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第一章 義士
江戸の火種(3)
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会議の終了後、下城しようとした鳴海は、新十郎と羽木に呼び止められた。
「鳴海殿。先程のお話について少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
少なくとも、和左衛門と話すよりは気楽である。鳴海は二人を落ノ間に誘った。会議が終わって既に皆下城したのか、他に人の姿は見当たらない。
「鳴海殿。藤田芳之助が郡山に出入りしていたそうですな。あの場にいたという市之進からも、知らせが参りました」
新十郎の顔は、やや強張っていた。新十郎なりに、あの脱藩騒動の顛末は気になっていたらしい。
「左様。郡山の代官所に呼ばれて騒動の助太刀に参った折に、大野屋という旅籠で守山藩の三浦殿と共にいるのに出食わした」
それを聞いた新十郎と羽木が、顔を見合わせた。
「あのとき、やはり藤田を斬るべきでしたでしょうか」
新十郎の言葉に、鳴海は首を横に振った。
「藤田は小者かもしれぬが、水戸の天狗党の息が掛かっているのは間違いない。郡山へ参っていたのも、表向きは水戸の猿田殿の言いつけで守山の情勢を探りに来ていたということであるし、仮に守山領で斬っていたのならば、守山との争いになっていたかもしれぬ。あの男にますます手を出しにくくなっているのは、確かだがな」
その言葉に、羽木も肯いた。
「三浦平八郎は、郡山の助郷騒動の折りに、幕府の人間である小野殿に袖の下を通して、逃がすほどの知恵やつながりのある人物。藤田そのものは恐れる程ではございませぬが、それを陰で使嗾する人間は厄介でござる」
だが、と鳴海は思った。
藤田自身は、その立場をどのように思っているのか。先日の邂逅では、決して見栄えの良い身なりではなかったし、虚勢を張っているようにも感じられた。水戸藩は大藩である。まして、今では全国各地から尊皇攘夷の思想に憧れて、多くの浪士が集っているであろう。その中で、たかだか二本松の一剣士が身を立てることができるものだろうか。藤田自身も切迫していて、思わず江戸での機密を漏らしてしまったのではないか。
「丹波様は、此度の件は非常にお怒りです」
羽木の言葉に、鳴海は何とも言いようがなかった。鳴海自身も、丹波とはそれなりに付き合いがあった。鳴海なりに丹波の気性を理解しており、改めて羽木の口から言われることのほどではない。さらに、羽木が気を回したと思われる郡山の女達の一件は不快でしかなかった。その鳴海の不快感にお構いなしに、羽木は言葉を続けた。
「藤田家の場合、八郎兵衛家まで処分を及ぼしたでしょう?あれがやりすぎだという声が一部であるのも、また事実。然らば、たかだか丹波様への献言のみを以て処分するのもやりすぎの感はありますが、背後に水戸が絡んでいるとなると……」
羽木の隣に座っている新十郎が、渋面を作った。確かに、羽木の言う通りである。二人がわざわざ鳴海に個人的に話を通しにきたのは、鳴海が三浦平八郎が対峙して一筋縄ではいかない男であることを、身を以て知っているからだろう。その経験を踏まえた上で、鳴海の意見を聞きたいに違いなかった。
「三浦の場合は、藤田のような処断をするのは愚策ではあるまいか」
熟考の末、鳴海はきっぱりと言い切った。
「三浦一族は、古くからの忠臣。たとえ権太夫一人が妙な思想の持ち主だとしても、一族の藩公への忠義心は本物だ。さらに、あの男は多くの御仁から人望を集めている。それに対して果断な処分をしたとなれば、いらぬ反発を招こう。その加減を丹波様が見誤らならければ、の話だがな」
三浦一族が本来は忠臣であるのは、権太夫の叔父である小川平助や十右衛門の話からも、感じられることだった。
鳴海の言葉に新十郎は苦笑し、羽木は渋い顔をした。
「丹波様の御振る舞いが決して私情のものだけではないのは、鳴海殿もよく存じておろうに」
「存じて上げてはおるが、丹波様のお振る舞いも誤解されるものが多すぎる。たとえば、江戸から丹波家の学問指南として招いたはずの者に、芸妓達の行儀作法を仕込んでもてなさせるなど、力を注ぐべき箇所がずれておろう」
鳴海は、ちくりと先日のことを皮肉ってみせた。二本松に帰ってきてから、玲子に「金子類という女性を知っているか」と尋ねたところ、どうやら丹波家の学問指南役として招かれているらしいとの話を教えてくれたのだった。もっともあの女達がきっかけで、三浦平八郎らと邂逅したようなものだが。
「お気に召しませんでしたか」
色事の話をしているというのに、真面目な顔をしてみせる羽木に、新十郎も呆れた顔を向けた。
「羽木殿……。何をなさったのです」
鳴海にとっても、不名誉な話である。さり気なく話を元に戻すことにした。
「かような浮かれた真似も、勤皇派からすれば付け入る隙となる。今後は、あのような真似事は一切謹んでもらいたい」
組頭として、そこは、きっぱりと羽木に伝えなければならなかった。
「鳴海殿。先程のお話について少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
少なくとも、和左衛門と話すよりは気楽である。鳴海は二人を落ノ間に誘った。会議が終わって既に皆下城したのか、他に人の姿は見当たらない。
「鳴海殿。藤田芳之助が郡山に出入りしていたそうですな。あの場にいたという市之進からも、知らせが参りました」
新十郎の顔は、やや強張っていた。新十郎なりに、あの脱藩騒動の顛末は気になっていたらしい。
「左様。郡山の代官所に呼ばれて騒動の助太刀に参った折に、大野屋という旅籠で守山藩の三浦殿と共にいるのに出食わした」
それを聞いた新十郎と羽木が、顔を見合わせた。
「あのとき、やはり藤田を斬るべきでしたでしょうか」
新十郎の言葉に、鳴海は首を横に振った。
「藤田は小者かもしれぬが、水戸の天狗党の息が掛かっているのは間違いない。郡山へ参っていたのも、表向きは水戸の猿田殿の言いつけで守山の情勢を探りに来ていたということであるし、仮に守山領で斬っていたのならば、守山との争いになっていたかもしれぬ。あの男にますます手を出しにくくなっているのは、確かだがな」
その言葉に、羽木も肯いた。
「三浦平八郎は、郡山の助郷騒動の折りに、幕府の人間である小野殿に袖の下を通して、逃がすほどの知恵やつながりのある人物。藤田そのものは恐れる程ではございませぬが、それを陰で使嗾する人間は厄介でござる」
だが、と鳴海は思った。
藤田自身は、その立場をどのように思っているのか。先日の邂逅では、決して見栄えの良い身なりではなかったし、虚勢を張っているようにも感じられた。水戸藩は大藩である。まして、今では全国各地から尊皇攘夷の思想に憧れて、多くの浪士が集っているであろう。その中で、たかだか二本松の一剣士が身を立てることができるものだろうか。藤田自身も切迫していて、思わず江戸での機密を漏らしてしまったのではないか。
「丹波様は、此度の件は非常にお怒りです」
羽木の言葉に、鳴海は何とも言いようがなかった。鳴海自身も、丹波とはそれなりに付き合いがあった。鳴海なりに丹波の気性を理解しており、改めて羽木の口から言われることのほどではない。さらに、羽木が気を回したと思われる郡山の女達の一件は不快でしかなかった。その鳴海の不快感にお構いなしに、羽木は言葉を続けた。
「藤田家の場合、八郎兵衛家まで処分を及ぼしたでしょう?あれがやりすぎだという声が一部であるのも、また事実。然らば、たかだか丹波様への献言のみを以て処分するのもやりすぎの感はありますが、背後に水戸が絡んでいるとなると……」
羽木の隣に座っている新十郎が、渋面を作った。確かに、羽木の言う通りである。二人がわざわざ鳴海に個人的に話を通しにきたのは、鳴海が三浦平八郎が対峙して一筋縄ではいかない男であることを、身を以て知っているからだろう。その経験を踏まえた上で、鳴海の意見を聞きたいに違いなかった。
「三浦の場合は、藤田のような処断をするのは愚策ではあるまいか」
熟考の末、鳴海はきっぱりと言い切った。
「三浦一族は、古くからの忠臣。たとえ権太夫一人が妙な思想の持ち主だとしても、一族の藩公への忠義心は本物だ。さらに、あの男は多くの御仁から人望を集めている。それに対して果断な処分をしたとなれば、いらぬ反発を招こう。その加減を丹波様が見誤らならければ、の話だがな」
三浦一族が本来は忠臣であるのは、権太夫の叔父である小川平助や十右衛門の話からも、感じられることだった。
鳴海の言葉に新十郎は苦笑し、羽木は渋い顔をした。
「丹波様の御振る舞いが決して私情のものだけではないのは、鳴海殿もよく存じておろうに」
「存じて上げてはおるが、丹波様のお振る舞いも誤解されるものが多すぎる。たとえば、江戸から丹波家の学問指南として招いたはずの者に、芸妓達の行儀作法を仕込んでもてなさせるなど、力を注ぐべき箇所がずれておろう」
鳴海は、ちくりと先日のことを皮肉ってみせた。二本松に帰ってきてから、玲子に「金子類という女性を知っているか」と尋ねたところ、どうやら丹波家の学問指南役として招かれているらしいとの話を教えてくれたのだった。もっともあの女達がきっかけで、三浦平八郎らと邂逅したようなものだが。
「お気に召しませんでしたか」
色事の話をしているというのに、真面目な顔をしてみせる羽木に、新十郎も呆れた顔を向けた。
「羽木殿……。何をなさったのです」
鳴海にとっても、不名誉な話である。さり気なく話を元に戻すことにした。
「かような浮かれた真似も、勤皇派からすれば付け入る隙となる。今後は、あのような真似事は一切謹んでもらいたい」
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