鬼と天狗

篠川翠

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第一章 義士

小原田騒動(3)

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 代官所の広間は、さほど広いものではない。だが、確かに剣呑な空気が漂っていた。詰番である鳴海は上座の奥の方に座り、その左手に市之進が座る。また、成渡と孫九郎は一段下がった位置で正座しており、奥の間の中央では、常任郡代である羽木権蔵と、錦見、そして戸城が名主らと対峙していた。
 さらに、鳴海と市之進の向かいには、やや卑屈な目つきをした五十絡みと思しき男が座っていた。あれは、幕府の道中奉行の手代だという小野だろう。
「錦見様、戸城様。これ以上、人馬を出すのは無理でございます。どうか、ご寛恕を」
 真っ先に頭を下げたのは小原田組の名主、佐藤東兵衛と佐藤泰蔵だった。それに対して幕府の役人である小野は、頭を振った。
「そうは申されるが、来年の春にはまた参勤交代もある。既に守山にも無理を申して当分助郷を頼んでおるのだ。街道筋の二本松がお役目から逃げるのは、許されないことですぞ」
 名主同士が、顔を見合わせた。
「守山にも……」
 錦見が呟いた。それは、郡山代官である錦見も初耳だったらしい。同席を頼まれた鳴海も、その言葉にざらりとしたものを感じた。
 隣藩である守山藩は、奥州街道には面していない。そのため、ほとんどの村で助郷免除が許されていた。元々小藩である上に、守山藩は阿武隈川に面した土地が多く、洪水や川欠の被害に遭いやすい土地である。そのため、それらの普請に従事させられる者が多く、また、荒地や余っている土地が多いという問題を抱えていた。ただ一点、小野ですら口を挟めない事情を除いては、確かに二本松よりも貧しい守山でさえ助郷を引き受けるのだから、二本松が寄人馬を拒否するのは許されないと言えた。
「恐れながら」
 思い切ったように、戸城が小野の顔を見据えた。
「安政三年の騒動の折り、守山は結局助川表の山野辺やまのべ主水正もんどのしょう様のところへ越訴を行い、助郷を免除されたと伺っております。その一方で、二本松の負担は軽くはなりませんだ。此度も同じようなことが繰り返されるとも限りませぬ」
 小野が視線を逸した。心当たりがあるのだろう。
 戸城の説明通り、助郷の負担増大は今に始まったことではない。だが、守山藩の農民はあろうことか、わざわざ常州にある助川まで出向き、その城主である山野辺主水正に越訴して働きかけ、助郷免除をもぎ取ったのだった。
 城主の山野辺主水正は、水戸藩における執政である。守山藩が水戸の御連枝であることを利用しての奇策だったが、さすがの幕府も、御三家の意見は無視できなかったらしい。二本松領民、とりわけ領地を接する郡山組の「守山ばかりずるい」という感情は、そのまま二本松藩の代官らに向けてぶつけられたのだった。
「そうでございます。何故二本松ばかり負担が重くなるのか、ご説明願いたい」
 郡山の名主である今泉も、力強く肯いた。対岸の守山ばかりが負担軽減に成功しているのを目の当たりにしているのでは、民らも面白くないだろう。直接農民らに手伝いを命じる名主らも、それは同じである。本来は別々の組である郡山組と大槻組が連携してまで幕府に訴えたというのは、両組ともよほど農民らからの怨嗟の声を聞かされているに違いなかった。
「私とて、二本松の方々には申し訳ないと思う」
 小野が小声で絞り出すように呻いた。
 この男は、目つきに反して案外人柄は悪くないのかもしれない。だが、守山藩やその背後にいる水戸藩に物申すほどの気概はない。畳数枚分を挟んで向かい合っている鳴海は、醒めきった目で小野を見つめた。
「では守山藩から、必ずや助郷を負担してもらうという誓詞でも取られたらいかがか」
 気がつくと、鳴海の口からそのような言葉が滑り出ていた。武官が政に口を挟むのは禁物。わかってはいるが、守山の名前が出てきたのでは、黙っていられなかった。横で、市之進が驚きに目を見開いているのをひしひしと感じる。
 目の前の小野は、真冬だというのに、だらだらと流れる冷や汗をしきりに懐紙で拭っていた。
「いや、それは……」
 小野の態度は煮え切らない。だが、二本松藩側の空気が、一気に「二本松の助郷軽減、もしくは守山への負担分担」に傾くのがわかった。
「差し当たり、道中奉行へご報告はさせていただくが……」
 ぐずぐずと申し開きを続けようとする小野に対し、名主らの敵意が向けられる。
「今この場で、決められよ」
「守山にも助郷を求められたい」
 わあわあと口々に名主らが喚き、広間に熱気が立ち込める。熱気は次第に殺気へ変わってきた。このままではまずい。鳴海は部下たちに目配せをして、鯉口を切ろうとした。だが、そのときである。
 ピーヒャラピーヒャラと、外から季節外れの祭囃子が聞こえてきた。鳴海も面食らって、他の者達と顔を見合わせた。
「郡山で、今宵祭りの予定はあったか?」
「いえ、そのようなはずはありませぬ」
 錦見も、首を傾げている。郡山代官である錦見が、祭りの予定を知らないわけがない。
「様子を見てまいりましょう」
 咄嗟に、小野が腰を浮かせて表へ飛び出した。しばらくすると、笛の音は止んだが、小野は一向に戻ってこない。
 はっとした顔を、市之進が鳴海に向けた。
「図られましたな」
 その声には、苦々しさが滲んでいた。鳴海も、怒りながらも肯くしかなかった。先程の季節外れの祭囃子は、何者かが小野を逃がすために外の騒ぎを仕組んだに違いなかった。
「だが、誰が……」
 成渡が呟いた。確かに、誰が仕組んだものか。
「誰だっていいですよ。ですが肝心の小野様に逃げられたのでは、助郷を引き受けるほか、あるまい」
 名主の一人が吐き捨てた。この分だと、不満は錦見や戸城に向けられるだろう。さすがに気の毒に思いながら、鳴海は黙って首を振った。
「鳴海殿。せっかく郡山までご足労いただきながら、このような始末になり、申し訳ない」
 錦見は、平謝りしている。だが、こればかりは仕方がなかった。
「まずは、刃傷沙汰に及ばずに良かった」
 鳴海は無理に笑顔を作ってみせたが、笑いながらも、頭の中は先程の騒ぎの首謀者のことで、一杯だった。

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