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第二章 尊攘の波濤
針道の富豪(2)
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黄山の述べたように、会所にはさまざまな人間が出入りしていた。鳴海に気付いて頭を下げる者もあったが、多くの者はさほど鳴海が出入りしているのを気にしていない様子だった。
会所に勤める小者に茶を運ばせると、宗形善蔵は鳴海の真っ正面に座った。
「彦十郎家のご当主が変わられたというのは黄山殿から伺っていたのですが、お目もじする機会がございませぬ故、失礼致しました」
そう述べると、善蔵は懐に手を差し込み、袱紗の包みを取り出してすっと鳴海の前に差し出した。
「どうぞ、養泉様と縫殿助様への御香華として、お納め下さいませ」
「かたじけない」
鳴海も軽く頭を下げて袱紗を手にすると、ずしりと掌に重みを感じた。三十匁ほどはあるのではないか。思わず顔を上げて善蔵をまじまじと見つめる。
「天保小判ゆえ、多少は彦十郎家の皆様のお役に立ちましょう」
さらりと、善蔵は述べた。
「さすが善蔵殿。今でも天保小判をお持ちでいらっしゃるとは」
心の底から感心したように、黄山が横から袱紗に視線を向けた。二人の会話の意味への理解が追いつかず、鳴海は黄山へ助けの視線を向ける。
「まあ、後ほど天保小判の意味についてはご講釈申し上げましょう。鳴海様は度量の広いお方。金子の詳細についても抵抗があまりないとお見受け致しました故」
黄山の説明に、鳴海は眉を顰めた。
「銭は銭であろう。我らとて、扶持米だけで生業を立てられるわけではない」
その言葉を聞いた善蔵が、ふっと息を吐いた。
「……なるほど。黄山殿が私めを引き合わせようとお考えのだけのことはありますな」
軽く揶揄を込められたような気もしたが、善蔵の顔は穏やかである。
ここだけの話だが、と善蔵は声を低くした。
「某郡代のお方などは、『幕府の天保の改革の方針に背く』と仰り、我らを目の敵に致します故、ほとほと閉口しておりまする」
あけすけな物言いに、鳴海も苦笑せざるを得なかった。善蔵の言う「某郡代」とは、どう考えても和左衛門を指しているに違いない。
「……聞かなかったことにしておこう」
鳴海の返答を聞くと、善蔵は笑みをこぼした。
黄山によると、宗形善蔵は代々針道に住みついている古豪なのだという。この地に土着したのは平安の時代と伝えられているというから、郷士の中でもかなり古い家柄だなのだった。その頃は一介の百姓に過ぎなかったのが、天正年間の伊達政宗の「小手森城の撫で斬り」の際に伊達氏に帰属した折、政宗の諱字を頂戴して「宗形」の姓を名乗ることを許されたという。
「……ということは、元々生糸は扱っていなかったのか?」
鳴海の問いに、善蔵は軽く肯いた。
「左様。何分昔の話ではございますが、近江長浜の商人が針道に滞在したことがございましてな。何でも信夫の生糸の評判を聞きつけたとかで、大量に買い付けていったのでございますよ。それを京の西陣に持っていったところ、これが大層な評判となり申した。其奴は『鉄砲造』と称して京で大層儲けたのでございます」
憤懣やる方なし、といった体で善蔵が茶を啜った。
つまりその某商人は、福島産の生糸を「近江長浜産」の糸と偽って売ったのであった。それに憤った善蔵らは、自分らが扱う生糸を「勝浜」として売ることにした。「長浜産の糸に勝る」という意味である。すると今度は、田村三春の商人らがこれを聞きつけた。針道は三春から福島に抜ける街道沿いにある小さな宿場町だが、そこに滞在した三春の商人らは、針道産の生糸の品質が信夫産に劣らないことを発見した。そこで三春商人らは、安達地方の生糸を大量に買いつけ、今度はそれらに「三春糸」の名前を付けて京に送ったのである。そのため、三春糸の名前もたちまち全国区となったが、いくばくもなくして、伊達・飯野の商人らがやはり安達地方の糸を「飯野糸」として京で売り捌くようになった。そのため、飯野糸の名前も遍く知れ渡るようになったが、その利はちっとも安達の地には回ってこない。
「何故、安達の糸が徒に他の商人らによって、好き勝手に己の儲けとされねばならぬのか、と思いましてな」
そう述べると、善蔵は勢いよく茶を啜り、「あちち」と顔を顰めた。当時の怒りを思い出したらしい。
「それで、己が当地の問屋として取締まろうと考えたわけでござるか?」
なるほど、商人は商人なりの戦いがあるらしい。
「左様。安達の糸をこれ以上余所者に好き勝手にさせ、儲けさせるようなことがあっては、なりませぬ」
鳴海は、思わず快哉の笑みを浮かべた。商人とは言え、その気概は武士は負けていないではないか。縫殿助や亡父が善蔵を頼ったというのも、分かる気がした。
「よくぞ、当地の糸を守ってくれた」
鳴海が軽く頭を下げると、善蔵は軽く目を見開いた。
「ほう……」
鳴海の返答が意外だったのか、善蔵は笑みを深めた。
「黄山殿の仰るように、鳴海殿はお話が分かる御仁のようですな」
「何の。黄山殿のご講釈を受けた故でござる」
善蔵の気概に自分と通じるものを感じ、いつの間にか、鳴海の口調は打ち解けたものとなっていた。
「鳴海様、これには続きがございましてな。この善蔵殿は、当地の糸を『針道糸』としてその名を揚ぐることに成功いたしました。現在、西陣のある京は尊攘派の巣窟となっておりましょう。当然、贅沢品である生糸を扱う糸問屋などは、浪士らが言いがかりをつける格好の標的となり申す。そこで……」
「なるほど」
鳴海にも、なぜ丹波らが横浜鎖港を避けたいか分かった気がする。今までは京で売れていた生糸が、不逞浪士が跋扈する京では思うように売れない可能性が出てきた。そこで善蔵らは、横浜開港を契機として、その目を海外へ向けたのである。生糸の上がりは、当然藩の財政の一端を担っている。
「考えたものだな」
経済に強い大島成渡などが、喜んで聞きそうな話だった。
会所に勤める小者に茶を運ばせると、宗形善蔵は鳴海の真っ正面に座った。
「彦十郎家のご当主が変わられたというのは黄山殿から伺っていたのですが、お目もじする機会がございませぬ故、失礼致しました」
そう述べると、善蔵は懐に手を差し込み、袱紗の包みを取り出してすっと鳴海の前に差し出した。
「どうぞ、養泉様と縫殿助様への御香華として、お納め下さいませ」
「かたじけない」
鳴海も軽く頭を下げて袱紗を手にすると、ずしりと掌に重みを感じた。三十匁ほどはあるのではないか。思わず顔を上げて善蔵をまじまじと見つめる。
「天保小判ゆえ、多少は彦十郎家の皆様のお役に立ちましょう」
さらりと、善蔵は述べた。
「さすが善蔵殿。今でも天保小判をお持ちでいらっしゃるとは」
心の底から感心したように、黄山が横から袱紗に視線を向けた。二人の会話の意味への理解が追いつかず、鳴海は黄山へ助けの視線を向ける。
「まあ、後ほど天保小判の意味についてはご講釈申し上げましょう。鳴海様は度量の広いお方。金子の詳細についても抵抗があまりないとお見受け致しました故」
黄山の説明に、鳴海は眉を顰めた。
「銭は銭であろう。我らとて、扶持米だけで生業を立てられるわけではない」
その言葉を聞いた善蔵が、ふっと息を吐いた。
「……なるほど。黄山殿が私めを引き合わせようとお考えのだけのことはありますな」
軽く揶揄を込められたような気もしたが、善蔵の顔は穏やかである。
ここだけの話だが、と善蔵は声を低くした。
「某郡代のお方などは、『幕府の天保の改革の方針に背く』と仰り、我らを目の敵に致します故、ほとほと閉口しておりまする」
あけすけな物言いに、鳴海も苦笑せざるを得なかった。善蔵の言う「某郡代」とは、どう考えても和左衛門を指しているに違いない。
「……聞かなかったことにしておこう」
鳴海の返答を聞くと、善蔵は笑みをこぼした。
黄山によると、宗形善蔵は代々針道に住みついている古豪なのだという。この地に土着したのは平安の時代と伝えられているというから、郷士の中でもかなり古い家柄だなのだった。その頃は一介の百姓に過ぎなかったのが、天正年間の伊達政宗の「小手森城の撫で斬り」の際に伊達氏に帰属した折、政宗の諱字を頂戴して「宗形」の姓を名乗ることを許されたという。
「……ということは、元々生糸は扱っていなかったのか?」
鳴海の問いに、善蔵は軽く肯いた。
「左様。何分昔の話ではございますが、近江長浜の商人が針道に滞在したことがございましてな。何でも信夫の生糸の評判を聞きつけたとかで、大量に買い付けていったのでございますよ。それを京の西陣に持っていったところ、これが大層な評判となり申した。其奴は『鉄砲造』と称して京で大層儲けたのでございます」
憤懣やる方なし、といった体で善蔵が茶を啜った。
つまりその某商人は、福島産の生糸を「近江長浜産」の糸と偽って売ったのであった。それに憤った善蔵らは、自分らが扱う生糸を「勝浜」として売ることにした。「長浜産の糸に勝る」という意味である。すると今度は、田村三春の商人らがこれを聞きつけた。針道は三春から福島に抜ける街道沿いにある小さな宿場町だが、そこに滞在した三春の商人らは、針道産の生糸の品質が信夫産に劣らないことを発見した。そこで三春商人らは、安達地方の生糸を大量に買いつけ、今度はそれらに「三春糸」の名前を付けて京に送ったのである。そのため、三春糸の名前もたちまち全国区となったが、いくばくもなくして、伊達・飯野の商人らがやはり安達地方の糸を「飯野糸」として京で売り捌くようになった。そのため、飯野糸の名前も遍く知れ渡るようになったが、その利はちっとも安達の地には回ってこない。
「何故、安達の糸が徒に他の商人らによって、好き勝手に己の儲けとされねばならぬのか、と思いましてな」
そう述べると、善蔵は勢いよく茶を啜り、「あちち」と顔を顰めた。当時の怒りを思い出したらしい。
「それで、己が当地の問屋として取締まろうと考えたわけでござるか?」
なるほど、商人は商人なりの戦いがあるらしい。
「左様。安達の糸をこれ以上余所者に好き勝手にさせ、儲けさせるようなことがあっては、なりませぬ」
鳴海は、思わず快哉の笑みを浮かべた。商人とは言え、その気概は武士は負けていないではないか。縫殿助や亡父が善蔵を頼ったというのも、分かる気がした。
「よくぞ、当地の糸を守ってくれた」
鳴海が軽く頭を下げると、善蔵は軽く目を見開いた。
「ほう……」
鳴海の返答が意外だったのか、善蔵は笑みを深めた。
「黄山殿の仰るように、鳴海殿はお話が分かる御仁のようですな」
「何の。黄山殿のご講釈を受けた故でござる」
善蔵の気概に自分と通じるものを感じ、いつの間にか、鳴海の口調は打ち解けたものとなっていた。
「鳴海様、これには続きがございましてな。この善蔵殿は、当地の糸を『針道糸』としてその名を揚ぐることに成功いたしました。現在、西陣のある京は尊攘派の巣窟となっておりましょう。当然、贅沢品である生糸を扱う糸問屋などは、浪士らが言いがかりをつける格好の標的となり申す。そこで……」
「なるほど」
鳴海にも、なぜ丹波らが横浜鎖港を避けたいか分かった気がする。今までは京で売れていた生糸が、不逞浪士が跋扈する京では思うように売れない可能性が出てきた。そこで善蔵らは、横浜開港を契機として、その目を海外へ向けたのである。生糸の上がりは、当然藩の財政の一端を担っている。
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