鬼と天狗

篠川翠

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第一章 義士

小原田騒動(5)

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「夏以来ですな、大谷鳴海殿」
 平八郎が微かに笑った。この男が、先刻の騒ぎを仕組んだに違いない。大方、二本松の名主ら怒りを恐れる小野から、あらかじめ袖の下でも受け取っていたのだろう。わからないのは、なぜそこまでして二本松にちょっかいを出すか、である。
 鳴海は黙って三浦を見つめた。相変わらず、この男の腹は読めない。
「藤田、なぜお主が郡山におる」
 怒りと戸惑いの色を滲ませながら芳之助を詰問したのは、市之進だった。この分であれば、鳴海が芳之助に二本松領への出入りを禁じているのも、耳にしているのだろう。
「水戸表の所用で、郡山に来ていただけですよ」
 二本松の面々から視線を逸らせながら、芳之助が答えた。
「拙者も同じこと。守山では旨い酒が飲めぬ故、郡山に出て参りました」
 平八郎は、ゆったりと笑ってみせた。守山は農村地帯であり、楼閣はない。遊ぶとなれば、二本松領である郡山に出てくるか、白河藩領である須賀川に足を運ぶのが通例だった。
「それにしても、五番組の方々とこのような場所でお目に掛かるとは。片隅に置けませぬな」
 笑いながら冗談を飛ばす平八郎に対して、部下たちが殺気を膨らませるのが、肌で感じられた。女達も、おろおろと視線を彷徨わせている。
「ちょいとお侍様たち、揉め事は困りますよ」
 年嵩の女が、きつい声色で抗議の声を上げた。
「下がっておれ」
 鳴海は女らに命じると、女たちは慌てて廊下に転げ出た。
 この男たちには、夏にも面目を潰されている。今度は部下らの手前、二本松を虚仮にされたままでいるわけにはいかなかった。
「あの者らを呼ばれたのは、三浦殿らではございませぬか」
 鳴海の牽制に、平八郎が眉を上げてみせる。
「とんでもない。手前共は、男だけで酌み交わすだけで十分でござれば」
 となると、女達が押しかけてきたのは、別の人物の差し金ということになる。それが誰なのかも気になるが、先程の邪魔立てを片付けることが先決だ。
「それはこちらも同じこと。女は勝手に押しかけてきたまで」
「それは、困ったものですな。商売女とは言え、二本松の方々も驚かれたでしょう」
 ふくふくとした顔に笑顔を浮かべ続ける平八郎とは対象的に、芳之助の顔色は冴えない。かつては青々と剃り上げられていた月代さかやきにもまばらに地毛が生え、目元には小皺が刻まれていた。
「ところで、三浦殿が藤田を二本松領内に連れてきているのは、どのようなわけか。お聞かせ願いたい」
 背後で、部下たちが固唾を呑んで事態を見守っているのが感じられる。こちらは四人の手練、相手は二人。いざとなれば勝てる人数だが、やはりここで揉め事を起こすのは望ましくなかった。
「なに、藤田殿が守山に水戸表の御使者として遣わされた故、連れ立ってきたまででござる。のう、藤田殿」
 平八郎の助け舟に、芳之助は安堵の色を浮かべた。
「時雍館の猿田様から、守山の領民らが幕府の無理難題に対してどれほど困っているか、実際の様子を伺って参れとの命を受けて守山まで来ていたまで。その詳細を、三浦殿から伺っておりました」
「猿田殿というのは、水戸藩の英才というお話でしたな」
 答える芳之助を無視して、鳴海は再び平八郎に語りかけた。確かに守山藩は水戸藩の御連枝だが、名目上は他藩である。鳴海自身は水戸藩の内情に通じているわけではないが、水戸藩預かりの人間と守山藩の重鎮が連れ立って郡山に遊びに来るというのも、不自然に感じられた。やはり、何かある。
 しばし沈黙が流れた後、鳴海はもう一つ気にかかっていたことを口にした。
「三浦平八郎殿は、二本松の三浦一族の遠縁だと伺いました」
 二本松の面々が、色めき立つ。二月に起きた三浦権太夫の公への直訴は、広く知られている事件だった。だが、それも二本松の内政を撹乱させるのが目的で、平八郎が使嗾したのではないか。鳴海は暗にそう告げたつもりだった。
「ご存知でしたか。三浦は古くから坂東武者として知られ、東国を中心にあちこちにおりますからな。私も、どれほど散っているか把握しかねる始末です」
 世間話の一つとして朗らかに笑い飛ばす平八郎の言葉は、傍目には世間話の一つとして聞こえただろう。
 簡単に、尻尾は掴ませてくれない。
「それにしても、鳴海殿と五番組の方々が郡山に遊びにいらっしゃっているとは、驚きましたな」
 自身が無視されたことに焦れたのか、芳之助が口を挟んできた。
「馬鹿。遊びではない」
 いきり立つ成渡を目で制して、鳴海は初めて芳之助の方に視線を向けた。
「我々は郡山の代官所に顔を出しに来たまで。代官所で祭囃子を聞こうとは、思わなかったがな」
 どうやらこちらの方を突いた方が、手っ取り早そうである。案の定、芳之助は顔色を変えた。やはり先程小野を逃したのは、この男たちだったか。本来の芳之助の性根は、単純である。その単純な芳之助に小野を逃がすように指示を出したのは、三浦だろう。
「守山も慣れぬ助郷の求めに応じるのは大変だろうが、このままでは、二本松も困る。小野殿との減免交渉の機会を潰されたとあっては、郡代の方々も黙ってはおるまい」
 鳴海の言葉に、市之進も肯いた。
「左様。鳴海様の申されるように、和左衛門様などは、決してご納得されないでしょうな」
「和左衛門殿、ねえ……」
 平八郎殿が、薄っすらと口元に笑みを浮かべた。この分だと、和左衛門のことも知っているに違いない。やはり、新十郎が危惧していたように、和左衛門にも働きかけていると見るべきか。
「和左衛門様は、民らを愛し、忠国の志の篤い方ではございませぬか。自ら百姓らとも交わる、清廉な方でございまする」
 芳之助は、なぜかこの場にいない和左衛門を庇い立てした。以前は愛農精神を語ることなどなかったのに、よほど水戸藩の愛農謝民の考えに心酔していると見える。
「芳之助。脱藩者が、二本松の内情を語ることが許されるとは思っていないだろうな」
 鳴海の叱責に、芳之助が首を竦めた。その首筋には、ほつれ毛が見える。着ている物も、農民の野良着とあまり変わらない粗末な身なりだった。案外この男、気負って二本松を脱藩してみたものの、水戸ではさほど丁重に扱われていないのではないか。
「鳴海殿。このような場所に五番組の方々と参られていらっしゃる事といい、どうやら丹波様に似てきましたな」
「口を慎め、芳之助」
 口を挟むのを遠慮していた孫九郎が、芳之助を睨みつけた。
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