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第二章 尊攘の波濤
竹ノ内擬戦(7)
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幸い、天気も穏やかな日々が続いた。たとえ雨が降ったとしてもそれはそれで調練の一環となるので、擬戦は決行されることになっていたが、鳴海はほっとした。どうせなら、天気に恵まれた中で戦いたい。
それにしても、あれから志摩の様子は伺い知れなかった。向かいの本家に六番組の人間がしきりに出入りしているところを見ると、どうやら志摩なりに何か作戦を練ってはいるようだったが、与兵衛親子が右門を彦十郎家に預けている一事からしても、情報管理は徹底していた。そもそも鳴海の見たところ、志摩自身もしきりにどこかへ出かけているようだった。
十四日も天候は穏やかで、粟ノ巣古戦場のところにある田は水鏡となり、山躑躅の朱色や芽吹き初めた山の萌黄色を映し出し、目にも鮮やかである。
「皆、ぬかるな。六番組に後れを取るまいぞ!」
鳴海の激に、「おう」という声があちこちから上がった。その様子に、鳴海は満足を覚えた。鳴海としてはいずれも不本意であったが、守山の三浦と複数回対峙したことが、「口先だけではなく、実際に自分らと共に二本松のために戦ってくれる将」としての評判を広めつつあったのである。
後は、明朝からの擬戦に備えて斥候を出さなければならない。予ての打ち合わせ通り、昼飯を取った後、井上と右門は進軍予定の道筋に偵察に出かけていった。また伏兵となる予定の小笠原も、明朝の糧食を持参して、大きく迂回して神明石の方から曲がり角の方に先行した。双方の伝令役は、弓術にも長けた成渡が務める。
やがて、井上と右門が戻ってきた。右門の顔は、やはり浮かない。
「右門。いい加減に景気の良い顔をせぬか。そのように湿気た面持ちでは、足軽らが不安になる」
鳴海は、小声で右門を叱りつけた。たとえ虚勢であろうとも、将たる者は部下の手前、不安を感じさせないのも役割の一つである。
「右門殿。鳴海殿に申し上げられよ」
井上が、右門を励ました。どうやら、何か存念があるらしい。その言葉に励まされたか、右門が思い切ったように、顔を上げた。
「鳴海殿。やはり、水路に魚がおりません。あれは、兄上が既にあちらに人を伏せているために、魚が姿を隠すか浅川本流に逃げているのではありませんか」
ぎょっとした。
「まことか」
「はっきりとは断じ得ませぬが」
井上も肯いたところを見ると、先日から二人は同じ懸念を抱いていたのだろう。右門の言葉が正しいとすれば、五番組が偵察した頃には、既にこの地で六番組は何らかの細工をしていたものと思われる。水路にいるはずの魚はそれらの気配を察して姿を消した。それに、と右門は右手を差し出した。その手には、泥に塗れた草が握りしめられている。
「道筋の田のところどころに、草が敷かれておりました。あれは、田のぬかるみに己らが嵌らぬようにするための敷草かと思われます」
鳴海は助けを求めようと、松井を振り返った。松井の顔も強張っている。
「確かに、『ふけをこすには敷草を致し道をあつる事』という教えがございます」
これから田植えを迎えようとする農民らは怒るだろうが、志摩はどのように渡りをつけたものか、付近の農民らに田に足を入れされることを認めさせたのだろう。敷草は、泥田に嵌らないようにするために草を敷いて田の中に通り道を作ることを言う。もちろん、そちらからも攻めてくるつもりに違いない。それらの敷草を取り除かさせる時間もなかった。
もう一度、皆で地図を睨みつけた。改めて見ると、竹ノ内から浅川までの道筋は、街道の左側が山林、そして右手が開けた田となっている。志摩は五番組に気づかれないように兵力を二分し、一方を山林側へ伏せ、もう一組を田の方から追い立て、五番組を追い詰めるつもりらしかった。
「どうやら谷戦の『挟みて討つ事』を実行するおつもりですな。それに加えて林戦の『林に頼りて備えを立て、兵を隠す事』も組み合わせておられましょう」
松井が唸った。鳴海も、志摩の作戦に舌を巻かざるを得ない。
それに、と右門は続けた。水路近くの田には、蜘蛛の巣が見つからなかった。夜に蜘蛛が巣を張らないのは妙であり、やはり志摩があちこちに伏兵を置いているとしか考えられない。その言葉を聞いて、鳴海は確信した。志摩は作戦が決まったときから、鳴海が地の利を得やすい粟ノ巣を選ぶと見込み、それについて特に文句を付けないことで鳴海の油断を誘った。兵数は双方とも五分であるから、後は常日頃から如何に部下と心を通わせているかが勝負になる。志摩は己の指揮に頼らなくても各自が動けるように、日頃から特訓してあるのだろう。そうでなければ、少ない手勢をこれほど大胆に散開させることができるはずがなかった。
「志摩殿のように、少ない手勢に各々の持ち場を任せるというのは、見たことがございませぬ」
井上が呟いた。井上も松井も、それなりに兵法には通じているらしい。彼らが見たことがないとすれば、従来の兵法にはない手法なのかもしれなかった。
これを破る方法はあるか。
鳴海の胸の内の疑問に答えるように、松井は強張った顔のまま、「明朝は、合図と共に速やかに竹ノ内を超え行きて、その場にとどまらぬよう皆に申し付けるしかございますまい」と述べた。当初の方針通り、五番組は素早く目的地に辿り着くことを主眼とする。伏兵を引き受けた小笠原は本隊の援護を担っているから、そのまま持ち場を任せる。だが、これだけ大胆な作戦を展開してのけた志摩が率いる六番組に対して、勝ち目は見出だせなかった。もちろん、口に出せることではないが。
それにしても、あれから志摩の様子は伺い知れなかった。向かいの本家に六番組の人間がしきりに出入りしているところを見ると、どうやら志摩なりに何か作戦を練ってはいるようだったが、与兵衛親子が右門を彦十郎家に預けている一事からしても、情報管理は徹底していた。そもそも鳴海の見たところ、志摩自身もしきりにどこかへ出かけているようだった。
十四日も天候は穏やかで、粟ノ巣古戦場のところにある田は水鏡となり、山躑躅の朱色や芽吹き初めた山の萌黄色を映し出し、目にも鮮やかである。
「皆、ぬかるな。六番組に後れを取るまいぞ!」
鳴海の激に、「おう」という声があちこちから上がった。その様子に、鳴海は満足を覚えた。鳴海としてはいずれも不本意であったが、守山の三浦と複数回対峙したことが、「口先だけではなく、実際に自分らと共に二本松のために戦ってくれる将」としての評判を広めつつあったのである。
後は、明朝からの擬戦に備えて斥候を出さなければならない。予ての打ち合わせ通り、昼飯を取った後、井上と右門は進軍予定の道筋に偵察に出かけていった。また伏兵となる予定の小笠原も、明朝の糧食を持参して、大きく迂回して神明石の方から曲がり角の方に先行した。双方の伝令役は、弓術にも長けた成渡が務める。
やがて、井上と右門が戻ってきた。右門の顔は、やはり浮かない。
「右門。いい加減に景気の良い顔をせぬか。そのように湿気た面持ちでは、足軽らが不安になる」
鳴海は、小声で右門を叱りつけた。たとえ虚勢であろうとも、将たる者は部下の手前、不安を感じさせないのも役割の一つである。
「右門殿。鳴海殿に申し上げられよ」
井上が、右門を励ました。どうやら、何か存念があるらしい。その言葉に励まされたか、右門が思い切ったように、顔を上げた。
「鳴海殿。やはり、水路に魚がおりません。あれは、兄上が既にあちらに人を伏せているために、魚が姿を隠すか浅川本流に逃げているのではありませんか」
ぎょっとした。
「まことか」
「はっきりとは断じ得ませぬが」
井上も肯いたところを見ると、先日から二人は同じ懸念を抱いていたのだろう。右門の言葉が正しいとすれば、五番組が偵察した頃には、既にこの地で六番組は何らかの細工をしていたものと思われる。水路にいるはずの魚はそれらの気配を察して姿を消した。それに、と右門は右手を差し出した。その手には、泥に塗れた草が握りしめられている。
「道筋の田のところどころに、草が敷かれておりました。あれは、田のぬかるみに己らが嵌らぬようにするための敷草かと思われます」
鳴海は助けを求めようと、松井を振り返った。松井の顔も強張っている。
「確かに、『ふけをこすには敷草を致し道をあつる事』という教えがございます」
これから田植えを迎えようとする農民らは怒るだろうが、志摩はどのように渡りをつけたものか、付近の農民らに田に足を入れされることを認めさせたのだろう。敷草は、泥田に嵌らないようにするために草を敷いて田の中に通り道を作ることを言う。もちろん、そちらからも攻めてくるつもりに違いない。それらの敷草を取り除かさせる時間もなかった。
もう一度、皆で地図を睨みつけた。改めて見ると、竹ノ内から浅川までの道筋は、街道の左側が山林、そして右手が開けた田となっている。志摩は五番組に気づかれないように兵力を二分し、一方を山林側へ伏せ、もう一組を田の方から追い立て、五番組を追い詰めるつもりらしかった。
「どうやら谷戦の『挟みて討つ事』を実行するおつもりですな。それに加えて林戦の『林に頼りて備えを立て、兵を隠す事』も組み合わせておられましょう」
松井が唸った。鳴海も、志摩の作戦に舌を巻かざるを得ない。
それに、と右門は続けた。水路近くの田には、蜘蛛の巣が見つからなかった。夜に蜘蛛が巣を張らないのは妙であり、やはり志摩があちこちに伏兵を置いているとしか考えられない。その言葉を聞いて、鳴海は確信した。志摩は作戦が決まったときから、鳴海が地の利を得やすい粟ノ巣を選ぶと見込み、それについて特に文句を付けないことで鳴海の油断を誘った。兵数は双方とも五分であるから、後は常日頃から如何に部下と心を通わせているかが勝負になる。志摩は己の指揮に頼らなくても各自が動けるように、日頃から特訓してあるのだろう。そうでなければ、少ない手勢をこれほど大胆に散開させることができるはずがなかった。
「志摩殿のように、少ない手勢に各々の持ち場を任せるというのは、見たことがございませぬ」
井上が呟いた。井上も松井も、それなりに兵法には通じているらしい。彼らが見たことがないとすれば、従来の兵法にはない手法なのかもしれなかった。
これを破る方法はあるか。
鳴海の胸の内の疑問に答えるように、松井は強張った顔のまま、「明朝は、合図と共に速やかに竹ノ内を超え行きて、その場にとどまらぬよう皆に申し付けるしかございますまい」と述べた。当初の方針通り、五番組は素早く目的地に辿り着くことを主眼とする。伏兵を引き受けた小笠原は本隊の援護を担っているから、そのまま持ち場を任せる。だが、これだけ大胆な作戦を展開してのけた志摩が率いる六番組に対して、勝ち目は見出だせなかった。もちろん、口に出せることではないが。
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