鬼と天狗

篠川翠

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第一章 義士

脛毛の筆(4)

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「ですが……」
 尚も言い募ろうとする権太夫に、鳴海は言葉を重ねた。
「そなたが江戸で猿田と密会するという情報は、守山に抱き込まれた芳之助が漏らしたものだ。平八郎殿と芳之助は、郡山で二本松の助郷軽減の嘆願を邪魔までしてくれたぞ」
「何のために……」
 権太夫の声が、微かに震えた。元々は、農民を愛する権太夫である。さすがに、二本松領の農民の負担が増えるのを見過ごすわけにはいかなかったのだろう。
「守山領の農民の負担分を軽減する目的で、間接的に二本松に負担を押し付けようという魂胆なのか」
 十右衛門の声も、怒りが含まれている。守山の負担は気の毒だが、二本松の負担も限界を超えている。むしろ、領地は二本松の方が広いため、その分の軍事負担などは二本松の方が遥かに重かった。二本松の負担がこれ以上増えるのは、困るのだ。
「それだけではあるまい。己らの目的を実現するため都合の悪い部分を隠し、他藩の者の良心を利用した」
 言いながら、鳴海は唇が寒くなった。
「尊皇攘夷の実現。だが、彼らが主張する横浜鎖港を実行されれば、二本松の財政は大きな打撃を受ける」
 鳴海も、黄山に指摘されなければ気づかなかっただろう。尊皇攘夷の思想に基づき神国を守ると言えば聞こえがいいが、現実は既に諸外国に向けて一度窓を開いた以上、再び鎖国するのは困難である。また、貿易で利を上げている者らにとっては、攘夷はむしろ迷惑でしかない。
 二本松の富津在番も、本来は江戸近海の領民の不安を解消するために幕府から命じられたものではあるが、十年も引き受けていれば、負担でしかなかった。富津の住民からは「是非とも富津の警護をこのまま二本松様にお願いしたい」と嘆願書まで出されているが、幕府の動き次第でどうなるか。富津のことも、先が読めない。
 権太夫は、顔を俯かせて何やら考え込んでいるようだった。本来、武士が商売をするのは禁じられている。鳴海が黄山から聞き込んできた話は、盲点だったはずである。
「ですが、鳴海殿。主が誤った方向に進もうとしていれば、それを糺すのも忠臣の役目かと存じます。鳴海殿も、旧臣による専横の弊害については、感じていらっしゃるのでしょう?」
 再び顔を上げた権太夫の目は、やはり澄んでいた。
 まだ言うか、と思わないでもない。おまけに、見るべきところは見ている。だが、その言には紛れもなく国を思う故の真摯さが含まれていた。少なくとも、芳之助のような卑屈さから生じる私心ではない。樽井や和左衛門らが必死になってこの男を庇い立てするのが、少しわかるような気がした。
「では、言い方を変える」
 鳴海は、牢屋の黴臭い空気を大きく吸い込んだ。
「さるお方に言われた。公はどの家臣らも慈しんで股肱の臣と思っておられるが、家臣はその優しさに必要以上に甘えてはならぬ、と。その言葉の意味を、そなたも今一度考えよ」
 鳴海の言葉に、権太夫が目を見開いた。権太夫の言葉は、一理ある。だが、肝心の公のお心を蔑ろにしたまま献言したのでは、やはり不敬ではないのか。
 それは、丹波らも権太夫らも等しく同じことで、祐吉君なりの双方への戒めに違いなかった。
「さるお方とは……」
「それは言えぬな」 
 鳴海は、軽くいなした。目の前の男の行動が忠義心からであることはわかったが、己の信念に捕われるあまり、言葉の主を明かせば、今度は結城藩にまで足を運んで騒ぎを起こしかねない。やはり、二本松に留めて他藩の者と接触させないのが、穏当だろう。
「そなたは、他の者からの信も得ているのだ。己の忠義を別な形で藩のために役立て、信じる者らのために応えよ」
 鳴海はそう言い切ると、格子の向こうの権太夫に背を向けた。返答はなかったが、多少なりとも鳴海の言葉は届いたのではないか。
 牢番から鳴海の本来の所用である牢の報告書を受け取り、揚屋の外へ連れ立って出ると、十右衛門がほうっと大きく息を吐いた。
「やはり、お主は彦十郎家の者だな」
 鳴海は眉を上げた。
「それは、どのような意味だ」
 相手が旧友であるから皮肉とは思わなかったが、先に似たような呪詛を吐かれたばかりである。自分が知らぬうちに変わっていたとすれば、それはそれで恐ろしかった。
「視座が、やはり我々とは違う」
 十右衛門はすっと目を細めたが、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。皮肉の意味で吐かれた言葉でないことに、鳴海は内心安堵した。
「番頭は武官たる故、戦の指揮を取れればそれで十分と思っていたのだが」
 鳴海も笑った。どうやら彦十郎家の当主という立場は、本来の自分とは別の人格を生みつつあるらしい。
「先程義彰に掛けた言葉などは、番頭というよりも執政のようだった」
「そうか?」
 もっとも、鳴海自身が番頭の後に執政職に就くとすれば、それは遥か遠い未来になる。それまで二本松の藩政が安定していれば、の話であるが。
「義彰も、あれで多少は大人しくなると良いのだがな」
 十右衛門の声色はまだ棘が含まれているが、その棘も先刻よりは柔らかいものとなっている。やはり身内ということで、十右衛門なりに甥の身を案じていたのだろう。
「この先お主が偉くなったら、今のように易易とは語り合えなくなるのだろうな」
 寂しげに吐かれた十右衛門の言葉に、鳴海は首を振ってみせた。
 大身の家の者としての自覚はあるが、その一方で、丹波のような示威的な振る舞いは自分の性分には合わない。本来はいらぬことに首を突っ込まない質だが、藩のためにと粉骨砕身しているうちに、いつの間にか多くの人間と関わるようになってもいた。身分が引き上げられたからといって、己の性分はそう簡単に捨てられるものではない。
「三浦家は、善之進様の御趣味が良いと聞いている。一度拝見したいものだ」
 鳴海は、わざとおどけてみせた。善之進は、十右衛門の長兄であり権太夫の父である。画に長じていて自ら白河の春木南湖に学び、また、三浦家の庭園には四季折々の樹木が植えられ、池には錦鯉が放たれているとのことだった。
 三浦家は権太夫の奇行ばかりが目立つが、本来は文武両方を愛する典型的な二本松武士の家柄である。やはり、簡単に潰して良い家ではなかった。
「その旨、兄上にも話しておこう。一度蔵場丁の屋敷にゆるりと遊びに来られよ」
 鳴海の言葉に釣られたか、今度は十右衛門も屈託のない笑みを浮かべてみせた。
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