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第二章 尊攘の波濤
守山藩(2)
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さらに弥生に入ると、江戸目付である天野半左衛門が二本松に急遽帰藩し、幕府の留守方が江戸の警衛を二本松藩に頼みたがっているという知らせをもたらした。既に将軍家茂は水戸藩の慶篤などと共に上洛の途に就いており、それに従って旗本や御家人らも、大勢江戸を留守にしているのだ。幕閣らが心配するのも、無理はない。
「幕命とあらば、是非はあるまい。余もただちに出府いたそう」
長国公の決断は、素早かった。
「奥方様らと、入れ違いになりますな」
丹波が、珍しく軽口を叩いた。基本的に、今まで正室や嫡子は江戸屋敷に住むことが定められていたから、家臣らの中には長国公の家族の顔を見知らぬ者も大勢いる。出府経験のない鳴海も、その一人だった。
そして、江戸警衛が任されるとなれば、その人数はそれなりの人数が必要とされるだろう。現在、富津に赴いているのは日野大内蔵の率いる二番組である。となれば、残りの七番組のうち、いずれの番組が派遣されるものか。彦十郎家は執政もしくは番頭を任される家柄だが、鳴海は在府経験がない。自ずと、期するものがあった。
そんな鳴海の思いを知ってか知らずか、臨時で番頭職を引き受けている和田弥一右衛門も含め、前方では家老や番頭らが頭を寄せ合って何やら小声で話し合っている。番頭らの後ろに控えている鳴海のところまでは、その話し声は届いてこなかった。
やがて話がまとまったのか、丹波が御前まで膝行して顔を上げた。
「江戸には、江口殿、四番組種橋主馬介殿、七番組高根三右衛門殿らに行って頂く所存でござる」
鳴海は思わず俯いた。自分の名前は含まれていない。続けて、次々と派遣者の名前が発表された。その中には、兵学者である小川平助の名前もあった。人数にしておよそ千人ほどの大所帯である。富津に出向いている二番隊の分も合わせると、二本松藩の兵の半数近くが出払う計算となる。
あからさまな落胆の色が出ていたのだろうか。隣に座っていた志摩が、ちらりとこちらを見た
会議終了後、鳴海は落の間で志摩と向き合った。
「鳴海殿。ご活躍の場がなくて、がっかりなされているでしょう」
志摩は、小者に運ばせてきた茶を啜りながら述べた。
「そのようなことはない。まだ詰番なのだから、仕方あるまい」
とはいえ、四番組の種橋は鳴海と同い年なのである。同年代の者が華々しく活躍しているのを傍らで見せられれば、自ずと焦りは生まれる。
「そもそも番頭が必要とされる軍務自体が、そうそうあってはたまりませんし。彦十郎家は先年縫殿助殿が富津在番を務められていたばかりですから、当面は国元で通常の役割を振られるでしょう」
「それはそうなのだがな」
鳴海も、志摩の言うことは納得できる。だが、その割にどうしたことか、鳴海自身は妙に政治的な厄介事に巻き込まれがちだ。そのためか、どこかで次は自分にも華々しい役割を与えられると思い込んでいたのかもしれない。もっとも行政にまつわる仕事は本来の番頭の役割ではないのだが、回り回って二本松の軍事体制にも関わりかねないとすれば、放置できるものでもないのだが。
「鳴海殿がそれだけ頼りになるということでしょう」
三浦権太夫の義兄である樽井も相槌を打つ。
「そう言えば、そろそろ春の参勤も始まるでしょう。となれば……」
「また、助郷に関する騒ぎが起きるとも限らぬか」
樽井の言葉に、鳴海は眉根を寄せた。昨年の暮に、小原田騒動の助っ人として郡山に呼ばれ、守山藩の三浦平八郎と対峙した記憶は生々しい。
「遠代官の方々も、大変ですよね。大助郷に駆り出されるのは街道筋から離れた村々ですし、その手伝いを説得するのは、遠代官の方々というわけでしょう?」
志摩も、相槌を打った。
そこへやってきたのは、新十郎だった。近頃は、地方の長として、ますます活躍しているようである。
「鳴海殿。錦見殿からの伝言を預かっています」
「それがしに?」
鳴海は戸惑った。小原田騒動の件は、片付いたのではなかったのか。その懸念を察したのか、新十郎は苦笑した。
「そう身構えられますな。あれから郡山組は平穏でござる」
そう述べると、新十郎は懐から書状を取り出した。開いてみると、確かに鳴海宛の書状で、年末に助っ人を頼んだ返礼としてもてなしたいので、郡山の陣屋に遊びに来ないかという誘いである。
だが鳴海が郡山を訪れると、どうも変事に巻き込まれがちなのは否めない。
「鳴海殿。せっかくですから、安積国造神社にでも参拝されたら如何です?あそこは、安積艮斎先生のご実家でしょう?確か艮斎先生は養泉様とも交流があったはずです」
志摩の助言に、心が動いた。安積艮斎は、志摩の言うように元は二本松藩の総鎮守である二本松神社の神主、安藤家にゆかりの深い学者である。亡父が艮斎と交流があったのは知らなかったが、艮斎も既に故人であり、亡父に代わって香華を手向けに行くというならば、彦十郎家の面々もうるさくは言うまい。安積国造神社は、郡山陣屋から目と鼻の先である。鳴海一人で行くのならば、馬を飛ばして日帰りにすればよい。
「それがよろしかろう。養泉様へのご供養にもなります」
新十郎も、笑顔を向けた。
「承知仕った。ただし、大仰なもてなしは不要と錦見殿にお伝え頂きたい」
鳴海の言葉に、新十郎が笑った。
「確かに、鳴海殿に対して芸妓らを以てもてなすのは無粋というものでしょう」
この分だと、どうやら新十郎も羽木の余計な気遣いの一件を聞き及んでいるものと推察された。
「鳴海殿は、元々女性が苦手ですからねえ。鳴海殿に芸妓を付けたら、双方にとって不幸な席となりましょう」
からかいを含んだ志摩を、鳴海は軽く睨みつけた。これが大谷一族だけの席だったならば、遠慮なく締め上げるところである。
「では、明後日ではいかがか?それがしも、錦見殿からの報告を受ける用件があり、郡山陣屋に参る所存でございまする。差し支えがなければ、連れ立ってもよろしいでしょうか」
新十郎も、鳴海があまり人付き合いが得意でないのは察しているらしい。鳴海も近頃は人と交わる事を覚えたとは言え、錦見とは特に親しいわけでもない。場の雰囲気を作ってくれる人物が同席するのは、ありがたかった。
「幕命とあらば、是非はあるまい。余もただちに出府いたそう」
長国公の決断は、素早かった。
「奥方様らと、入れ違いになりますな」
丹波が、珍しく軽口を叩いた。基本的に、今まで正室や嫡子は江戸屋敷に住むことが定められていたから、家臣らの中には長国公の家族の顔を見知らぬ者も大勢いる。出府経験のない鳴海も、その一人だった。
そして、江戸警衛が任されるとなれば、その人数はそれなりの人数が必要とされるだろう。現在、富津に赴いているのは日野大内蔵の率いる二番組である。となれば、残りの七番組のうち、いずれの番組が派遣されるものか。彦十郎家は執政もしくは番頭を任される家柄だが、鳴海は在府経験がない。自ずと、期するものがあった。
そんな鳴海の思いを知ってか知らずか、臨時で番頭職を引き受けている和田弥一右衛門も含め、前方では家老や番頭らが頭を寄せ合って何やら小声で話し合っている。番頭らの後ろに控えている鳴海のところまでは、その話し声は届いてこなかった。
やがて話がまとまったのか、丹波が御前まで膝行して顔を上げた。
「江戸には、江口殿、四番組種橋主馬介殿、七番組高根三右衛門殿らに行って頂く所存でござる」
鳴海は思わず俯いた。自分の名前は含まれていない。続けて、次々と派遣者の名前が発表された。その中には、兵学者である小川平助の名前もあった。人数にしておよそ千人ほどの大所帯である。富津に出向いている二番隊の分も合わせると、二本松藩の兵の半数近くが出払う計算となる。
あからさまな落胆の色が出ていたのだろうか。隣に座っていた志摩が、ちらりとこちらを見た
会議終了後、鳴海は落の間で志摩と向き合った。
「鳴海殿。ご活躍の場がなくて、がっかりなされているでしょう」
志摩は、小者に運ばせてきた茶を啜りながら述べた。
「そのようなことはない。まだ詰番なのだから、仕方あるまい」
とはいえ、四番組の種橋は鳴海と同い年なのである。同年代の者が華々しく活躍しているのを傍らで見せられれば、自ずと焦りは生まれる。
「そもそも番頭が必要とされる軍務自体が、そうそうあってはたまりませんし。彦十郎家は先年縫殿助殿が富津在番を務められていたばかりですから、当面は国元で通常の役割を振られるでしょう」
「それはそうなのだがな」
鳴海も、志摩の言うことは納得できる。だが、その割にどうしたことか、鳴海自身は妙に政治的な厄介事に巻き込まれがちだ。そのためか、どこかで次は自分にも華々しい役割を与えられると思い込んでいたのかもしれない。もっとも行政にまつわる仕事は本来の番頭の役割ではないのだが、回り回って二本松の軍事体制にも関わりかねないとすれば、放置できるものでもないのだが。
「鳴海殿がそれだけ頼りになるということでしょう」
三浦権太夫の義兄である樽井も相槌を打つ。
「そう言えば、そろそろ春の参勤も始まるでしょう。となれば……」
「また、助郷に関する騒ぎが起きるとも限らぬか」
樽井の言葉に、鳴海は眉根を寄せた。昨年の暮に、小原田騒動の助っ人として郡山に呼ばれ、守山藩の三浦平八郎と対峙した記憶は生々しい。
「遠代官の方々も、大変ですよね。大助郷に駆り出されるのは街道筋から離れた村々ですし、その手伝いを説得するのは、遠代官の方々というわけでしょう?」
志摩も、相槌を打った。
そこへやってきたのは、新十郎だった。近頃は、地方の長として、ますます活躍しているようである。
「鳴海殿。錦見殿からの伝言を預かっています」
「それがしに?」
鳴海は戸惑った。小原田騒動の件は、片付いたのではなかったのか。その懸念を察したのか、新十郎は苦笑した。
「そう身構えられますな。あれから郡山組は平穏でござる」
そう述べると、新十郎は懐から書状を取り出した。開いてみると、確かに鳴海宛の書状で、年末に助っ人を頼んだ返礼としてもてなしたいので、郡山の陣屋に遊びに来ないかという誘いである。
だが鳴海が郡山を訪れると、どうも変事に巻き込まれがちなのは否めない。
「鳴海殿。せっかくですから、安積国造神社にでも参拝されたら如何です?あそこは、安積艮斎先生のご実家でしょう?確か艮斎先生は養泉様とも交流があったはずです」
志摩の助言に、心が動いた。安積艮斎は、志摩の言うように元は二本松藩の総鎮守である二本松神社の神主、安藤家にゆかりの深い学者である。亡父が艮斎と交流があったのは知らなかったが、艮斎も既に故人であり、亡父に代わって香華を手向けに行くというならば、彦十郎家の面々もうるさくは言うまい。安積国造神社は、郡山陣屋から目と鼻の先である。鳴海一人で行くのならば、馬を飛ばして日帰りにすればよい。
「それがよろしかろう。養泉様へのご供養にもなります」
新十郎も、笑顔を向けた。
「承知仕った。ただし、大仰なもてなしは不要と錦見殿にお伝え頂きたい」
鳴海の言葉に、新十郎が笑った。
「確かに、鳴海殿に対して芸妓らを以てもてなすのは無粋というものでしょう」
この分だと、どうやら新十郎も羽木の余計な気遣いの一件を聞き及んでいるものと推察された。
「鳴海殿は、元々女性が苦手ですからねえ。鳴海殿に芸妓を付けたら、双方にとって不幸な席となりましょう」
からかいを含んだ志摩を、鳴海は軽く睨みつけた。これが大谷一族だけの席だったならば、遠慮なく締め上げるところである。
「では、明後日ではいかがか?それがしも、錦見殿からの報告を受ける用件があり、郡山陣屋に参る所存でございまする。差し支えがなければ、連れ立ってもよろしいでしょうか」
新十郎も、鳴海があまり人付き合いが得意でないのは察しているらしい。鳴海も近頃は人と交わる事を覚えたとは言え、錦見とは特に親しいわけでもない。場の雰囲気を作ってくれる人物が同席するのは、ありがたかった。
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