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第二章 尊攘の波濤
西の変事(4)
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その後、それぞれのグループに分かれて広間で談笑している席で、鳴海は志摩に与兵衛が丹波に呼ばれた件について尋ねてみた。未だ、与兵衛は丹波に呼び出されたきり、戻ってこない。
「――以前、父上と鳴海殿が仰っていた通りになりましたな」
そう述べる志摩は、複雑そうな面持ちだった。側にはやはり詰番の樽井、そして江戸から帰ってきたばかりの種橋主馬介の姿もある。
「お二方で、そのような話を?」
種橋とは同い年であるため、予てよりその名は知っていた。だが、今まで膝を突き合わせるような機会には恵まれてこなかったのである。一昨年番頭に就任した種橋にしても、六番組の番頭と五番組の詰番が話していたというのは、気になるらしい。
「本家の夕餉の席で出た戯言だがな」
いらぬ肚を探られないように、鳴海は軽く相槌を打つに留めた。
「六番組の面々はよくまとまっており、実戦を意識して日頃より訓練を怠っていないようだと、江戸藩邸にも聞こえて参りました。それ故、万が一戦端が開かれた場合もお考えになり、丹波様は六番組に側で控えていてほしいのでしょう」
種橋が、おっとりと笑った。確かに適材適所ではあるが、あの擬戦の結果がこのような結果をもたらしたのだと思うと、鳴海の心中は複雑である。
志摩も、何とも言えない顔でこちらを見た。
「我が家も、ついに順番が回ってきたというわけですよ」
言われてみればその通りで、本家は富津在番も江戸警衛も担当したことがなかった。これからかかるであろう諸々の費用の算段を思うと、与兵衛も志摩も頭が痛いに違いない。
「何だかんだで、丹波様も見ていないようで、見るべきところは見ておられる」
三番組の詰番である樽井は、微かに苦笑を浮かべた。昨年末に義弟の三浦権太夫の処分を巡って丹波のやり方に反発してみせた樽井だが、このところ尊攘派のやり方が過激さを増しつつあるのを目の当たりにし、思うところがあるのだろう。
「種橋殿。一橋公は、一足先に江戸へ戻られたということでございましたな。その折り、水戸家中がどうなったかという話は、聞こえてきませぬか?」
鳴海は、それが気がかりだった。あれから郡山陣屋に問い合わせたが、特に守山がちょっかいを掛けてくるということは、ないらしかった。だが、尊攘派は藩の垣根を超えて結びつきが強い。それだけに、油断がならなかった。
「ああ、鳴海殿は守山との因縁がございましたな」
種橋は少し笑ってみせたが、すぐに、真面目な顔になった。
「守山よりも結城藩が気になると、江口様は申されておりました」
「結城藩……」
思いがけない話に、鳴海は戸惑った。結城藩に長国公の弟である祐吉君が養子に入ったのは、昨年十一月のことである。今では水野勝知と名を変えているが、当然、老臣である三郎右衛門とも顔見知りであるはずだった。
「日向守様は水野家を継がれたものの、未だ一度も国元に入られていないと、結城藩から使者が参りました」
鳴海は、志摩や樽井と顔を見合わせた。日向守というのは、勝知公の官職名である。確かに外様である二本松藩と異なり、幕閣の一員である譜代大名は激務であろう。だが、江戸と結城はそこそこ近い。いくら江戸での務めがあるとはいえ領主が顔を見せないというのは、家中の不満の種となりはしないだろうか。それを鳴海が指摘すると、種橋も肯いた。
「左様。江口様も、それをご心配なされていました。そもそも、日向守様が藩主として迎えられたのを契機といたしまして、結城藩は体制が一新されたと伺っております。その折り、結城藩校秉彝館の教授方の越惣太郎という御仁が、藩政から遠ざけられて物議を醸したのだとか。日向守様としても、そのような話を耳に入れられたのでは、御領内に足を運びにくいのやも知れませぬ」
鳴海にとっては、雲を掴むような話である。だが、種橋がわざわざこのような話をしてくるというのは、これも尊攘派が絡む話に違いなかった。
「ひょっとすると、その藩校の教授方というのは水戸と関わりが?」
鳴海の問いに、種橋は首を傾げたままだった。他藩のこと故はっきりしないのですがと断った上で、種橋は話を続けた。
越惣太郎という男は元々常陸国下館出身の男の出身だが、前藩主水野勝進に召し出されて藩校の教授となった経緯がある。だが、その推挙をした水野主水が代替わりを機に隠居し、越は後ろ盾を失った。さらに佐幕派の面々と対立を深めて小川村に蟄居させられたらしい。
一時は尊攘派への傾倒を匂わせていた三郎右衛門だが、それはそれとして、幼い頃より見知っている勝知公が蔑ろにされるのは、見過ごせるものではないようである。元々佐幕の気風が強い二本松で育った勝知公が尊攘派の家臣と反りが合わないのは、無理もなかった。
そして、江口らの知らなかった事実として、結城藩の越惣太郎が教育を受けたのは、水戸藩小川村の稽医館という郷校だった。その関係で、万延元年に水戸藩と長州藩の尊攘派の間で結ばれた密約、成破同盟の斡旋にも一枚噛んでいる。このために、結城藩の中では後に天狗党に加勢する者が出て、結城藩家中の混乱を招く遠因となった。また、小川村稽医館は、天狗党の領袖の一人として祭り上げられた藤田小四郎が館長を務めていた郷校である。
「恐らく、結城藩だけではございますまい。水戸の尊攘派は、関東諸藩のあちこちに出没している様子。宇都宮藩も藩論が割れているとの噂を聞きましたし、隣藩の壬生でも同じでございましょう。二本松と守山が近いように、水戸藩御連枝と宇都宮、結城は領地を接しておりますから、領民同士は日頃からつながりがある」
種橋の言う事は、道理であった。だが、結城藩の勝知公の身の上は心配であるものの、もはや他藩の領主である以上、二本松藩の者が結城藩の政に口を挟めば却って混乱を招くだけである。遠くから見守ることしかできないのが、もどかしい。
「領民のことを思えば全てを穏便に運びたいものだが、なかなかうまく行かないものですな」
鳴海がそう嘆くと、ふっと種橋が目を細めた。
「何か?」
「いえ、人というのは変わるものだなあと」
揶揄されているようでもあり、感心されているようでもある。だが、立場が変われば、自ずと視点も変わるものだというのを、ここ一年ほどで鳴海も感じつつあった。同年でありながら、鳴海より早くから番頭として組をまとめ、江戸警衛にも組み入れられた種橋には、鳴海が見えていない世界が見えているのかもしれなかった。
「――以前、父上と鳴海殿が仰っていた通りになりましたな」
そう述べる志摩は、複雑そうな面持ちだった。側にはやはり詰番の樽井、そして江戸から帰ってきたばかりの種橋主馬介の姿もある。
「お二方で、そのような話を?」
種橋とは同い年であるため、予てよりその名は知っていた。だが、今まで膝を突き合わせるような機会には恵まれてこなかったのである。一昨年番頭に就任した種橋にしても、六番組の番頭と五番組の詰番が話していたというのは、気になるらしい。
「本家の夕餉の席で出た戯言だがな」
いらぬ肚を探られないように、鳴海は軽く相槌を打つに留めた。
「六番組の面々はよくまとまっており、実戦を意識して日頃より訓練を怠っていないようだと、江戸藩邸にも聞こえて参りました。それ故、万が一戦端が開かれた場合もお考えになり、丹波様は六番組に側で控えていてほしいのでしょう」
種橋が、おっとりと笑った。確かに適材適所ではあるが、あの擬戦の結果がこのような結果をもたらしたのだと思うと、鳴海の心中は複雑である。
志摩も、何とも言えない顔でこちらを見た。
「我が家も、ついに順番が回ってきたというわけですよ」
言われてみればその通りで、本家は富津在番も江戸警衛も担当したことがなかった。これからかかるであろう諸々の費用の算段を思うと、与兵衛も志摩も頭が痛いに違いない。
「何だかんだで、丹波様も見ていないようで、見るべきところは見ておられる」
三番組の詰番である樽井は、微かに苦笑を浮かべた。昨年末に義弟の三浦権太夫の処分を巡って丹波のやり方に反発してみせた樽井だが、このところ尊攘派のやり方が過激さを増しつつあるのを目の当たりにし、思うところがあるのだろう。
「種橋殿。一橋公は、一足先に江戸へ戻られたということでございましたな。その折り、水戸家中がどうなったかという話は、聞こえてきませぬか?」
鳴海は、それが気がかりだった。あれから郡山陣屋に問い合わせたが、特に守山がちょっかいを掛けてくるということは、ないらしかった。だが、尊攘派は藩の垣根を超えて結びつきが強い。それだけに、油断がならなかった。
「ああ、鳴海殿は守山との因縁がございましたな」
種橋は少し笑ってみせたが、すぐに、真面目な顔になった。
「守山よりも結城藩が気になると、江口様は申されておりました」
「結城藩……」
思いがけない話に、鳴海は戸惑った。結城藩に長国公の弟である祐吉君が養子に入ったのは、昨年十一月のことである。今では水野勝知と名を変えているが、当然、老臣である三郎右衛門とも顔見知りであるはずだった。
「日向守様は水野家を継がれたものの、未だ一度も国元に入られていないと、結城藩から使者が参りました」
鳴海は、志摩や樽井と顔を見合わせた。日向守というのは、勝知公の官職名である。確かに外様である二本松藩と異なり、幕閣の一員である譜代大名は激務であろう。だが、江戸と結城はそこそこ近い。いくら江戸での務めがあるとはいえ領主が顔を見せないというのは、家中の不満の種となりはしないだろうか。それを鳴海が指摘すると、種橋も肯いた。
「左様。江口様も、それをご心配なされていました。そもそも、日向守様が藩主として迎えられたのを契機といたしまして、結城藩は体制が一新されたと伺っております。その折り、結城藩校秉彝館の教授方の越惣太郎という御仁が、藩政から遠ざけられて物議を醸したのだとか。日向守様としても、そのような話を耳に入れられたのでは、御領内に足を運びにくいのやも知れませぬ」
鳴海にとっては、雲を掴むような話である。だが、種橋がわざわざこのような話をしてくるというのは、これも尊攘派が絡む話に違いなかった。
「ひょっとすると、その藩校の教授方というのは水戸と関わりが?」
鳴海の問いに、種橋は首を傾げたままだった。他藩のこと故はっきりしないのですがと断った上で、種橋は話を続けた。
越惣太郎という男は元々常陸国下館出身の男の出身だが、前藩主水野勝進に召し出されて藩校の教授となった経緯がある。だが、その推挙をした水野主水が代替わりを機に隠居し、越は後ろ盾を失った。さらに佐幕派の面々と対立を深めて小川村に蟄居させられたらしい。
一時は尊攘派への傾倒を匂わせていた三郎右衛門だが、それはそれとして、幼い頃より見知っている勝知公が蔑ろにされるのは、見過ごせるものではないようである。元々佐幕の気風が強い二本松で育った勝知公が尊攘派の家臣と反りが合わないのは、無理もなかった。
そして、江口らの知らなかった事実として、結城藩の越惣太郎が教育を受けたのは、水戸藩小川村の稽医館という郷校だった。その関係で、万延元年に水戸藩と長州藩の尊攘派の間で結ばれた密約、成破同盟の斡旋にも一枚噛んでいる。このために、結城藩の中では後に天狗党に加勢する者が出て、結城藩家中の混乱を招く遠因となった。また、小川村稽医館は、天狗党の領袖の一人として祭り上げられた藤田小四郎が館長を務めていた郷校である。
「恐らく、結城藩だけではございますまい。水戸の尊攘派は、関東諸藩のあちこちに出没している様子。宇都宮藩も藩論が割れているとの噂を聞きましたし、隣藩の壬生でも同じでございましょう。二本松と守山が近いように、水戸藩御連枝と宇都宮、結城は領地を接しておりますから、領民同士は日頃からつながりがある」
種橋の言う事は、道理であった。だが、結城藩の勝知公の身の上は心配であるものの、もはや他藩の領主である以上、二本松藩の者が結城藩の政に口を挟めば却って混乱を招くだけである。遠くから見守ることしかできないのが、もどかしい。
「領民のことを思えば全てを穏便に運びたいものだが、なかなかうまく行かないものですな」
鳴海がそう嘆くと、ふっと種橋が目を細めた。
「何か?」
「いえ、人というのは変わるものだなあと」
揶揄されているようでもあり、感心されているようでもある。だが、立場が変われば、自ずと視点も変わるものだというのを、ここ一年ほどで鳴海も感じつつあった。同年でありながら、鳴海より早くから番頭として組をまとめ、江戸警衛にも組み入れられた種橋には、鳴海が見えていない世界が見えているのかもしれなかった。
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