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第二章 尊攘の波濤
竹ノ内擬戦(10)
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「掃部助さま。こちらをお貸し頂きまして、誠にありがとうございました」
志摩の手には、二冊の本があった。
「それがしも拝見してよろしいですか?」
鳴海も、今回は志摩との擬戦で学んだ事は多々あった。負けた当日は悔しさになかなか寝付けなかったが、日が経つに従い、自分の未熟さを思い知らされると同時に、志摩を見直したのである。
「どうぞ。鳴海殿も、いつ本当に戦場にお立ちになるか分かりませぬからな。その一助になれば、幸いでござる」
にこやかに応じている掃部助だが、彼なりに家老として憂慮するところがあるのだろう。鳴海は志摩から手にした本を受け取ると、表題に目をやった。「陸軍字彙字書原稿」と「砲術新論」。それぞれの著者は、西村茂樹と大鳥圭介とある。両者とも、鳴海が聞いたことのない人物だった。
「両書とも、なかなか興味深かったですよ。確か、陸軍字彙字書原稿はプロイセンで出されたという兵法書の和訳で、砲術新論は最近幕府の兵法調練に関わっている方が書かれたはずです」
「プロイセン……」
鳴海は、その言葉にめまいを覚えた。そもそも、鳴海は西洋の学問とは今まで縁がなかった。プロイセンという国がどこにあるのかすら、見当がつかない。そして、何気なく巻末の頁を捲ってみると、思わず呻きそうになった。そこには、横文字で書かれた蘭語らしきものがあったのである。まさか、志摩は蘭語まで通暁しているのか。
「ご安心を。蘭語が書かれているのはそこだけで、後はれっきとした日本語ですよ。私だって、蘭語はさっぱりなんですから」
いつもの笑い上戸の志摩らしく、笑いを爆発させた。
「鳴海殿。よろしかったら、鳴海殿にもお貸しいたしましょう」
掃部助が、横から言い添えた。開明派の家老らは、どうやら自分にも西洋兵学の知識を身に着けてほしいらしい。確かに多少従来の方法に拘る者らであっても、番頭やそれに準じる詰番の命令とあれば、西洋兵法の命令に従わざるを得ないだろう。まして兵制の西洋化が幕命とあれば、いつ幕府からの監査が入るか分からない。
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きまする」
鳴海は素直に掃部助に頭を下げ、受け取った書物を懐に入れた。知恵の面にまで志摩に後れを取るわけにはいかないではないか。
「鳴海様。あちらで皆が鳴海様に献杯したいと、待っております」
鳴海を呼びに来たのは、右門である。右門は今回の擬戦を通して、五番組の面々とも仲を深めたようだ。鯉ばかりにかまける内向的な気性だと思っていたが、鳴海は右門の人柄についても見直した。
「直ぐに参るから、しばし待てと伝えよ」
鳴海がそう告げると、ちょっと頭を下げて、右門は小走りに五番組の皆が待つところへ駆けていった。
「そう言えば、右門の奴の働きは如何でしたかな?」
右門の姿が見えなくなると、与兵衛は小声で鳴海に尋ねた。今回の与兵衛は審判役を務め、兄の志摩は敵方となったことから、敢えて右門を突き放して接していた。だが、父親としてはやはり心配だったに違いない。
「右門は武辺者というのとは違うかもしれませぬが、見どころがあると感じました」
鳴海の言葉は、嘘ではない。先の偵察の折に、右門なりに兄の仕掛けに気づいていたようだったし、観察眼は人一倍優れている。それを上手いこと活かせなかったのは、将である鳴海の責任だった。右門は兄の志摩の影に隠れがちだが、志摩とは違う形で成功を修めるかもしれないと、鳴海は踏んでいた。それに加えて、五番組の面々に可愛がられているから、これからまだまだ成長するだろう。
「左様か」
鳴海の言葉に、与兵衛がほっと安堵のため息をこぼした。
「本当ですか?鳴海殿。我々に遠慮しているのではないでしょうね」
まだ訝しがる志摩に、鳴海は軽く笑ってみせた。
「遠慮などしておらぬ。五番組に右門が配されたのは、我々五番組にとって幸甚だった。お主も、もう少し弟を信じてやれ」
鳴海の言葉に、ようやく志摩も白い歯を覗かせ、心からの笑顔を開いてみせたのだった――。
志摩の手には、二冊の本があった。
「それがしも拝見してよろしいですか?」
鳴海も、今回は志摩との擬戦で学んだ事は多々あった。負けた当日は悔しさになかなか寝付けなかったが、日が経つに従い、自分の未熟さを思い知らされると同時に、志摩を見直したのである。
「どうぞ。鳴海殿も、いつ本当に戦場にお立ちになるか分かりませぬからな。その一助になれば、幸いでござる」
にこやかに応じている掃部助だが、彼なりに家老として憂慮するところがあるのだろう。鳴海は志摩から手にした本を受け取ると、表題に目をやった。「陸軍字彙字書原稿」と「砲術新論」。それぞれの著者は、西村茂樹と大鳥圭介とある。両者とも、鳴海が聞いたことのない人物だった。
「両書とも、なかなか興味深かったですよ。確か、陸軍字彙字書原稿はプロイセンで出されたという兵法書の和訳で、砲術新論は最近幕府の兵法調練に関わっている方が書かれたはずです」
「プロイセン……」
鳴海は、その言葉にめまいを覚えた。そもそも、鳴海は西洋の学問とは今まで縁がなかった。プロイセンという国がどこにあるのかすら、見当がつかない。そして、何気なく巻末の頁を捲ってみると、思わず呻きそうになった。そこには、横文字で書かれた蘭語らしきものがあったのである。まさか、志摩は蘭語まで通暁しているのか。
「ご安心を。蘭語が書かれているのはそこだけで、後はれっきとした日本語ですよ。私だって、蘭語はさっぱりなんですから」
いつもの笑い上戸の志摩らしく、笑いを爆発させた。
「鳴海殿。よろしかったら、鳴海殿にもお貸しいたしましょう」
掃部助が、横から言い添えた。開明派の家老らは、どうやら自分にも西洋兵学の知識を身に着けてほしいらしい。確かに多少従来の方法に拘る者らであっても、番頭やそれに準じる詰番の命令とあれば、西洋兵法の命令に従わざるを得ないだろう。まして兵制の西洋化が幕命とあれば、いつ幕府からの監査が入るか分からない。
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きまする」
鳴海は素直に掃部助に頭を下げ、受け取った書物を懐に入れた。知恵の面にまで志摩に後れを取るわけにはいかないではないか。
「鳴海様。あちらで皆が鳴海様に献杯したいと、待っております」
鳴海を呼びに来たのは、右門である。右門は今回の擬戦を通して、五番組の面々とも仲を深めたようだ。鯉ばかりにかまける内向的な気性だと思っていたが、鳴海は右門の人柄についても見直した。
「直ぐに参るから、しばし待てと伝えよ」
鳴海がそう告げると、ちょっと頭を下げて、右門は小走りに五番組の皆が待つところへ駆けていった。
「そう言えば、右門の奴の働きは如何でしたかな?」
右門の姿が見えなくなると、与兵衛は小声で鳴海に尋ねた。今回の与兵衛は審判役を務め、兄の志摩は敵方となったことから、敢えて右門を突き放して接していた。だが、父親としてはやはり心配だったに違いない。
「右門は武辺者というのとは違うかもしれませぬが、見どころがあると感じました」
鳴海の言葉は、嘘ではない。先の偵察の折に、右門なりに兄の仕掛けに気づいていたようだったし、観察眼は人一倍優れている。それを上手いこと活かせなかったのは、将である鳴海の責任だった。右門は兄の志摩の影に隠れがちだが、志摩とは違う形で成功を修めるかもしれないと、鳴海は踏んでいた。それに加えて、五番組の面々に可愛がられているから、これからまだまだ成長するだろう。
「左様か」
鳴海の言葉に、与兵衛がほっと安堵のため息をこぼした。
「本当ですか?鳴海殿。我々に遠慮しているのではないでしょうね」
まだ訝しがる志摩に、鳴海は軽く笑ってみせた。
「遠慮などしておらぬ。五番組に右門が配されたのは、我々五番組にとって幸甚だった。お主も、もう少し弟を信じてやれ」
鳴海の言葉に、ようやく志摩も白い歯を覗かせ、心からの笑顔を開いてみせたのだった――。
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