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第二章 尊攘の波濤
江戸震撼(1)
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それにしても、将軍である家茂公や将軍後見職である一橋慶喜は、なかなか江戸へ戻ってこない。二本松藩兵が江戸へ出兵させられているのは幕兵が軒並み将軍に付き従ったために、御台所である和宮警固をいずれかの藩兵に任せよとの勅命があったと聞く。その理論からすれば、家茂の帰府が許されなければ、江戸へ出張中の二本松藩兵もいつまでも帰れないのだった。
江戸藩邸からは、江戸の住民らは家財道具を江戸郊外へ避難させるなど、混乱が続いているとの知らせがもたらされていた。さらに、江戸に呼び戻されたという浪士組の領袖であった清河八郎は卯月一三日に暗殺され、江戸に戻ってきた浪士組はひとまず庄内藩預かりになったという。
その噂話を鳴海の元に運んできたのは、彦十郎家の御用聞きにと訪ってきた中島黄山だった。
もっとも御用聞きというのは表向きで、商いの関係で須賀川に赴いた際に、鳴海が守山藩の三浦平八郎とやりあったという噂を聞き込んできたからというのが、その真相だった。須賀川は、安達地方の生糸が三春城下を経由して行き着く先の宿駅である。さらに、守山藩とも縁が深い宿場町であることから、守山藩での変事について須賀川などで気になることを耳にしたら、たとえ噂話でも知らせてくれるよう黄山に頼んでいたのである。
「耳が早いな」
鳴海も、そう言って苦笑するしかなかった。
「鳴海殿も、守山藩との因縁が続きますな」
黄山も、りんが運んできた茶を啜りながら、茶菓子である玉屋の最中を鳴海に勧めた。玉屋の最中は、黄山が手土産に持ってきたものである。
黄山によると、今月一七日に先の七ヶ村に加えて守山領内一〇ヶ村が合同して、郡奉行所に助郷減免を訴え出た。これだけ騒ぎが大きくなると無視するわけにはいかなくなったものか、郡奉行である加納祐蔵と木村の庄屋も自身が江戸へ赴き、幕府に助郷免除を働き掛けたというのである。
「ふむ……。かの一事は三浦殿も本気だったということか」
鳴海の独り言を、黄山は聞き逃さなかった。
「やはり噂はまことでしたか」
鳴海と新十郎、そして錦見の間では特に上役に報告しなかったのだが、人の口に戸は立てられぬものである。鳴海は黄山の言葉に肯いた。
「たまたま郡山での膳に呼ばれた際に、大善寺村の農民が郡山陣屋に駆け込んできた」
特に換金性の高い特産物を持たない守山藩の領民の暮らしは、大変だろう。それに加えて、守山は水害の多い土地である。にも関わらず、こうも度々「助郷」を申し付けられたのでは、確かに農民らの不満も爆発しようというものだった。
「水戸の城下でも噂になっていたようです。一部の者らは、本当に助川表まで出向き、山野辺主水正様に訴え出たものの、守山に送り返されたと申します」
「山野辺主水正殿と申せば、水戸家中の老臣であろう?」
鳴海も、その名前には聞き覚えがあった。二本松の倍以上の石高を持つ水戸藩は恒常的に財政難であり、度々幕府より財政改善の注意を受けている。それにも関わらず、先代徳川斉昭の時代に、「海防」を理由に水戸藩では築城を幕府に認めさせた。一国一城の原則があるから本来は築城を認められないはずなのだが、古城の改修という名目で築城されたのが助川海防城であり、山野辺主水正はその城主だった。水戸藩の重鎮の一人であり、先に新十郎が三浦平八郎に対して「訴え掛けたらどうか」と挙げた名でもあった。
「左様。確か奥方様が水戸本家の姫君で、黄門公からのご信頼も厚いと伺っております」
黄山のいう「黄門公」とは、現在の水戸藩主である徳川慶篤を指す。水戸藩では、二代目の光圀公以来、藩主を「黄門」と呼ぶ習わしがあった。守山の農民が助川に訴えたのは、本気で幕府に取り上げてもらおうとしたからであろう。また、主水正自身も、そこそこ臣民からの人望が厚い君主だとの噂を耳にしたことがあった。
「然らば、まことに助郷免除が幕府に認められるかもしれぬな」
水戸藩の内情は、鳴海もうっすらと聞きかじっている程度にしか知らない。だが、御三家の家老格の意見を幕閣が無視できるとは思えない。それに、水戸藩まで掛け合いに出た者がいたということは、裏で三浦らは取締りに手心を加えたに違いなかった。
「ですが、鳴海殿。あの三浦平八郎という御仁は、やはり油断がなりませぬ」
感心した様子の鳴海に釘を刺すかの如く、黄山はぴしゃりと述べた。
「助郷の減免に尽力したのは、それなりに民を思う心からでしょう。ですがその一方で、あの御仁は黄門公上洛の折りに、守山藩の配下を加えさせております」
鳴海は、黄山の言葉にしばし黙考した。二月十三日に将軍家茂公が江戸を発ち、京都二条城に入ったのが三月四日。その将軍の護衛という名目で、水戸藩の慶篤も上洛の一行に加わっていたのだが、御連枝である守山藩も慶篤上洛の一団に含まれていた。
元々水戸藩は親藩諸大名の中でも公家との血縁関係が濃い家柄であり、先代斉昭の姉は鷹司家に嫁いでその子輔凞は現在の関白、そして斉昭の夫人は有栖川織仁親王の王女である。また、斉昭の子が多く、津々浦々に血縁をつないでいると言っても過言ではない。早い話が、水戸藩が幕府の意向に背き尊皇尊皇の領袖として祭り上げられても、何ら不思議ではないのだ。
黄山が挙げたのは、増子鼎一郎、太田新太郎、中村修之助、三本木鎗三郎、高野東八郎、三瓶閉三郎の六名。尊攘の気風が強い水戸藩の中では、上洛の一行に加わろうとするものが大勢いて、上層部でもその選抜に苦労したということである。その中に、御連枝の手勢を送り込んだのだから、黄山の述べるように、やはり三浦平八郎は油断がならない相手に違いなかった。
江戸藩邸からは、江戸の住民らは家財道具を江戸郊外へ避難させるなど、混乱が続いているとの知らせがもたらされていた。さらに、江戸に呼び戻されたという浪士組の領袖であった清河八郎は卯月一三日に暗殺され、江戸に戻ってきた浪士組はひとまず庄内藩預かりになったという。
その噂話を鳴海の元に運んできたのは、彦十郎家の御用聞きにと訪ってきた中島黄山だった。
もっとも御用聞きというのは表向きで、商いの関係で須賀川に赴いた際に、鳴海が守山藩の三浦平八郎とやりあったという噂を聞き込んできたからというのが、その真相だった。須賀川は、安達地方の生糸が三春城下を経由して行き着く先の宿駅である。さらに、守山藩とも縁が深い宿場町であることから、守山藩での変事について須賀川などで気になることを耳にしたら、たとえ噂話でも知らせてくれるよう黄山に頼んでいたのである。
「耳が早いな」
鳴海も、そう言って苦笑するしかなかった。
「鳴海殿も、守山藩との因縁が続きますな」
黄山も、りんが運んできた茶を啜りながら、茶菓子である玉屋の最中を鳴海に勧めた。玉屋の最中は、黄山が手土産に持ってきたものである。
黄山によると、今月一七日に先の七ヶ村に加えて守山領内一〇ヶ村が合同して、郡奉行所に助郷減免を訴え出た。これだけ騒ぎが大きくなると無視するわけにはいかなくなったものか、郡奉行である加納祐蔵と木村の庄屋も自身が江戸へ赴き、幕府に助郷免除を働き掛けたというのである。
「ふむ……。かの一事は三浦殿も本気だったということか」
鳴海の独り言を、黄山は聞き逃さなかった。
「やはり噂はまことでしたか」
鳴海と新十郎、そして錦見の間では特に上役に報告しなかったのだが、人の口に戸は立てられぬものである。鳴海は黄山の言葉に肯いた。
「たまたま郡山での膳に呼ばれた際に、大善寺村の農民が郡山陣屋に駆け込んできた」
特に換金性の高い特産物を持たない守山藩の領民の暮らしは、大変だろう。それに加えて、守山は水害の多い土地である。にも関わらず、こうも度々「助郷」を申し付けられたのでは、確かに農民らの不満も爆発しようというものだった。
「水戸の城下でも噂になっていたようです。一部の者らは、本当に助川表まで出向き、山野辺主水正様に訴え出たものの、守山に送り返されたと申します」
「山野辺主水正殿と申せば、水戸家中の老臣であろう?」
鳴海も、その名前には聞き覚えがあった。二本松の倍以上の石高を持つ水戸藩は恒常的に財政難であり、度々幕府より財政改善の注意を受けている。それにも関わらず、先代徳川斉昭の時代に、「海防」を理由に水戸藩では築城を幕府に認めさせた。一国一城の原則があるから本来は築城を認められないはずなのだが、古城の改修という名目で築城されたのが助川海防城であり、山野辺主水正はその城主だった。水戸藩の重鎮の一人であり、先に新十郎が三浦平八郎に対して「訴え掛けたらどうか」と挙げた名でもあった。
「左様。確か奥方様が水戸本家の姫君で、黄門公からのご信頼も厚いと伺っております」
黄山のいう「黄門公」とは、現在の水戸藩主である徳川慶篤を指す。水戸藩では、二代目の光圀公以来、藩主を「黄門」と呼ぶ習わしがあった。守山の農民が助川に訴えたのは、本気で幕府に取り上げてもらおうとしたからであろう。また、主水正自身も、そこそこ臣民からの人望が厚い君主だとの噂を耳にしたことがあった。
「然らば、まことに助郷免除が幕府に認められるかもしれぬな」
水戸藩の内情は、鳴海もうっすらと聞きかじっている程度にしか知らない。だが、御三家の家老格の意見を幕閣が無視できるとは思えない。それに、水戸藩まで掛け合いに出た者がいたということは、裏で三浦らは取締りに手心を加えたに違いなかった。
「ですが、鳴海殿。あの三浦平八郎という御仁は、やはり油断がなりませぬ」
感心した様子の鳴海に釘を刺すかの如く、黄山はぴしゃりと述べた。
「助郷の減免に尽力したのは、それなりに民を思う心からでしょう。ですがその一方で、あの御仁は黄門公上洛の折りに、守山藩の配下を加えさせております」
鳴海は、黄山の言葉にしばし黙考した。二月十三日に将軍家茂公が江戸を発ち、京都二条城に入ったのが三月四日。その将軍の護衛という名目で、水戸藩の慶篤も上洛の一行に加わっていたのだが、御連枝である守山藩も慶篤上洛の一団に含まれていた。
元々水戸藩は親藩諸大名の中でも公家との血縁関係が濃い家柄であり、先代斉昭の姉は鷹司家に嫁いでその子輔凞は現在の関白、そして斉昭の夫人は有栖川織仁親王の王女である。また、斉昭の子が多く、津々浦々に血縁をつないでいると言っても過言ではない。早い話が、水戸藩が幕府の意向に背き尊皇尊皇の領袖として祭り上げられても、何ら不思議ではないのだ。
黄山が挙げたのは、増子鼎一郎、太田新太郎、中村修之助、三本木鎗三郎、高野東八郎、三瓶閉三郎の六名。尊攘の気風が強い水戸藩の中では、上洛の一行に加わろうとするものが大勢いて、上層部でもその選抜に苦労したということである。その中に、御連枝の手勢を送り込んだのだから、黄山の述べるように、やはり三浦平八郎は油断がならない相手に違いなかった。
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