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第二章 尊攘の波濤
針道の富豪(5)
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――針道で大火が発生したという知らせが城下に届いたのは、五月十四日のことだった。鳴海が会所で善蔵と会ってから十日も経っていなかった。鳴海に知らせを持ってきたのは、五番組配下の一人である、笠間市之進である。
「何でも針道では、一五五人が被災したとのことでございます」
そう報告する市之進の顔にも、痛ましそうな色が浮かんでいた。その数の多さに、鳴海も眉根を寄せた。
「出火の原因は、分かっておるのか?」
「どうも、過失による出火で、数多の蚕簇に延焼したのが大火事の原因となったようでございます」
「蚕簇か……」
蚕簇とは、蚕が繭を作るのに適した環境を整えた、すだれのようなものである。 ちょうど、今は夏蚕飼育の時期に当たっている。少しでも生糸の生産量を上げようと、どの家庭でも蚕の飼育に励んでいたのだろう。蚕のために適切な環境を整えようと夜でも火を焚いていたが、そこからの失火だったらしい。
「鍵屋の宗形殿も、災難であったな」
鳴海の言葉に、市之進がこちらを振り返った。
「鳴海様。鍵屋ともお知り合いで?」
「つい先日、知り合ったばかりだ」
そうですか、と市之進は微妙な表情を見せた。その表情からすると、市之進の中での善蔵の人物評は、微妙であるらしい。だがそこは武士らしく、市之進は特に善蔵に対する所感を述べなかった。
「それだけの人数が焼け出されたとなりますと、救助小屋を設けねばなりますまいな」
針道村の代官である青木が思案顔で呟いた。焼け出された農民らのための臨時の救済施設を開放しようというのである。だが、その言葉を聞いた新十郎は、顔を曇らせている。
「針道組の蔵米は、廻米に回すぎりぎりの量しかないかもしれぬ。いかがしたものか……」
廻米は、何度かに分けて少しずつ江戸に廻送される。昨年の二本松の米の収穫量が少なかったため、本来の廻米供出地である渋川・杉田・小浜・玉ノ井組に加えて、針道組など山間地の米も年貢として供出させ、藩の廻米に組み入れられたのだった。廻米は幕府からの命令で一定量貯蔵しなければならず、容易に他の目的物には回せない。
郡代や代官らが顔を寄せ合ってああでもない、こうでもないと話し合っているのを、鳴海はやや離れた席で耳を傾けていた。関わりを持った以上自分も何か助力したいが、いかんせん、行政のこととなるとその知識はさっぱりである。このようなとき、一介の詰番でしかない自分に不甲斐なさを感じるのであった。
そこで一旦会合はお開きとなり、鳴海は一度御殿を出て本丸の方へ足を向けた。その後ろを、なぜか志摩がついてくる。
志摩の気配は背後に感じていたが、鳴海は強いて振り返らず、裏門まで来たところでようやく足を止めた。
「いつまでついてくる気だ」
「鳴海殿の足が、止まるまでですよ。何かまた難しいことをお考えになっていたでしょう」
相変わらず笑顔を絶やさない志摩だが、鳴海の気配を察してか、すぐに真面目な顔になった。
「鳴海殿が針道の鍵屋とお知り合いだとは思いませんでした」
鳴海は、首を横に振った。
「世話になっていたのは、父上や縫殿助殿だ。まだ知り合いになって一旬も経っておらぬ」
「ですが鳴海殿は、鍵屋を気に入られたのでしょう?」
さすがは、幼馴染である。元々鳴海は人付き合いが得意とは言い難い。初対面にも関わらずあのように打ち解けたのは、鳴海としては珍しいことであった。
「……かの御仁の心意気が、武士のようだと思ってな」
鳴海は、ぼそぼそと会所での話を打ち明けた。善蔵が安達地方の生糸を守るために奮闘したという逸話は、志摩も知らなかったらしい。「へえ……」と感心したように相槌を打ちながら、聞いていた。
「一廉の人物なのですな」
志摩の言葉に、鳴海も肯いた。
「噂に聞いていた話とは、随分違うようです」
そう言うと、志摩は慌てて口を噤んだ。だが、鳴海はその言葉を聞き逃さなかった。
「どのような意味だ」
鳴海に鋭い視線を投げかけられ、志摩は目を伏せた。
「……守銭奴と申す者もいるということですよ」
しばらくの沈黙の後、志摩は小声で答えた。さすがに、軽々と噂話を口にするのは恥だと感じたのだろう。先程市之進が善蔵について言い淀んだのも、その噂話を耳にしているからに違いなかった。
しばし気まずい空気が流れた。本町谷の方から、郭公の囀る声だけが聞こえてくる。
やがて、鳴海は大きく息を吸い込んだ。
「俺は、己の目で善蔵殿を見たのだから、己を信じるまでだ」
その言葉を聞くと、志摩はくすりと笑った。
「鳴海殿は、やはり鳴海殿ですね。そっけないようでいて、義侠心に厚い」
今度は、志摩は鳴海が尋ね返す隙を与えなかった。そして、何気ない様子で眼下の二合田の棚田を眺めていたかと思うと、「あ」と声を漏らした。その視線の左手には、彦十郎家の茶園と数棟の蔵が見える。
「鳴海殿。確か、一昨年の扶持米がまだ蔵に残っていると仰っていませんでしたか?それを救恤米として差し出されてはいがかでしょう」
鳴海も、愁眉を開いた。確かにそのような話を本家の宴席で話したことがあった。一昨年の米ともなると、米問屋で金銭に変えようにも価値が下がっているので、ほとんど金にならない。下人などに与えるくらいしか使い道がないのである。
「一昨年の米だが、大丈夫か?」
古々米だと多少臭うかもしれないと、鳴海は懸念したのである。だが、志摩は笑っていなした。
「庶民は普段から麦や稗を混ぜて食しますから、それほど臭いは気にしないでしょう。彦十郎家の蔵で保存しているのであれば、虫などの管理もきちんとされているでしょうし、第一、彦十郎家の家人も食べているのでしょう?であれば大丈夫ですよ」
「よし」
鳴海は、口元を上げた。善は急げである。二人はそこから城の大書院へ引き返すと、和左衛門に彦十郎家の蔵米の一部を救恤米として提供する旨を申し出た。
「ほう……」
申し出を受けた和左衛門は、微妙な表情をしている。丹羽山田家よりも石高の多い彦十郎家の財力への羨望なのか、それとも丹波方と見做していた鳴海からの思いがけない申し出に、動揺したものか。だが、肝心なのは、一刻も早く針道の民を救うことである。和左衛門の動揺に気づかぬふりをして、鳴海は針道の民の救恤を訴えた。
「鳴海殿。かたじけない」
新十郎は、相好を崩している。
「宗形殿が、現在針道の屋敷で炊き出しの準備に当たっております。お手数をお掛けして申し訳ござらぬが、そちらへ運んで頂いてもよろしいですかな」
「承知致した。拙者も元よりそのつもりでございました」
鳴海も、気軽に答えた。本来は、これも鳴海の仕事ではない。だが、善蔵には一族の者が世話になった恩もある。鳴海が直接出向くのが、筋であろう。
もっとも、微妙な顔をしているのは和左衛門だけでなく、丹波も同じだった。こちらはわかりやすい。丹波とて、先の会話からすれば善蔵に借りがあるに違いないのである。鳴海が救恤米を出すと表明したからには、彦十郎家よりも石高の多い丹波も米を出さねば、丹波の立場がないのであった。
「大谷鳴海。我が家の蔵からも持っていくが良い。宗形殿によろしく申し伝えよ」
口ぶりは偉そうだが、引き攣った笑顔を取り繕い、丹波が下知を追加した。
「丹波様からの米と聞けば、宗形殿も喜びましょう」
内心のおかしさを噛み殺し、鳴海は朗らかに答えた。
「何でも針道では、一五五人が被災したとのことでございます」
そう報告する市之進の顔にも、痛ましそうな色が浮かんでいた。その数の多さに、鳴海も眉根を寄せた。
「出火の原因は、分かっておるのか?」
「どうも、過失による出火で、数多の蚕簇に延焼したのが大火事の原因となったようでございます」
「蚕簇か……」
蚕簇とは、蚕が繭を作るのに適した環境を整えた、すだれのようなものである。 ちょうど、今は夏蚕飼育の時期に当たっている。少しでも生糸の生産量を上げようと、どの家庭でも蚕の飼育に励んでいたのだろう。蚕のために適切な環境を整えようと夜でも火を焚いていたが、そこからの失火だったらしい。
「鍵屋の宗形殿も、災難であったな」
鳴海の言葉に、市之進がこちらを振り返った。
「鳴海様。鍵屋ともお知り合いで?」
「つい先日、知り合ったばかりだ」
そうですか、と市之進は微妙な表情を見せた。その表情からすると、市之進の中での善蔵の人物評は、微妙であるらしい。だがそこは武士らしく、市之進は特に善蔵に対する所感を述べなかった。
「それだけの人数が焼け出されたとなりますと、救助小屋を設けねばなりますまいな」
針道村の代官である青木が思案顔で呟いた。焼け出された農民らのための臨時の救済施設を開放しようというのである。だが、その言葉を聞いた新十郎は、顔を曇らせている。
「針道組の蔵米は、廻米に回すぎりぎりの量しかないかもしれぬ。いかがしたものか……」
廻米は、何度かに分けて少しずつ江戸に廻送される。昨年の二本松の米の収穫量が少なかったため、本来の廻米供出地である渋川・杉田・小浜・玉ノ井組に加えて、針道組など山間地の米も年貢として供出させ、藩の廻米に組み入れられたのだった。廻米は幕府からの命令で一定量貯蔵しなければならず、容易に他の目的物には回せない。
郡代や代官らが顔を寄せ合ってああでもない、こうでもないと話し合っているのを、鳴海はやや離れた席で耳を傾けていた。関わりを持った以上自分も何か助力したいが、いかんせん、行政のこととなるとその知識はさっぱりである。このようなとき、一介の詰番でしかない自分に不甲斐なさを感じるのであった。
そこで一旦会合はお開きとなり、鳴海は一度御殿を出て本丸の方へ足を向けた。その後ろを、なぜか志摩がついてくる。
志摩の気配は背後に感じていたが、鳴海は強いて振り返らず、裏門まで来たところでようやく足を止めた。
「いつまでついてくる気だ」
「鳴海殿の足が、止まるまでですよ。何かまた難しいことをお考えになっていたでしょう」
相変わらず笑顔を絶やさない志摩だが、鳴海の気配を察してか、すぐに真面目な顔になった。
「鳴海殿が針道の鍵屋とお知り合いだとは思いませんでした」
鳴海は、首を横に振った。
「世話になっていたのは、父上や縫殿助殿だ。まだ知り合いになって一旬も経っておらぬ」
「ですが鳴海殿は、鍵屋を気に入られたのでしょう?」
さすがは、幼馴染である。元々鳴海は人付き合いが得意とは言い難い。初対面にも関わらずあのように打ち解けたのは、鳴海としては珍しいことであった。
「……かの御仁の心意気が、武士のようだと思ってな」
鳴海は、ぼそぼそと会所での話を打ち明けた。善蔵が安達地方の生糸を守るために奮闘したという逸話は、志摩も知らなかったらしい。「へえ……」と感心したように相槌を打ちながら、聞いていた。
「一廉の人物なのですな」
志摩の言葉に、鳴海も肯いた。
「噂に聞いていた話とは、随分違うようです」
そう言うと、志摩は慌てて口を噤んだ。だが、鳴海はその言葉を聞き逃さなかった。
「どのような意味だ」
鳴海に鋭い視線を投げかけられ、志摩は目を伏せた。
「……守銭奴と申す者もいるということですよ」
しばらくの沈黙の後、志摩は小声で答えた。さすがに、軽々と噂話を口にするのは恥だと感じたのだろう。先程市之進が善蔵について言い淀んだのも、その噂話を耳にしているからに違いなかった。
しばし気まずい空気が流れた。本町谷の方から、郭公の囀る声だけが聞こえてくる。
やがて、鳴海は大きく息を吸い込んだ。
「俺は、己の目で善蔵殿を見たのだから、己を信じるまでだ」
その言葉を聞くと、志摩はくすりと笑った。
「鳴海殿は、やはり鳴海殿ですね。そっけないようでいて、義侠心に厚い」
今度は、志摩は鳴海が尋ね返す隙を与えなかった。そして、何気ない様子で眼下の二合田の棚田を眺めていたかと思うと、「あ」と声を漏らした。その視線の左手には、彦十郎家の茶園と数棟の蔵が見える。
「鳴海殿。確か、一昨年の扶持米がまだ蔵に残っていると仰っていませんでしたか?それを救恤米として差し出されてはいがかでしょう」
鳴海も、愁眉を開いた。確かにそのような話を本家の宴席で話したことがあった。一昨年の米ともなると、米問屋で金銭に変えようにも価値が下がっているので、ほとんど金にならない。下人などに与えるくらいしか使い道がないのである。
「一昨年の米だが、大丈夫か?」
古々米だと多少臭うかもしれないと、鳴海は懸念したのである。だが、志摩は笑っていなした。
「庶民は普段から麦や稗を混ぜて食しますから、それほど臭いは気にしないでしょう。彦十郎家の蔵で保存しているのであれば、虫などの管理もきちんとされているでしょうし、第一、彦十郎家の家人も食べているのでしょう?であれば大丈夫ですよ」
「よし」
鳴海は、口元を上げた。善は急げである。二人はそこから城の大書院へ引き返すと、和左衛門に彦十郎家の蔵米の一部を救恤米として提供する旨を申し出た。
「ほう……」
申し出を受けた和左衛門は、微妙な表情をしている。丹羽山田家よりも石高の多い彦十郎家の財力への羨望なのか、それとも丹波方と見做していた鳴海からの思いがけない申し出に、動揺したものか。だが、肝心なのは、一刻も早く針道の民を救うことである。和左衛門の動揺に気づかぬふりをして、鳴海は針道の民の救恤を訴えた。
「鳴海殿。かたじけない」
新十郎は、相好を崩している。
「宗形殿が、現在針道の屋敷で炊き出しの準備に当たっております。お手数をお掛けして申し訳ござらぬが、そちらへ運んで頂いてもよろしいですかな」
「承知致した。拙者も元よりそのつもりでございました」
鳴海も、気軽に答えた。本来は、これも鳴海の仕事ではない。だが、善蔵には一族の者が世話になった恩もある。鳴海が直接出向くのが、筋であろう。
もっとも、微妙な顔をしているのは和左衛門だけでなく、丹波も同じだった。こちらはわかりやすい。丹波とて、先の会話からすれば善蔵に借りがあるに違いないのである。鳴海が救恤米を出すと表明したからには、彦十郎家よりも石高の多い丹波も米を出さねば、丹波の立場がないのであった。
「大谷鳴海。我が家の蔵からも持っていくが良い。宗形殿によろしく申し伝えよ」
口ぶりは偉そうだが、引き攣った笑顔を取り繕い、丹波が下知を追加した。
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