して、アメリカだけでなくフランスも反撃に出ており、六月五日、フランスも長州藩と交戦状態になり、これを壊滅させた。
幕府はあらかじめ諸藩に対し、「海岸防御を厳重にし、敵が来襲すれば撃ち払うように」との布達を出していたが、同時に我が国から先に手を出すことは絶対にしないようにとも厳命していた。長州は、それを易易と破ったのである。当時の国際法に照らし合わせて、長州藩のアメリカ及びフランスへの対応は、国際法違反であった。また、馬関海峡の封鎖を巡って小倉藩とも対立を深めており、幕僚らはその始末にも追われた。
六月十二日、幕府は長州に対して問罪書を発令した。その内容は「先に異国拒絶について布達した際に、不明な点については逐一問い合わせることになっていた。にもかかわらず、横浜の交渉が決裂してもいないのにみだりに戦端を開いたことは、国辱を生ぜしめたに等しく、もっての外である」という厳しいものであった。
「長州は焦っておるな」
源太左衛門が苦々しげに述べると、丹波も深々と肯いた。藩政の末席に連なるようになってから日が浅い鳴海は、まだ西国の動向についてはよくわからなかった。だが、先に黄山が説明してくれた会沢正志斎が唱えた「富国強兵論」の趣旨と、長州藩の振る舞いがかけ離れていることは、何となく分かる。
「幕府からは、『諸外国と勝ち目のない戦をした場合、その損害は計り知れない』と、我が藩にすら通達があったというのに、長州はそれを破ったとは」
源太左衛門の顔にも、憂慮の色が浮かんでいた。安政五年から毎年富津在番を命じられている二本松藩にも、「当方からの手出しは厳禁」との通達が届いていたのである。鳴海も、それは生前の縫殿助から聞いたことがあった。
「大方長州では今、尊攘派が趨勢を握っているのであろう。それらが朝廷内の急進派と結びついているに違いない。第一、褒勅が真の御宸翰があるかどうかも、怪しいものだ」
丹波が吐き捨てた。その言葉に、鳴海ははっとした。
確かに丹波の言う通りである。孝明帝が攘夷を望んでいるのは確かなのだろうが、軽々と諸外国との戦を嘉するとは、考えられない。公武合体派の動きを面白く思わない急進派の公家らと、長州の尊攘派が結びついて偽勅が発せられたというのは、あり得る話だった。
「正邦も、大変なときに京都所司代の役目を仰せつかったものだな」
公が、憂鬱そうな面持ちでぽつりと呟いた。江戸からの書簡には、六月十一日付けで、淀藩主稲葉正邦が京都所司代に任じられたとも書かれていた。稲葉正邦公は長国公の異母弟であり、継嗣のいなかった淀藩稲葉家に養子に入っていたのである。稲葉家も譜代大名の一つであるが、この混沌とした情勢の中で京都所司代を仰せ付けられるというのは、確かに困惑する事態であろう。文久の改革によって新設された京都守護職の任についている松平容保公と協力しながら事態の調整に当たっていくことになるのだろうが、京の魑魅魍魎との対峙は避けられないに違いない。
「悪いことばかりでもございますまい」
掃部助が、丹波に顔を向けた。
「ようやく、大樹公(将軍)の帰府の見通しが立ったというのは、喜ばしいことではございませぬか」
だが、丹波は渋面のままである。
「当初、大樹公の在京のご予定は十日あまりだったと聞く。それが三月まで伸びた。あまりにも朝廷の公家共の増上慢が過ぎよう」
その言葉に、掃部助は気まずそうに顔を俯かせた。丹波の言う通りで、あまりにも朝廷が将軍の帰府を許さないものだから、馘首覚悟の老中小笠原が大兵を率いて圧力を掛けたという背後がある。結果的に家茂の帰府に繋がったが、これはこれで新たな対立の火種となったのだった。実際、在坂の幕閣の間では小笠原の罷免への反対意見が強く、身柄はひとまず大坂城代に預けとなったのである。
二本松藩としてはできれば横浜鎖港は避けてほしいが、さりとて、そこまで発言力を持つような軍事力や財力は持ち合わせていない。
丹波が、「引き続き京都警衛への協力に尽力するよう、藩内に触れを広めよ」と締めたところで、お開きとなった。どのようにかき集めたものか、代官らの尽力によってどうにか目標の金額は達成されたらしいとの噂は、鳴海の耳にも届いていた。もっとも、先の江戸警衛や勝知公・照子姫の輿入れのための費用供出を命じられていたこともあり、「御用金」との名目でありながら、代官らは三カ年掛けて返済していくという約束を名主らと固く誓わされたのだった。
家老座乗の丹波を始め家老らの姿が奥の間へ消えると、張り詰めていた書院の空気が緩んだ。鳴海ら詰番の者も落ノ間に引き上げようとすると、与兵衛に引き止められた。
「鳴海殿。今宵、彦十郎家でご相伴に預かってもよろしいか?」
鳴海は眉を上げた。与兵衛がわざわざ彦十郎家に来たいというのは、水山も含めて何か内々の話がしたいということであろう。
「離れの方がよろしいですか?」
「できれば」
与兵衛が肯く。
「承知いたしました。家の者に、支度を命じておきます」
それによると、長州は先のイギリス商船を砲撃した際に、あろうことか朝廷から褒勅を受け取ったというのである。それに気を良くしたのか、五月二十三日には、長府沖に停泊していたフランス艦キャンシャン号を砲撃した。この事件ではフランス書記官が負傷し、水兵四人が死亡。キャンシャン号はそのまま長崎に向かい、長崎から在京の幕閣に事件が伝えられた。それだけでなく、長年の友好国であるはずのオランダ艦まで、長州は砲撃したというのである。
この事態に対して、アメリカだけでなくフランスも反撃に出ており、六月五日、フランスも長州藩と交戦状態になり、これを壊滅させた。
幕府はあらかじめ諸藩に対し、「海岸防御を厳重にし、敵が来襲すれば撃ち払うように」との布達を出していたが、同時に我が国から先に手を出すことは絶対にしないようにとも厳命していた。長州は、それを易易と破ったのである。当時の国際法に照らし合わせて、長州藩のアメリカ及びフランスへの対応は、国際法違反であった。また、馬関海峡の封鎖を巡って小倉藩とも対立を深めており、幕僚らはその始末にも追われた。
六月十二日、幕府は長州に対して問罪書を発令した。その内容は「先に異国拒絶について布達した際に、不明な点については逐一問い合わせることになっていた。にもかかわらず、横浜の交渉が決裂してもいないのにみだりに戦端を開いたことは、国辱を生ぜしめたに等しく、もっての外である」という厳しいものであった。
「長州は焦っておるな」
源太左衛門が苦々しげに述べると、丹波も深々と肯いた。藩政の末席に連なるようになってから日が浅い鳴海は、まだ西国の動向についてはよくわからなかった。だが、先に黄山が説明してくれた会沢正志斎が唱えた「富国強兵論」の趣旨と、長州藩の振る舞いがかけ離れていることは、何となく分かる。
「幕府からは、『諸外国と勝ち目のない戦をした場合、その損害は計り知れない』と、我が藩にすら通達があったというのに、長州はそれを破ったとは」
源太左衛門の顔にも、憂慮の色が浮かんでいた。安政五年から毎年富津在番を命じられている二本松藩にも、「当方からの手出しは厳禁」との通達が届いていたのである。鳴海も、それは生前の縫殿助から聞いたことがあった。
「大方長州では今、尊攘派が趨勢を握っているのであろう。それらが朝廷内の急進派と結びついているに違いない。第一、褒勅が真の御宸翰があるかどうかも、怪しいものだ」
丹波が吐き捨てた。その言葉に、鳴海ははっとした。
確かに丹波の言う通りである。孝明帝が攘夷を望んでいるのは確かなのだろうが、軽々と諸外国との戦を嘉するとは、考えられない。公武合体派の動きを面白く思わない急進派の公家らと、長州の尊攘派が結びついて偽勅が発せられたというのは、あり得る話だった。
「正邦も、大変なときに京都所司代の役目を仰せつかったものだな」
公が、憂鬱そうな面持ちでぽつりと呟いた。江戸からの書簡には、六月十一日付けで、淀藩主稲葉正邦が京都所司代に任じられたとも書かれていた。稲葉正邦公は長国公の異母弟であり、継嗣のいなかった淀藩稲葉家に養子に入っていたのである。稲葉家も譜代大名の一つであるが、この混沌とした情勢の中で京都所司代を仰せ付けられるというのは、確かに困惑する事態であろう。文久の改革によって新設された京都守護職の任についている松平容保公と協力しながら事態の調整に当たっていくことになるのだろうが、京の魑魅魍魎との対峙は避けられないに違いない。
「悪いことばかりでもございますまい」
掃部助が、丹波に顔を向けた。
「ようやく、大樹公(将軍)の帰府の見通しが立ったというのは、喜ばしいことではございませぬか」
だが、丹波は渋面のままである。
「当初、大樹公の在京のご予定は十日あまりだったと聞く。それが三月まで伸びた。あまりにも朝廷の公家共の増上慢が過ぎよう」
その言葉に、掃部助は気まずそうに顔を俯かせた。丹波の言う通りで、あまりにも朝廷が将軍の帰府を許さないものだから、馘首覚悟の老中小笠原が大兵を率いて圧力を掛けたという背後がある。結果的に家茂の帰府に繋がったが、これはこれで新たな対立の火種となったのだった。実際、在坂の幕閣の間では小笠原の罷免への反対意見が強く、身柄はひとまず大坂城代に預けとなったのである。
二本松藩としてはできれば横浜鎖港は避けてほしいが、さりとて、そこまで発言力を持つような軍事力や財力は持ち合わせていない。
丹波が、「引き続き京都警衛への協力に尽力するよう、藩内に触れを広めよ」と締めたところで、お開きとなった。どのようにかき集めたものか、代官らの尽力によってどうにか目標の金額は達成されたらしいとの噂は、鳴海の耳にも届いていた。もっとも、先の江戸警衛や勝知公・照子姫の輿入れのための費用供出を命じられていたこともあり、「御用金」との名目でありながら、代官らは三カ年掛けて返済していくという約束を名主らと固く誓わされたのだった。
家老座乗の丹波を始め家老らの姿が奥の間へ消えると、張り詰めていた書院の空気が緩んだ。鳴海ら詰番の者も落ノ間に引き上げようとすると、与兵衛に引き止められた。
「鳴海殿。今宵、彦十郎家でご相伴に預かってもよろしいか?」
鳴海は眉を上げた。与兵衛がわざわざ彦十郎家に来たいというのは、水山も含めて何か内々の話がしたいということであろう。
「離れの方がよろしいですか?」
「できれば」
与兵衛が肯く。
「承知いたしました。家の者に、支度を命じておきます」
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