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第一章 義士
律の調べ(5)
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十月半ば、二本松藩に江戸にいる丹波から、早馬が来た。早馬が飛ばされたということは、何か江戸で大事が起きたということに違いない。城中に緊張が走ったが、知らせは意外なものだった。
長国公が家臣一同を集めて開かれた御前会議で披露されたその話は、突如持ち上がったものらしかった。
照子姫の縁組はかねてより決まっていたことだが、ここへ来て、公の実弟である祐吉君の養子の話が持ち上がったというのである。祐吉君は時には兄の名代を務めることもあったが、その気性は、幼少の頃からおっとりとした公とは対照的だった。
長国公がその話を披露すると、家臣たちの間にざわめきが走った。縁組を持ってきた結城藩も、大垣藩と同じように譜代大名筋の小藩だが、二本松とは縁が薄い。
「確か、結城藩のご当主は水野勝任様でしたな。もしや、お体の具合が?」
源太左衛門が、長国公に尋ねた。江戸の噂話を持ち出したところを見ると、在府中の丹波辺りから、定期的に各藩の動向の知らせを受け取っているらしい。
長国公が、その言葉に肯く。
「物入りになってすまぬが、ぜひ当家の祐吉をと先方より希望があった。我が家としては、この言葉に応じたい」
いわゆる、末期養子である。遥か昔は禁じられていたはずだが、今では随分と緩やかになり、大名同士でも末期養子を持ちかけられるのは、ままある話だった。
それにしても、急な話だった。二本松藩の威信もかかる話であるから、身一つで祐吉君を養子に行かせるわけにはいかない。公の仰るように新たな財政的負担は避けられず、また勘定方が渋い顔をするだろう。
長国が側にいた祐吉に顔を向けた。
「祐吉、良いな?」
「兄上の仰せとあらば、喜んで結城に参りましょう。入藩のあかつきには、二本松との紐帯を深める所存です」
祐吉にとっても、寝耳に水の話だっただろう。だが、彼はきっぱりと結城藩に行くと言い切った。自身も思いがけず彦十郎家を継ぐことになった鳴海は、その潔さに感嘆した。
「祐吉様、おめでとうございます」
源太左衛門の言葉に続いて、一同が「おめでとうございます」と次々に唱和する。確かに、めでたい話であるには違いなかった。
祐吉君も、「かたじけない」と述べて、心持ちはにかんだ笑みを浮かべた。譜代大名は石高こそ外様大名より低いが、その代わり、幕府の要職を任される。二本松藩の近隣では、先年、磐城藩の安藤正信が大老を勤めた例があった。二本松藩が譜代大名との縁故をつないでおくのも、外交上、必要な施策である。いつまた幕府からどのような難題を押し付けられるかわからず、そのときに折衝できる伝手は確保しておく必要があった。
だが、長国公が自室へ戻り、家臣たちだけになると、あからさまに不満を口にしたのは、やはり和左衛門だった。
「縁組のための費用はいかがなされるおつもりか、源太左衛門殿」
和左衛門が、源太左衛門を睨みつけた。
「才覚金を課すしかあるまい」
源太左衛門も、ため息をついた。つまりは、平民からの借り上げである。
「またか」
和左衛門のあからさまな当てこすりのため息に、源太左衛門が軽く睨み返した。だが、実際に才覚金の徴収に当たる行政部門の責任者は、和左衛門ら郡代や郡奉行である。鳴海がそっと他の郡代に目を向ければ、常任の郡代である羽木権蔵は当然といった面持ちであり、植木次郎右衛門は表情が読めない。
またしても、広間に剣呑な空気が漂う。身分こそ高いが、原則として、鳴海ら武官は行政に口出しできない。気まずい空気に耐えかねて、鳴海はそっと座を抜け出し、広間の影に建てられている雪隠に足を向けた。用を足し終わって手を洗っていると、思いがけない人物が姿を見せた。
「あ……」
祐吉君は、気まずそうな笑みを浮かべてみせた。かつて、長国公の遊び相手を勤めた鳴海は、長国公と四つ違いの祐吉君とも顔見知りである。
鳴海は、会釈して通り過ぎようとした。
「そう急くな。そなたも、あそこから逃げてきたのだろう?」
祐吉君が、いたずらっぽい笑みをこちらへ向けた。
「お気づきになられていましたか」
鳴海は、肩を竦めた。身分の隔たりこそあるが、祐吉君ともかつては散々共に遊んだ仲である。今更、自分の性分を隠すこともなかった。
「武官が政に口を挟むは、国の乱れにつながります。ですが、武官が政の大局を知っておくのも、また国の平穏を保つためには必要かと」
「……というのが、山鹿流の教えだな。平助に教わったか」
祐吉君が、くすりと笑った。さすが、藩公の弟なだけあって、聡明である。この言い様からすると、祐吉君自身も、山鹿流の教えを学んだのかもしれなかった。
そして、深々とため息をついた。
「二本松の懐が苦しいのは、兄上も私もわかっているのだがな……。幕府に少しでも伝手を持てるのならば、それに越したことはなかろう」
長国公が家臣一同を集めて開かれた御前会議で披露されたその話は、突如持ち上がったものらしかった。
照子姫の縁組はかねてより決まっていたことだが、ここへ来て、公の実弟である祐吉君の養子の話が持ち上がったというのである。祐吉君は時には兄の名代を務めることもあったが、その気性は、幼少の頃からおっとりとした公とは対照的だった。
長国公がその話を披露すると、家臣たちの間にざわめきが走った。縁組を持ってきた結城藩も、大垣藩と同じように譜代大名筋の小藩だが、二本松とは縁が薄い。
「確か、結城藩のご当主は水野勝任様でしたな。もしや、お体の具合が?」
源太左衛門が、長国公に尋ねた。江戸の噂話を持ち出したところを見ると、在府中の丹波辺りから、定期的に各藩の動向の知らせを受け取っているらしい。
長国公が、その言葉に肯く。
「物入りになってすまぬが、ぜひ当家の祐吉をと先方より希望があった。我が家としては、この言葉に応じたい」
いわゆる、末期養子である。遥か昔は禁じられていたはずだが、今では随分と緩やかになり、大名同士でも末期養子を持ちかけられるのは、ままある話だった。
それにしても、急な話だった。二本松藩の威信もかかる話であるから、身一つで祐吉君を養子に行かせるわけにはいかない。公の仰るように新たな財政的負担は避けられず、また勘定方が渋い顔をするだろう。
長国が側にいた祐吉に顔を向けた。
「祐吉、良いな?」
「兄上の仰せとあらば、喜んで結城に参りましょう。入藩のあかつきには、二本松との紐帯を深める所存です」
祐吉にとっても、寝耳に水の話だっただろう。だが、彼はきっぱりと結城藩に行くと言い切った。自身も思いがけず彦十郎家を継ぐことになった鳴海は、その潔さに感嘆した。
「祐吉様、おめでとうございます」
源太左衛門の言葉に続いて、一同が「おめでとうございます」と次々に唱和する。確かに、めでたい話であるには違いなかった。
祐吉君も、「かたじけない」と述べて、心持ちはにかんだ笑みを浮かべた。譜代大名は石高こそ外様大名より低いが、その代わり、幕府の要職を任される。二本松藩の近隣では、先年、磐城藩の安藤正信が大老を勤めた例があった。二本松藩が譜代大名との縁故をつないでおくのも、外交上、必要な施策である。いつまた幕府からどのような難題を押し付けられるかわからず、そのときに折衝できる伝手は確保しておく必要があった。
だが、長国公が自室へ戻り、家臣たちだけになると、あからさまに不満を口にしたのは、やはり和左衛門だった。
「縁組のための費用はいかがなされるおつもりか、源太左衛門殿」
和左衛門が、源太左衛門を睨みつけた。
「才覚金を課すしかあるまい」
源太左衛門も、ため息をついた。つまりは、平民からの借り上げである。
「またか」
和左衛門のあからさまな当てこすりのため息に、源太左衛門が軽く睨み返した。だが、実際に才覚金の徴収に当たる行政部門の責任者は、和左衛門ら郡代や郡奉行である。鳴海がそっと他の郡代に目を向ければ、常任の郡代である羽木権蔵は当然といった面持ちであり、植木次郎右衛門は表情が読めない。
またしても、広間に剣呑な空気が漂う。身分こそ高いが、原則として、鳴海ら武官は行政に口出しできない。気まずい空気に耐えかねて、鳴海はそっと座を抜け出し、広間の影に建てられている雪隠に足を向けた。用を足し終わって手を洗っていると、思いがけない人物が姿を見せた。
「あ……」
祐吉君は、気まずそうな笑みを浮かべてみせた。かつて、長国公の遊び相手を勤めた鳴海は、長国公と四つ違いの祐吉君とも顔見知りである。
鳴海は、会釈して通り過ぎようとした。
「そう急くな。そなたも、あそこから逃げてきたのだろう?」
祐吉君が、いたずらっぽい笑みをこちらへ向けた。
「お気づきになられていましたか」
鳴海は、肩を竦めた。身分の隔たりこそあるが、祐吉君ともかつては散々共に遊んだ仲である。今更、自分の性分を隠すこともなかった。
「武官が政に口を挟むは、国の乱れにつながります。ですが、武官が政の大局を知っておくのも、また国の平穏を保つためには必要かと」
「……というのが、山鹿流の教えだな。平助に教わったか」
祐吉君が、くすりと笑った。さすが、藩公の弟なだけあって、聡明である。この言い様からすると、祐吉君自身も、山鹿流の教えを学んだのかもしれなかった。
そして、深々とため息をついた。
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