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第一章 義士
脛毛の筆(1)
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二月に入ると寒気が緩み始めた。時々屋根から雪の塊がどさりと音を立てて滑り落ちる。家の者たちは、危ないからと軒下に出来た氷柱を折って回った。そんな中、江戸から帰藩した丹波は、早速一同を大書院に集めて三浦権太夫の処分を言い渡した。
永の暇もしくは、終身揚屋入りさせる。その処分が丹波の口から告げられると、書院にはどよめきが走った。
「永暇か終身揚屋……」
絶句したのは、三浦権太夫の義弟に当たる樽井弥五右衛門だった。永暇は免官の上で武士としての公権を停止する処分だった。揚屋は、いわゆる牢屋である。そのような処分に処されるというのは、よほどのことである。丹波の怒りの深さがその一事からも知れる。
「それはあまりにも厳しすぎるのではございませぬか」
庇い立てする樽井に対し、丹波は首を横に振った。
「いや、寧ろ甘すぎるくらいであろう」
にこやかに笑う丹波は、感情を顕にしているときの何倍も不気味だった。名誉を重んじる武士の世界にあって、これは屈辱的とも言える処分ではないか。
「確かに、三浦の越権行為はこれで二度めですからな」
うんうんと肯いているのは、羽木である。先日は比較的まともに話ができたが、丹波が傍らにいるとなると、怖いものなしになるのだろう。どこか卑屈的なその表情は、見ていて腹立たしい。鳴海は羽木から目を逸した。
背後からは、目を向けるまでもなく怒りの気配がひしひしと伝わってくる。その気配の主は、和左衛門に違いなかった。
「恐れながら」
樽井が、思い切ったように口を開いた。
「たとえ越権であったとしても、城中に弓矢を向けたわけでもございますまい。そこまでするほどのことでしょうか」
樽井の言葉に、背後から「左様」と肯定の呟きが聞こえてきた。和左衛門である。
「いや、重ね重ね手順を違え献言をし、あまつさえ事情もよくわからないままに己の存念に従えなどというのは、不敬以外の何物でもござらぬ。死罪にしないだけましというもの。三浦のような者を放っておいては、藩の根幹を揺るがすであろう」
丹波もよほど腹に据えかねているのか、声に苛立ちが混じった。
「のう、鳴海。守山の三浦と対峙したお主であれば、あの者らの狡猾さは存じておろう」
こちらに丹波の視線が向けられ、鳴海はぎょっとした。確かに守山の三浦平八郎は厄介だ。間違いなく、二本松の三浦を始めとする勤皇派を通じて尊皇攘夷の同志を募ろうとしているのだろう。だが、鳴海が丹波に諂っていると取られるのも、新たな火種を招きかねない。
こちらへ向けられた視線が、あちこちから突き刺さる。
「確かに、守山は厄介。それは間違いござらぬ」
ゆっくりと言葉を選びながら、鳴海は考えをまとめた。
「だが、江戸で三浦が不穏分子と積極的に関わったという証拠は挙がっているのでしょうか?」
そこが、肝心だった。あのときの藤田の言葉から水戸藩の過激派が江戸でも暗躍しているというのは、疑う余地がなかった。だが、鳴海が藤田から聞いた言葉は状況証拠にしかならない。
丹波が、視線を逸した。
(挙がっていないのか……)
その状況に、鳴海はほっとした。さすがに、藩を引っくり返すような陰謀を企てていたとあれば、死罪は免れない。鳴海も、積極的に藩士を処罰したいわけではなかった。
「……小石川藩邸近くの飯屋で、三浦と水戸藩の猿田と申す若者が同席していたのを、江戸目付の者が目撃しておる」
再び、肝が冷えた。思っていたよりも、状況は限りなく黒に近いということか。
「奴らは変事の謀議をしていたと?」
鳴海の質問に、丹波が再度視線を逸した。この分だと、そこまでの証拠は挙がっていないらしい。丹波からの手紙にあった「数年以内に変事が起こる」という予言は、具体的な謀略を指したものではなく、権太夫の漠然とした予感をうっかり告げたに過ぎないのであろう。であれば、死罪は無理だ。そして、終身揚屋に入れておくという処分も、やりすぎである。
永の暇もしくは、終身揚屋入りさせる。その処分が丹波の口から告げられると、書院にはどよめきが走った。
「永暇か終身揚屋……」
絶句したのは、三浦権太夫の義弟に当たる樽井弥五右衛門だった。永暇は免官の上で武士としての公権を停止する処分だった。揚屋は、いわゆる牢屋である。そのような処分に処されるというのは、よほどのことである。丹波の怒りの深さがその一事からも知れる。
「それはあまりにも厳しすぎるのではございませぬか」
庇い立てする樽井に対し、丹波は首を横に振った。
「いや、寧ろ甘すぎるくらいであろう」
にこやかに笑う丹波は、感情を顕にしているときの何倍も不気味だった。名誉を重んじる武士の世界にあって、これは屈辱的とも言える処分ではないか。
「確かに、三浦の越権行為はこれで二度めですからな」
うんうんと肯いているのは、羽木である。先日は比較的まともに話ができたが、丹波が傍らにいるとなると、怖いものなしになるのだろう。どこか卑屈的なその表情は、見ていて腹立たしい。鳴海は羽木から目を逸した。
背後からは、目を向けるまでもなく怒りの気配がひしひしと伝わってくる。その気配の主は、和左衛門に違いなかった。
「恐れながら」
樽井が、思い切ったように口を開いた。
「たとえ越権であったとしても、城中に弓矢を向けたわけでもございますまい。そこまでするほどのことでしょうか」
樽井の言葉に、背後から「左様」と肯定の呟きが聞こえてきた。和左衛門である。
「いや、重ね重ね手順を違え献言をし、あまつさえ事情もよくわからないままに己の存念に従えなどというのは、不敬以外の何物でもござらぬ。死罪にしないだけましというもの。三浦のような者を放っておいては、藩の根幹を揺るがすであろう」
丹波もよほど腹に据えかねているのか、声に苛立ちが混じった。
「のう、鳴海。守山の三浦と対峙したお主であれば、あの者らの狡猾さは存じておろう」
こちらに丹波の視線が向けられ、鳴海はぎょっとした。確かに守山の三浦平八郎は厄介だ。間違いなく、二本松の三浦を始めとする勤皇派を通じて尊皇攘夷の同志を募ろうとしているのだろう。だが、鳴海が丹波に諂っていると取られるのも、新たな火種を招きかねない。
こちらへ向けられた視線が、あちこちから突き刺さる。
「確かに、守山は厄介。それは間違いござらぬ」
ゆっくりと言葉を選びながら、鳴海は考えをまとめた。
「だが、江戸で三浦が不穏分子と積極的に関わったという証拠は挙がっているのでしょうか?」
そこが、肝心だった。あのときの藤田の言葉から水戸藩の過激派が江戸でも暗躍しているというのは、疑う余地がなかった。だが、鳴海が藤田から聞いた言葉は状況証拠にしかならない。
丹波が、視線を逸した。
(挙がっていないのか……)
その状況に、鳴海はほっとした。さすがに、藩を引っくり返すような陰謀を企てていたとあれば、死罪は免れない。鳴海も、積極的に藩士を処罰したいわけではなかった。
「……小石川藩邸近くの飯屋で、三浦と水戸藩の猿田と申す若者が同席していたのを、江戸目付の者が目撃しておる」
再び、肝が冷えた。思っていたよりも、状況は限りなく黒に近いということか。
「奴らは変事の謀議をしていたと?」
鳴海の質問に、丹波が再度視線を逸した。この分だと、そこまでの証拠は挙がっていないらしい。丹波からの手紙にあった「数年以内に変事が起こる」という予言は、具体的な謀略を指したものではなく、権太夫の漠然とした予感をうっかり告げたに過ぎないのであろう。であれば、死罪は無理だ。そして、終身揚屋に入れておくという処分も、やりすぎである。
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